「神風特別攻撃隊」が初めて敵艦に突入してから今年でちょうど80年…日本海軍における「特攻」誕生の経緯

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今年(2024年)は、太平洋戦争末期の昭和191944)年1025日、初めて敵艦に突入して以降、10ヵ月にわたり多くの若者を死に至らしめた「特攻」が始まってちょうど80年にあたる。世界的にも類例を見ない、正規軍による組織的かつ継続的な体当り攻撃はいかに採用され、実行されたのか。その過程を振り返ると、そこには現代社会にも通じる危うい「何か」が浮かび上がってくる。戦後80年、関係者のほとんどが故人となったが、筆者の30年にわたる取材をもとに、日本海軍における特攻の誕生と当事者たちの思いをシリーズで振り返る。(第1回)

特攻の「始まり」

昭和19年10月20日、フィリピンの第一航空艦隊(一航艦)で編成された「第一神風特別攻撃隊」は、来るレイテ決戦で主力艦隊のレイテ湾突入を支援する目的で、敵空母の飛行甲板を一週間程度使用不能にするべく翌21日以降、連日のように出撃、10月25日、初めて米護衛空母群への体当たりに成功した。

寺岡謹平中将に代わって一航艦司令長官に着任したばかりの大西瀧治郎中将がこのような戦法を採用せざるを得なかったのは、寺岡中将の司令部が9月以降、作戦上のミスで虎の子の零戦隊の大部分を失い、「決戦」を控えて飛行機が数10機しか残っていなかったためである。

この、本来なら一時的な作戦のはずだったフィリピンでの特攻が予想外の戦果を挙げたことから、以後、劣勢な航空戦力で敵の大部隊に対し戦果を挙げ得る唯一の手段として、特攻は恒常的に続けられ、幾千の若い命が失われた。

特攻は「既定方針」だった

だが、じつは「特攻」は、大西中将が始めようが始めまいが、海軍の既定の方針だった。すでに体当たり専門の兵器がいくつも開発され、そのための部隊も編成されていたのだ。9月13日には海軍省に「海軍特攻部」という部署まで設けられている。

人間が操縦する兵器で敵艦や敵機に体当りする捨て身の戦法が海軍の上層部で本格的に議論に上るようになったのは、ガダルカナル島失陥から4ヵ月、太平洋戦争の雲行きも怪しくなった昭和18(1943)年6月末のことだ。

6月29日、侍従武官・城英一郎大佐は、艦上攻撃機(3人乗り)、艦上爆撃機(2人乗り)に爆弾を積み、志願した操縦員1名のみを乗せて体当り攻撃をさせる特殊部隊を編成し、自身をその指揮官とするよう、当時航空本部総務部長だった大西瀧治郎中将に意見具申した。大西は、

「意見は了とするが、搭乗員がパーセント死亡するような攻撃方法は、いまだ採用すべき時期ではない」

としてその具申を却下した。

同年10月、黒木博司中尉と仁科関夫少尉は共同研究した「人間魚雷」の意見書を、海軍の作戦、指揮を統括する軍令部に提出したが、これも却下されている。

特攻作戦が進んだ「潮目」

だが、昭和19(1944)年2月17日、太平洋の日本海軍の一大拠点だったトラック島が、米機動部隊艦上機の攻撃を受け、壊滅したことで潮目が変わった。

2月26日、先の黒木中尉、仁科少尉による「人間魚雷」の着想が見直され、広島県の呉海軍工廠魚雷実験部で「〇六(マルロク。丸の中に六)金物」の秘匿名で極秘裏に試作が始められる。これは魚雷に操縦装置をつけ、人間の操縦で敵艦に体当たりするものだった。

さらに4月、海軍の軍備計画をつかさどる軍令部第二部長・黒島亀人少将は、作戦を統括する第一部長・中澤佑少将に、「体当り戦闘機」「装甲爆破艇」をはじめとする新兵器を開発することを提案し、中澤もそれを了承、その案をもとに軍令部は、9種類の特殊兵器の緊急実験を行うよう海軍省に要望した。

