若い人に向けて新書をつくるということ…かつて「現代新書JEUNESSE」をつくった林辺光慶・元講談社学芸局長に聞く
現代新書創刊60周年記念インタビューシリーズ「私と現代新書」4回目では、1996年から98年にかけて刊行された若い読者向けのシリーズ「現代新書JEUNESSE」(以下、ジュネス)について、本シリーズを一人でつくった林辺光慶・元講談社学芸局長に話を聞きます。
創刊当時について聞いた前編(「「現代新書JEUNESSE」が伝えたかったこと…林辺光慶・元講談社学芸局長に聞く」)に続き、後編では、カバーのそでに書かれたステートメントの意味、若い人に向けて新書をつくるということについて聞きました。【後編】
「問いを自分で持つ」って、じつは大変なこと
――カバーのそでのステートメントは、林辺さんが書いたのですか?
林辺:僕が書きました。なんだかちょっと気どった文章になっていて、はずかしいんだけど。
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「JEUNESSE−ジュネス−とは、年若いこと。
若さとは、いまだ問いを呑み込まず、宇宙の風にさらされること。
いわゆる「教養」や「知的好奇心」は、
大人のスマートな会話に似合いそうな言葉です。
立ち止まってみましょう。
自分はどんな問いの渦の上に立っているのか。
かすかな謎のささやきに耳を傾ける感性を、また、
どんな権威や常識にも頼らぬ思考を、私たちはJEUNESSEと呼びます。
古い問題をもう一度新たに問い直し、
あたりまえに見える目の前の世界に想像力の自由な視線をめぐらすとき、
見たこともない像が立ち上がるのです。
現代新書JEUNESSEは、そんな知的感性を大切にしたいと考えます。」
(カバーそでに書かれている、「現代新書JEUNESSE」のステートメント)
*
林辺:自分の中で思いとして一番強いことを、きれいな言葉でまとめるとこうなるのかな、と。もちろん、一つ一つの企画がこれをきっちり体現しているとは限らないのですが。でも、このような思いを抱いて著者に会いに行き、こういうシリーズを書いてください、とお願いしました。
このステートメント、いろいろ考えたんですよ。「教養」って言うけど、あるいは「知的生活」って言うけど、それってどういうことなんだろう、って。
そういう概念って、大人になってはじめて生まれてくるものだと思うんです。子どものときって、何が知りたいとか、これが知りたいとかっていうのは、じつは、ないんじゃないかという気もするわけです。問いが、まだ、ない。
――でも、子どもはいろんなことを聞いてきませんか?どうして月は形が変わるの?とか。
林辺:いや、もちろん、なぜなぜって聞くけれども、自分が本格的にそれを考えようとするのって13、4歳あたりからかなぁって思うんです。問いを自分で持つって、じつは大変なことだと思うんですよ。
若い人に「初発の問題」なんてあるんだろうか
林辺:「初発の問題」に答えるために新書をつくる、って言いますよね。
――「『講談社現代新書』の刊行にあたって」(注:現代新書の巻末に付されています)に「…もっぱら万人の魂に生ずる初発的かつ根本的な問題をとらえ、…」とあります。
林辺:そう。だけど、若い人に「初発の問題」なんてあるんだろうか、と思うわけです。初発の疑問を持つ、って、大人になってから振り返って、そんなことあったかもしれないって思うだけで、当事者である若い人はそんなふうに思ってないんじゃないか。
発達心理学者のピアジェとワロンの論争というものがあります。子どもの発達に関して、たとえば自我のようなものはどうやってできてくるのか、ということについて、二人は正反対のとらえ方をするわけです。
私の理解では要するに、ピアジェは、自分の中で核が段階を踏んでだんだん固まっていき、そうして初めて他者と向き合ったときに自他関係ができ、自我がさらに確立されていく、と考える。一方、ワロンは、最初に内部的な成熟があるわけではないんだ、と言う。常に周囲との関係のなかで輪郭が浮き出てくることで「我」ができていき、同時に他者というものが現れる、ということみたいです。
ピアジェは高く評価されていた人ですが、僕は、ワロンに理があるのではないかと思うんです。
