日銀は「夢から醒めてはならないピーターパン」。「夢」の中を11年飛び続けた黒田日銀を引き継いだ植田日銀を待ち受ける「墜落」の恐怖
「バリバリの金融実務家であった私が、わからないことがあれば一番頼りにし、最初に意見を求めたのが山本謙三・元日銀理事です。安倍元総理が、もし彼がブレインに選んでいたら、今の日本経済はバラ色だったに違いない」
元モルガン銀行・日本代表兼東京支店長で伝説のトレーダーと呼ばれる藤巻健史氏が心酔するのが元日銀理事の山本謙三氏。同氏は、「異次元緩和」は激烈な副作用がある金融政策で、その「出口」には途方もない困難と痛みが待ち受けていると警鐘を鳴らす。
黒田日銀は、長期金利をゼロ％程度に抑え込むために、多額の国債買い入れを行った。その結果、日銀の国債保有残高は約590兆円に達し、日銀当座預金残高も、国債買い入れに見合う形で約561兆円に積み上がった（24年3月末時点）。しかし、史上まれにみる超金融緩和を10年以上も行ったにもかかわらず、長らく物価も賃金も上がらなかった。「国民のインフレ期待（心理）を変える」と大見得きった黒田日銀はなぜ公約を実現できなかったのか。
※本記事は山本謙三『異次元緩和の罪と罰』から抜粋・編集したものです。
夢から醒めてはならないピーターパン
異次元緩和は、「国民のインフレ期待（心理）を変える」ことに主眼を置いた政策だった。一貫して威勢のよい発言が続けられたのも、日銀が自信を示すことで、国民の心理をひきつける狙いがあったからなのだろう。
2013年4月に導入を決めた金融政策決定会合後の記者会見で、黒田総裁は「次元の違う金融緩和」と呼び、「戦力の逐次投入をせずに、現時点で必要な政策をすべて講じた」と胸を張った。岩田規久男副総裁は、就任前の国会質疑で、「日銀は、消費者物価の上昇率2％を必ず達成する、その達成責任を全面的に負う」と述べたうえで、2年で達成できないとすれば、「最高の責任の取り方は辞職するということ」と言い切った。さらに、同年3月21日の就任記者会見で同副総裁は「（目標を）達成できなかったとき、『自分たちのせいではない。他の要因によるものだ』と、あまり言い訳をしないことだ」とも語った。
しかし、物価上昇率は2年どころか、開始から9年の間2％を下回り続けた。「戦力の逐次投入はせず」との言葉とは裏腹に、追加の施策が次々と投入された。岩田副総裁も途中で辞任することなく、5年の任期を全うした。
これらのエピソードからは、当時の日銀執行部の自信や高揚感が感じられるとともに、国民に「物価目標は必ず達成されるもの」と信じ込ませようとの気迫が伝わってくる。
そうした日銀の姿勢を端的に表したのが、2015年6月に開催した国際コンファランスでの黒田総裁の開会挨拶だった。総裁は、コンファランスの論点として、非伝統的政策のあり方などをあげたのち、挨拶の結語として、ピーターパンの物語の中から「飛べるかどうかを疑った瞬間に永遠に飛べなくなってしまう」という言葉を引用した。そのうえで、「大切なのは、前向きな姿勢と確信です」と強調した。
「前向きな姿勢と確信」は耳に心地よい言葉だが、考えてみれば「信じる者は救われる」という類の話でもあった。人々の心理形成をあまりに単純化していた。
ピーターパンの冒険の舞台は、ネバーランドという名の、実在しない架空の国の話である。夢から醒めて現実に戻れば墜落しかねない。それゆえに夢の中を飛び続けた11年だったように見えてならない。以下、当初の達成期限をいつまでも実現できなかったにもかかわらず、なぜ立ち止まることができなかったのかを考えてみたい。
理論先行の実験：「国民の期待（心理）を変える」政策
期待（心理）重視の政策は、経済学の世界からやってきた。1970年代以降、経済学の世界では、人々の経済的な意思決定のモデルに「期待（expectation）」の要素を組み込んで、マクロ経済的な意味合いを引き出そうとする動きが活発になっていた。
たしかに、経済事象の分析に当たっては、心理の果たす役割を無視することはできない。典型はバブル経済である。土地価格が上昇するのは「みなが土地の値段が上がると信じているからだ」とするのは、必ずしも間違いではない。地価が上がるとみなが信じれば、買いが買いを呼び、実際にも土地の値段は上がる。逆にみなが地価は下がると信じるようになれば、売りが売りを呼び、地価は下がる。バブルの発生と崩壊である。
こうした期待や予想の役割を重視して日本の金融政策に適用すべきとの議論を展開したのが、第2章で紹介したニューヨーク市立大学のクルーグマン教授だった。人々のインフレ期待（心理）を高め、予想物価上昇率（物価上昇率の見通し）を引き上げてやれば、経済を活性化させ、ゼロ金利制約を克服できるという主張だった。