海軍省の命を受けた艦政本部はこれらの兵器に〇一から〇九までの秘匿名称をつけ、実験を急いだ。その概要は、次の通りである(全て〇の中に数字。以下同じ)。

〇一兵器 潜水艦攻撃用潜水艇

〇二兵器 対空攻撃用兵器

〇三兵器 可潜魚雷艇

〇四兵器 船外機付き衝撃艇(爆薬装備のモーターボート)

〇五兵器 自走爆雷

〇六兵器 人間魚雷

〇七兵器 電探関係兵器

〇八兵器 電探防止関係兵器

〇九兵器 爆薬を敵艦に仕掛ける小型潜航艇

以上のうち、黒島少将自らが考案した〇四兵器はのちに「震洋」として、黒木中尉、仁科少尉考案の〇六兵器は「回天」として実戦に投入され、それぞれ多くの若者が戦死している。

奇抜なアイディアマンが提案した、モーターボートによる「体当たり」

黒島は奇抜なアイディアマンとして知られ、かつて連合艦隊司令長官・山本五十六大将の懐刀として真珠湾攻撃の作戦をまとめた先任参謀だった。だが、昭和17(1942)年6月のミッドウェー海戦で大敗を喫した責任の一端は、機動部隊のはるか後方にいた旗艦大和で敵艦隊の無線を傍受しながら、そのことを機動部隊本隊に知らせなかった黒島にもある。昭和18年4月18日、山本五十六が戦死し、黒島は同年6月軍令部に転じたが、この頃から、

「モーターボートに爆薬を装備して敵艦に体当りさせる」

という自らのアイディア(のちの「震洋」)を軍令部の幕僚たちに説くようになった。さらに7月、軍令部第二部長に就任すると、8月には戦備の方針を定めるための会議で、「戦闘機による衝突撃(体当り)」の戦法を提案している。

黒島はさらに、昭和20(1945)年には、潜水具を装着した人間が長い棒につけた爆雷を持って海底に待機し、敵上陸用舟艇を下から突き上げて爆破するという、もはや兵器と呼ぶにも値しないような自爆装置「伏龍」の開発を指示、わずか1ヵ月で完成させた。

伏龍は実戦で運用されることはなかったが、粗雑な潜水具と、息を鼻から吸って口から吐かなければ炭酸ガス中毒を起こしてしまう稚拙な呼吸装置が原因の事故が多発、訓練中に多くの犠牲者を出した。その人数は秘匿され、詳らかではないが、「公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会」の調査によると、少なくとも10名以上という。後年作家として活躍する城山三郎や俳優・安藤昇は伏龍訓練部隊の元隊員、作家・島尾敏雄は震洋部隊の元隊員である。

航空機による体当り攻撃も

航空機による体当り攻撃も着々とその準備が進められようとしていた。その中心となったのは源田実中佐である。昭和7年から9年にかけ、現代の航空自衛隊「ブルーインパルス」の元祖ともよべる日本初の編隊アクロバット飛行チーム「源田サーカス」を率い、戦闘機パイロットの草分けとして有名だった源田は、昭和19年当時は海軍の作戦をつかさどる軍令部第一部の部員(参謀)を務めていて、航空作戦のすべてを動かしうる立場にあった。

源田は、昭和16年の開戦時には機動部隊の航空参謀として真珠湾攻撃の実行に携わり、翌年6月のミッドウェー海戦では自らの判断ミス――敵艦隊発見の報告をうけたさい、正攻法にこだわって攻撃機の兵装を転換したり、護衛戦闘機を用意している間に戦機を逃し、攻撃を受けた――で主力空母4隻を一挙に失った。連合艦隊先任参謀の黒島亀人と機動部隊航空参謀の源田実は、太平洋戦争前半における海軍作戦の車の両輪とも呼べる関係にある。

そして、海軍航空隊の総本山である横須賀海軍航空隊の飛行隊長・中島正少佐も、零戦隊を率いてガダルカナル戦に参加し、日米の戦力差をまのあたりにした経験から、

「もう体当り攻撃をやらなきゃダメだ」

と考え、自ら零戦を操縦して体当り攻撃の研究を重ねながら源田の構想を支えた。中島はその後、第二〇一海軍航空隊飛行長としてフィリピンに転出し、昭和19年10月、最初の特攻隊を出撃させる役回りとなる。中島はフィリピンでの特攻作戦を事実上主導し、自分の部下から約350名もの特攻戦死者を出した。