だから、10代の人たちに向かって、一生懸命、その人たちが知りもしないだろうことを「どうよ」って投げてみせようと思った。そうすることで、この人たちの中で何かが動き始めるんじゃないかな、って。動き始めた何か。そこにじつは問いがあるんだよ、と気づかせたい。えらそうに言えば、ね。――今、言葉にすれば、ジュネスはそんな気持ちでつくっていたと思うんです。
ステートメントの「若さとは、いまだ問いを吞み込まず、宇宙の風にさらされること。」という部分は、今、私が言ったことに近いかな。
――問いを呑み込むな、って言ってるんですね。
林辺:自分の中の問いをはっきりさせないまま呑み込んじゃって、自分はできあがった教養人というつもりでいるような者どうしで、ちょっとなんかさわりのいい言葉を連ねて、「教養っていいよね」とか「知的好奇心って持ち続けたいよね」とかって……そういうのって、「いいお天気ですね」って言ってるようなもので。
――(笑)
林辺:ステートメントの「いわゆる「教養」や「知的好奇心」は、大人のスマートな会話に似合いそうな言葉です。」というところは、「君らは、本当にそんな問題意識持ってるの?」という問いかけでもあるんです。
――この一文は、皮肉なんですね。
林辺:うん。そう。
――新書のステートメントが「教養」という言葉を皮肉っているのは初めて見ました。「教養は身につけるべきもの、だから本を読もう」 という言い回しは自動的に使われていることが多いように思います。
林辺:それって、へたすると、教養を持つ=クイズに答えられる物知り、みたいになっちゃいますよね。教養が、こう問われたらこう答える、という応答性をよくするための道具に限定されてしまう。でも、教養って本当にそういうものなのか。――このステートメントは、それを問う意味も含んでいます。
自分の中で動き始めるもの。――杉浦さん流に言えば、「渦」です。生成の渦。それって、まだ形がない。だけど、それを呑み込まないで、なんかもやもやしたもののままにしておけ、って伝えたい。それを、「教養」とか「好奇心」って言葉でごまかすな、ごまかさないでそのまま持っていてほしいよ、って伝えたかった。
――あ。ジュネスのマークの渦巻きは、その「渦」なんですね。
林辺:そう言われれば、ここにも杉浦さんの渦が表れていますね。
どの著者も、若い人に伝えたいことを強く持っていた
――何冊か、それぞれの本の思い出をお聞きしたいです。
まず、今回のインタビューのきっかけになった『〈わたし〉とは何だろう 絵で描く自分発見』(岩田慶治著)について(過去記事「中島岳志さんが選ぶ現代新書…岩田慶治『〈わたし〉とは何だろう 絵で描く自分発見』」参照)。この本は、文化人類学者の岩田慶治さん(1922-2013)が、京都で暮らしていた晩年、毎朝の疏水沿いの散歩の中で「一日一微小発見」をテーマに見つけたことや考えたことを絵に描いたものが、文章とともにまとめられたものです。
(カバー表紙の内容紹介。以下、同)「 わたしとわたしの周りの世界とは別のもの? 対象として世界を捉える知を捨て、じかに自然に感応しつつ、山川草木のなかに自分という風景を描き出す。」
林辺:岩田先生が、毎朝の散歩から帰ってきて描いたという絵を見せてもらったのがはじまりだったと記憶しています。
岩田先生の京都のご自宅を何回か訪ねてお話を伺っていると、岩田先生がその散歩の話をするわけです。橋の上で川を見ると鯉がいてね、とか、木を見ていると私はあそこにいるんだと思う、とか。……なんだろうなぁ、と、よくわからないまま聞いていました。ちょっと禅問答のような。
岩田先生の考え方は、今の言葉に翻訳すれば、環境世界と呼びかけ合っている雰囲気を感じました。聞いていて、よくわかる、というわけでもなかったけれど、ものを考える人だなぁと思わせてくれる。
岩田先生は、単に、学問しました、という人ではない。岩田慶治さんという人の輪郭を描くことは難しいことだと思っています。でも、その生き方から感じるものがある。いい波が伝わってきますよね、この人から。
この本に書いてあることも、「これだ」というはっきりしたことではないわけです。
――まさに「渦」のような本ですね。
林辺:この本は、マンダラをはじめとするアジアの図像研究を核にした杉浦さんの創造性と、岩田さんの世界を見る感性が共鳴した一冊だと思います。ふたりは一緒に闘った戦友みたいなものでしょう。
――戦友?