日本国内も、リーマンショック以来の経済の停滞を眺め、「デフレ脱却のために何でもやるべき」「やって失うものは何もない」といった論調にあふれていた。
そうした主張や論調を踏まえ、「国民のインフレ期待（心理）を変える」ことを全面に押し出して行った政策が、異次元緩和だった。政策の要は、2％目標の達成を2年程度という期間を定めて明確に約束することであり、「物価は上がる」と人々に信じ込ませる仕掛けを用意することだった。その仕掛けが、市場から買い入れる国債の平均残存期間（償還までの期間）を2倍にし、資金供給量を2倍にするという施策だった。
異次元緩和を決定した当日の記者会見で黒田総裁は「金融政策はコミットメントが非常に大事であるし、そのコミットメントが市場関係者のみならず経済主体に分かりやすく伝わって期待を変えることが非常に重要だ」と語り、国民の期待（心理）を変えてみせるとの並々ならぬ意欲を明らかにした。
しかし、日銀が人々の心理形成メカニズムを熟知しているわけではなかった。どうすればインフレ期待を高められるかも十分には分かっていなかった。高められたとしても、永続するかどうかもよく分かっていなかった。「期待」を組み込んだ経済モデルをつくることはできても、将来予測に耐えられるほど成熟したモデルではなかった。資金量を増やせば物価が上がるという理屈は不確かなものだった。
自信満々で始めた日銀にしてみれば、国民の反応は期待外れだっただろう。だが、そもそも多くの国民は、日銀がどのような目標を掲げているか自体を知らなかったし、現在もそうだ。物価が上がると人々が信じるかどうか以前の問題である。
端的に示すのが、日銀が3ヵ月ごとに行っている「生活意識に関するアンケート調査」の結果である。異次元緩和の導入を機に、日銀は、2013年9月のアンケート項目に「日本銀行が、消費者物価の前年比上昇率2％の『物価安定の目標』を掲げていることをご存知ですか」との質問を加えた。
回答欄には「知っている」「見聞きしたことはあるが、よく知らない」「見聞きしたことがない」の3つの選択肢が用意されている。2024年3月までの10年半にわたる回答結果の平均は、「知っている」が26％、「見聞きしたことはあるが、よく知らない」が34％、「見聞きしたことがない」が40％だった（図表7−1）。
国民の4割が物価目標政策を「見聞きしたことがない」と回答し、これに「見聞きしたことはあるが、よく知らない」とする回答を加えれば、4人に3人が物価目標政策をよく知らなかったことになる。
しかも、異次元緩和を11年近く続けても、アンケート結果の回答は向上していない。「知っている」との回答率のピークは、質問項目にこの問いを加えた初回（2013年9月）の37％であり、以後総じて低下傾向を示した。2024年3月時点も25％にとどまる。
日本人の教育レベルが低いといった話ではない。日銀が思うほどには、国民は日銀に関心を持っていないということである。もし実際に物価が上がっていたならば、多少なりとも認知度は高まっていたかもしれないが、そうもならなかった。
人々のインフレ期待（心理）を変える政策は、理論先行の実験にとどまった。
言葉で繕(つくろ)う政策変更
日銀自身も、物価目標2％の達成を約束し、資金を大量に供給すれば人々のインフレ心理が高まるとの理屈立てに無理があることは、早い段階で気づいていたはずだ。2016年には、資金量重視の方針を金利重視の方針に変えた。2018年には、物価目標の達成時期として掲げた「2年程度」の柱も撤回した。
日銀からの発信も、国民の期待を変えてみせるとのトーンが薄れ、次第に「粘り強く金融緩和を続けることで、経済活動を支え、賃金が上昇しやすい環境を整えていく」との論調に変わった。政策の根本的な変化だった。金融政策の力で物価を上げてみせるという位置付けが、日本経済に必要な構造転換を支えるための政策という位置付けに変わった。
ならば、いったん立ち止まって、異次元緩和をこのまま続けてよいかを考えるべきだったが、そうはならなかった。なぜ、日銀は途中で立ち止まれなかったのだろうか。
最大の理由は、期待を直接変えようとする政策の宿命として、みずからの読み違いを真正面から認めることに強い躊躇があったからだろう。国民に日銀の言質を信じ込ませようとしてきた以上、自らの言質を揺るがすわけにいかなかったのかもしれない。それゆえに対外的な説明はあくまで強気で、追加緩和や政策変更の都度、言葉巧みに政策の一貫性を主張し、異次元緩和の適切さを強調した。
