大学の先生の「無意味な仕事」が増えすぎている…「シラバス作成」だけでも大変な構造

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「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」はなぜエッセンシャル・ワークよりも給料がいいのか? その背景にはわたしたちの労働観が関係していた?ロングセラー『ブルシット・ジョブの謎』が明らかにする世界的現象の謎とは?

官僚制という問題

さて、このありうべき(まだましな)「ネオリベラリズム」という発想がどのようなことをみえなくさせるかについて、ひとつの視角をここで提出したいとおもいます。それは官僚制、官僚主義という問題の視角です。

ネオリベラリズム改革という視角から日本のこうした現象をみるときに、官僚制というフレームからそれを把握するというものはあまりみません。というのも、ネオリベラリズムは官僚制と敵対的である、あるいは少なくともネオリベラリズムの促進する市場原理は官僚制とは相容れないという強固な常識が存在しているからです。

ところが、実態としては、日本において大学改革で問題視されていることのほとんどは官僚制の問題です。上からの統制、管理の強化、ペーパーワークの増大、そして忖度、服従と面従腹背などです。そして、これは世界でも変わるところはありません。

ところが、ネオリベラリズムがそれを促進しているところのリベラリズム総体に共通する「常識」、すなわち市場と官僚(そして国家)を対立したものとみなす常識が根深いと、このような市場原理が許容しないような現象、すなわち効率性とはかけ離れた手段の目的化といった「倒錯」の現象が、「市場原理主義」を掲げるネオリベラリズムのもとでは「本来ありえないはず」となり、その延長上でそれが日本独特の問題のようにみえてしまうのです。

アメリカと日本の「シラバス」

この点で興味深い議論を、社会学者の佐藤郁哉さんがシラバスについておこなっておられます。

日本におけるシラバスの導入は、それこそ1980年代からはじまるネオリベラリズム改革の教育分野におけるひとつの帰結である1991年の大学設置基準の「大綱化」からはじまっています。大学審議会の提示した大綱をもとに、文部・文科省が授業改善の目玉のひとつとしてあげたのが「シラバス」だったのです。

それから「シラバス」は急速に普及していきますが、佐藤さんは日本におけるそれを、もともとモデルとしたはずの米国版syllabusとは似ても似つかない「和風シラバス」であるといわれています。

基本的に、アメリカにおいて「シラバス」とは、個別の教員と学生との契約であって、であるがゆえにフォーマットも多様です。ところが、日本では、シラバスといえば、画一的なフォーマットに統一され、当該教員の講義や演習スタイルの実態にはまったくそぐわないものになってしまったのです。

わたしたちもそれは心から実感するところです。シラバスではその都度の授業内容を具体的に書かねばなりませんが、少なくとも多くの文系の授業は、状況に応じて変化するものであり、あらかじめ定められません。さらに予習時間の指定など、とりわけ日本のように講義科目の多い状況においてはほとんど無意味です。こうした項目が多岐にわたるのです。佐藤さんは、それを「シラバスもどき」であるといいます。たしかに、これはまったくそうなのだとおもいます。

しかし、ここでは少し視点を変えてみたいのです。

先端的経営理念による「効率化」

図1は、『ブルシット・ジョブ』の第七章にあらわれる「シラバス」の作成手順をあらわしたものです(BSJ 339)。わたしはこれが最初に目に飛び込んできたときおもわず万歳をしたくなったのですが、グレーバーらしく、なかば誇張であり、もっともらしい体裁で痛烈な皮肉をふくんだ図だとはおもいます。

説明すると、下はとかく「非効率」を槍玉にあげられがちな伝統的大学(文学部)です。上は先端的経営をうたう、まさにネオリベラル改革の先頭をひた走る大学です。

シラバス作成にかんして「非効率」なはずの伝統的大学では、大学職員から大学教員への通知ひとつでことはすんでいます。じつに「スリム」なのです。

ところが先端的経営による効率性をうたう大学では、管理チェックの過程などがあいだにはさまって、異様に複雑なものになっています。つまり、シラバス作成の過程がかつては、2部門のやりとりによってかんたんに終わっているのに対し、改革をへたあとのシラバス作成の過程では、官僚制的な手続きが肥大しています。

そしてそれに付随して、わたしたちにとっては不条理なまでの意味のわからない「雑務」(非BSJのブルシット化)と、さらにその増殖した仕事などを請け負うあたらしいポストが生まれている(BSJの創出)のです。そして、それをわたしたちは、先端的経営理念による「効率化」と呼んでいる、というか呼ばされているのです。

入試問題作成と「合理化の不条理」

またグレーバーはもうひとつ事例をあげています。入試の試験問題作成です(図2、BSJ340)。

それまでの伝統的大学ではかんたんなやりとりですんでいたものが、効率化されたはずの先端的大学では異常なまでに複雑化しています。わたしたち教員の多数の体感にもこの図はまさにぴったり即しているのではないか、とおもいます。

たとえば問題作成から作成した問題の事務への提出、その保管、さらに整理、採点など、かつてはかなりが現場における「あうん」の呼吸でインフォーマルにすまされていた過程のほとんどすべてがフォーマル化され、したがってフォーマット化され、複雑な二重三重のチェックの契機が導入されました。そのためのペーパーワークも年々増加の一途をたどっています。チェックのチェックがそのうちあらわれるんじゃないか、という冗談も冗談ですまなくなってきました。

こうした「合理化の不条理」は、かねてよりカフカ的現象、つまり肥大した官僚制特有の不条理といわれたもので、20世紀には文学の一大ジャンルともなりましたし、社会科学でも主要なトピックのひとつでした。しかし、この官僚制的不条理はむしろ、現代こそ本当におそるべきものになって、わたしたちの生活のすみずみまで拡散していっているものです。

ところが、現代の不思議な現象ですが、それと反比例するかのように、わたしたちは官僚制あるいは官僚主義を問題にしなくなっていったのです。実際、官僚主義があれほど問題にされていた1960年代の生活といまとを比較してみましょう。いまと比較すればとんでもなくゆるかったであろうし、官僚制的手続きにすら、わたしたちの裁量の余地があちこちにあったはずです。これは奇妙なことですが、このような実態と意識の乖離が、ますます官僚制化を深刻化するといった事態を招いているのです。

つづく「なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病」では、自分が意味のない仕事をやっていることに気づき、苦しんでいるが、社会ではムダで無意味な仕事が増殖している実態について深く分析する。

なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病