林辺:何に対して闘ったというのではなくて。二人とも何かを拓こうとしていて、たぶん、お互いに感じる部分が共通していた。杉浦デザインの一番いいところが、いい形になった本だと思います。
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『ファッションの技法』(山田登世子著)
「見せて隠して人目を引く。誘惑しつつ自分を作るふしぎな遊戯、ファッションの本質を軽やかに考察。」
――本書は、ファッションが大好きなフランス文学者・山田登世子さん(1946-2016)が、当時、愛知淑徳大学で開講していたモード論の学生たちの意見や質問を反映しながら、山田さんが若い人たちに伝えたいことを溢れるような勢いで書いた、活き活きとした一冊です。
林辺:山田さんも、とても意欲的に書いてくれました。内容紹介の、この「軽やかに」っていう言葉は、当時の時代の風景にあった言葉かもしれませんね。
山田さんに会いに行ったとき、「とにかく、どんどん恋をしなさいね」とおっしゃっていたのを覚えています。僕、当時41歳で、結婚してたんだけどね(笑)。
――そういう林辺さんにおっしゃることに、山田さんの言葉の奥深さを感じます。
林辺:この方にとって、それが、人生とは何かという問いへの一つの答えだったのでしょう。
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『〈性〉のミステリー 越境する心とからだ』(伏見憲明著)
「女でありたい男、男でありたい女。男が好きな男、女が好きな女。あなたの内側にも広がる「性の迷宮」とは? 推理じたてで常識的二元論をくつがえす異色作。」
――本書は1997年の刊行ですが、約30年たった今でもホットな問題を考えています。この本には、ステロタイプの「男」像、「女」像を当てはめることが難しい9人(権田原、ジュン、佐藤、吉田など)が登場します。この9人の中から「本物の女」を探していく(「本物の女」というものがいるのか、も含めて)のが、この本のテーマです。
林辺:著者も当事者の方です。私は、この本をつくるとき、この方に説明していただいたことでいろんなことを理解しました。この本はもっと評価されていい本だと思っています。
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篠原資明『心にひびく短詩の世界』
「詩は短くてこそ……。四行詩二行詩一行詩、言葉は既に宇宙を呑み込んでいる。では極限の短詩はどんな形で何を語る?」
林辺:この本がまたおもしろいんです。中、ちょっと見てみて。
―― 「●」だけ……。これ、詩ですか?
林辺:そう。これは世界で一番短い詩だ、っていうわけ。草野心平の「冬眠」という詩です(本書P.12)。草野心平って蛙の詩が多いでしょう。この人が「冬眠」っていうタイトルでこう書くと、すぐわかりますよね。あ、この●って冬眠してる蛙だ、って。
――昭和3年にこんなかっこいい詩がつくられていたんですね。
林辺:昭和ってすごいですよ。特に、初期は。
著者の篠原さんも詩人で、超絶短詩の、すごくおもしろい詩集をたくさんつくっている人です。で、そういう詩を集めたいって言うので、できたのがこの本です。
これなんか、おもしろいでしょう。
「ハ・ヅ・カ・シ・イ・
電灯 竹中郁(『竹中郁全詩集』昭和58年)」(本書p.148)
林辺:中黒がこうやって入って……なんとなく、光景が目に浮かびますよね。
――こうやって1冊1冊読んでいると、ジュネスって見たことのない世界に連れていってくれる新書だったんだ、って感じます。読むとなんだか素直な気持ちになる、不思議な感覚です。
林辺:つくっていて楽しい本が多かったなぁ。……そう、ジュネスって楽しみながらつくった記憶があります。必死で、手探りでつくってた。
若い人に向けて新書をつくるということ
――そんなふうに11冊の渦がつくられていったんですね。どうして11冊で終わったのですか。
林辺:私の異動があって、その後、このコンセプトの本をつくり続けるという意思を、編集部は持たなかったということだと思います。中途半端に終わっちゃった。
新書編集部にいた当時、人間が問いや問題意識を持つことは必要だと思っていて、新書は、これまでになかった問いをたて、それになにか答えてくれる著者を見つけて、できれば若い人にぶつけたい、と思っていました。
ジュネスの11冊のどの著者も、「こういうことを、若い人たちに言いたいんです」っていうことを、強く持っていた。だから、何を問いにすべきかってことについては、共感してくれていたかなと思います。
若い人って、たぶん、何でも知ってるつもりだと思うけど、でも、じつは何も知らない。知っているつもりでいても、それは本当に知っているのではない。――そういうことを若いときに気づくべきだろうな、と、歳をとってから思います。自分が若いときはやっぱり気づかなかったと思うけど(笑)。
そして、問いを持つことって、歳をとればできるというわけでもない。だから、ステートメントには、どんな年齢の人にも読んでほしいという意味も込めています。
ステートメントに書いたようなことを、かつて私がちらっと考えたということは、出版の歴史の中で、それぞれの時代状況は違うかもしれないけれど、繰り返されてきたのだろうと思います。過去にも同じようなことを考えた人たちはいっぱいいたし、これから先もまたたくさん出てくるでしょう。ジュネスはその一つなのだと思っています。
(聞き手:伏貫淳子)