以下、大きな政策変更の都度、どのような説明が行われてきたかを振り返ってみよう。
〈第3の柱「資金量重視」から「金利重視」への方針変更〉
異次元緩和開始からもうすぐ3年を迎えようとする2016年1月、日銀はマイナス金利政策を導入し、資金量重視から金利重視へと一歩踏み出した。しかし、日銀はこの政策を「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」と称し、「〈量〉〈質〉〈金利〉の3つの次元で緩和手段を駆使して金融緩和を進めていく」という説明を行った。量重視の施策の限界が語られることはなく、むしろ「3つの次元」という華々しい表現を伴う説明となった。
しかし、第2章で述べたように、この政策には無理があった。マイナス0.1％の短期金利とマネタリーベースの年間80兆円程度の増加ペースが整合的かという問題である。その影響は、長期金利の下がり過ぎというかたちですぐに表れた。
そこで、日銀は、マイナス金利導入からわずか8ヵ月後の2016年9月、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」と称する新しい枠組みを導入した。
大きなポイントは、それまで年間80兆円程度としてきたマネタリーベースの増加を事実上棚上げし、単に「拡大方針を継続する」に切り替えたことである。すなわち、増加額はプラス80兆円でなく、ゼロ以上であればよくなった。しかも、「マネタリーベースの残高は、イールド・カーブ・コントロールのもとで短期的には変動しうる」との注釈もつけられ、量から金利中心への方針変更が鮮明にされた。
それでも、総裁の定例記者会見では、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」は、従来の「量的・質的金融緩和」あるいは「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」を「さらに強化したもの」とし、「マネタリーベースをターゲットにして行ってきたことは長期的な意味では非常に効果がある」とした。「前の政策を捨てたというわけではなくて、それをさらに強化してこういった形にしている」とも述べた。
しかし、実態は、当初掲げた第3の柱である「マネタリーベースを金融調節上の目標にすること」の撤回だった。しかし、同日導入したイールド・カーブ・コントロールとオーバーシュート型コミットメントの導入というサプライズの陰で、その意味が丁寧に説明されることはなかった。
なお、2016年1月のマイナス金利の導入と9月のイールド・カーブ・コントロールの導入に際しては、複数の審議委員がこの政策に反対票を投じている。1月のマイナス金利政策の決定には4名が反対票を投じ、賛成5反対4の薄氷の決定となった。9月のイールド・カーブ・コントロールの導入時も、2名が反対票を投じている。1月から9月にかけての反対票の減少は、審議委員の交替を反映したものとみられる。
このように審議委員の中には、資金量増加の効果を疑問視する見方や、異次元緩和が市場機能に及ぼす悪影響を懸念する見方があった。言い換えれば、日銀執行部が、一部の反対を押し切って進めたマイナス金利政策とイールド・カーブ・コントロールだった。自信と修飾に満ちた対外説明は、審議委員を含む一部からの批判への反論だったようにも見える。しかし、政策変更を行った2016年以降も、物価目標はいつまでも達成されず、異次元緩和はその後7年半にわたって続けられた。
〈第2の柱「2年程度」の撤回〉
2018年4月、日銀は、物価目標達成の期限として掲げた「2年程度」の柱も撤回した。この経緯には、少し説明が必要だろう。
日銀は、2013年4月に異次元緩和を導入した際、金融政策決定会合の公表文の中で「2年程度の期間を念頭に置いて」と明記し、同日の記者会見ではパネルも持ち出して「2年程度で物価安定目標を達成できるものと思っている」と強調した。
その後は、3ヵ月に一度公表する「経済・物価情勢の展望（展望レポート）」の中で「2％程度に達する時期」を示し、毎回、おおむね2年程度先の時期を記述することで、「2年程度」の柱を維持していた。
しかし、当初のもくろみははずれ、目標はいつまでも達成されなかった。それゆえに、展望レポートの中で示される達成時期は、レポートの発表にあわせ、先へ先へとロールオーバー（先送り）された。例えば、2017年1月の展望レポートでは物価上昇率2％の達成時期を、「見通し期間の終盤（2018年度頃）」と書き、2018年1月の同レポートでは「2019年度頃になる可能性が高い」と書いた。
しかし、異次元緩和の導入から5年が経ち、「2年程度」の柱はすでに朽ちていた。そこで日銀は、2018年4月27日に公表した展望レポートをもって、「2％程度に達する時期」の明示をとりやめた。
同日の記者会見で達成時期の明示をとりやめた理由を問われた黒田総裁だったが、答えは、概要以下のとおり、むしろ市場の受け止め方に問題があるとのトーンで語られた。
�‥庫哨譽檗璽箸砲�ける2％達成時期の見通しは、あくまで見通しであり、政策変更に結び付ける見方は誤りだ。
�∧�価の先行きには様々な不確実性があり、計数のみに過度に注目するのは、市場とのコミュニケーションの面からも必ずしも適当でない。
�Ｊ�価の先行きの展望はあくまで見通しであることを明確にするため、今回から物価2％達成時期の明示をとりやめる。
質問者の意図は、5年前にパネルまで持ち出して華々しく掲げた「2年程度」の柱を撤回することの考えを尋ねたものだった。にもかかわらず、技術的な話としてあしらわれ、答えをはぐらかされた。「2年程度」の撤回は、金融政策で人々の期待（心理）を変えられなかったことを意味する。異次元緩和を支えてきた理屈の脆弱さを示す出来事だったが、その理由が率直に語られることはなかった。
〈2022年12月の長期金利変動幅の拡大〉
黒田総裁の任期が半年を切った2022年12月20日、日銀は突如イールド・カーブ・コントロールの変動幅見直しを行い、長期金利の上昇引き上げを事実上容認した。この方針変更も、日銀独特の説明に終始した。
日銀は、2016年9月のイールド・カーブ・コントロール（長短金利操作）の導入後、マイナス短期金利とゼロ％程度の長期金利を金融緩和の両輪と位置付けてきた。効果の多寡はともかく、長短金利の低水準維持を金融緩和の基本的な手段として位置付けていたことは疑いがない。内田眞一理事（当時、現副総裁）も、2022年5月の参議院財政金融委員会で、長期金利の変動幅を拡大することは「事実上（の）利上げ」と牽制していた。
それから半年が過ぎた2022年12月20日、日銀はその変動幅を変更し、従来の±0.25％から±0.5％に拡大した。金融市場の金利機能の低下に対応するものだったが、高めの長期金利の容認である以上、利上げの要素を含むことは間違いなかった。それでも、公式説明は「金融政策の持続性を高めるため」だった。
ここでも、決定当日の金融政策決定会合後の記者会見で、今回の変動幅の拡大は事実上の利上げではないのかとの質問が出た。これに対して黒田総裁は、「（今回の措置は）市場機能を改善することで、イールド・カーブ・コントロールを起点とする金融緩和の効果が、企業金融等を通じてより円滑に波及していくようにする趣旨で行うもの」であり、「利上げではありません」と述べた。
このように、政策の根幹の変更であっても、従来からの主張との整合性を独特の言葉遣いで繕うのが、日銀からの発信の特徴となった。何があっても政策の正しさを強調していく姿勢は、物価目標の実現を国民に信じてもらうための欠かせないピースだったのかもしれない。しかし、こうしたやりとりの末に、メディアも日銀の説明に対し不信感を抱くようになり、率直に語らない日銀のイメージが定着していった。これは、中央銀行にとって致命的だった。
中央銀行の言うことに説得力があり、目指す政策の意図と効果を国民に信じてもらえれば、金融政策の効果はより早く、より強力に発揮されるはずである。裏返していえば、中央銀行の言うことを国民が信じなくなれば、金融緩和政策の効果は低下することになる。
「人々の期待（心理）を変える」政策には、強気の姿勢を示し続けなければならない罠にはまるリスクがある。途中で立ち止まれなかった最も大きな理由だったように見える。
本記事の抜粋元・山本謙三『異次元緩和の罪と罰』（講談社現代新書）では、異次元緩和の成果を分析するとともに、歴史に残る野心的な経済実験の功罪を検証しています。2%の物価目標にこだわるあまり、本来、２年の期間限定だった副作用の強い金融政策を11年も続け、事実上の財政ファイナンスが行われた結果、日本の財政規律は失われ、日本銀行の財務はきわめて脆弱なものになりました。これから植田日銀は途方もない困難と痛みを伴う「出口」に歩みを進めることになります。異次元緩和という長きにわたる「宴」が終わったいま、私たちはどのようなツケを払うことになるのでしょうか。