航空特攻を加速させたマリアナ沖海戦の「惨敗」

航空特攻への流れをさらに加速させたのが、昭和19年6月19日から20日にかけて日米機動部隊が激突したマリアナ沖海戦での惨敗である。サイパン島をめぐるこの戦いで、日本海軍は、敵艦隊にほとんど打撃を与えることのできないまま、空母3隻と基地航空部隊をふくめ470機もの飛行機、3000名を超える将兵を失った。

第三四一海軍航空隊司令・岡村基春大佐が、第二航空艦隊司令長官・福留繁中将に、

「体当り機300機をもって特殊部隊を編成し、その指揮官に私を任命されたい」

と意見具申したのは、マリアナ沖でまさに日米機動部隊が戦っていた6月19日のことである。岡村はさらに、27日には軍需省航空兵備総務局長になっていた大西瀧治郎中将のもとへ赴き、体当り攻撃に適した航空機の開発を要望した。

6月25日に開催された陸海軍の元帥会議で、サイパン島奪回を断念することが正式に承認されたが、このとき、かつて昭和7年から16年までの長きにわたって軍令部長、軍令部総長を務めた海軍の長老、皇族元帥の伏見宮博恭王が、

「対米戦には特殊の兵器の使用を考慮しないといけない」

と発言。暗に体当り兵器の開発を促すかのような「宮様」の一言が「お墨つき」を与えた形となって、海軍の大勢は一気に特攻へと傾く。この時点で〇四兵器(震洋)はすでに試作艇が完成し、量産に入ろうとしていた。〇六兵器(回天)は、まもなく試作艇が完成して、航走試験を始めようとしている。陸軍でもすでに、体当り戦法が一部で検討されている。

誰が「人間爆弾」の命令を下すのか

「特攻」が海軍の既定路線となり、そのための兵器の開発が進められていた昭和19年7月には、第一〇八一海軍航空隊の大田正一少尉が、「人間が操縦するグライダー爆弾(人間爆弾)」の構想を海軍航空技術廠(空技廠)に持ち込んだ。のちの「桜花」である。このとき大田は、同席した三木忠直技術少佐が、

「なにが一発必中だ。そんなものがつくれるか!冗談じゃない」

と憤然として首を振り、

「体当りというが、いったい、誰を乗せていくつもりだ」

と疑問をぶつけるのに対し、

「私が乗っていきます、私が!」

と答えたという。

大田は昭和3(1928)年に海軍に入り、兵から叩き上げた特務士官だ。軍歴は16年、うち戦地勤務はのべ3年11ヵ月におよび、水上偵察機、陸上攻撃機の偵察員としての戦闘出撃回数は80回を超える。日本海軍で、大田ほど長きにわたる実戦経験をもつ飛行機搭乗員は稀だった。それに対し、海軍上層部や技術陣のほとんどは戦場にすら出たことがない。軍令部で航空作戦を統括する源田実中佐にしても、名パイロットとしてその名が轟いていたものの、空戦経験は一度もない。「戦地帰り」の気迫に満ちたアイディアに対し、ではどうすれば戦果を挙げられるかと、理性で対抗できるだけの案を持つ者もいなかった。

すでに特攻は海軍の既定路線であり、「人間魚雷」の開発も始まっている。しかも航空特攻の構想まで浮上している。もはや「人間爆弾」のアイディアが出てくることは時間の問題だった。あとは誰が最初にそれを言い出し、誰が最初に命令を下すかである。

必要なのは「私が乗っていきます」という言葉

防衛庁防衛研修所戦史部が著した『戦史叢書』によると、唯一の懸案は、「〇六(回天)」や「〇四(震洋)」の場合は、命中前に搭乗員を海中に脱出させる方法を考慮する余地があった(実戦に当たっては断念された)のに対し、航空機による体当り攻撃ではそれが100パーセント不可能なことだった。最初から人の死を前提にした戦法で、だからこそ軍令部も航空本部もそれまで採用をためらっていたのだ。

戦争で軍人が死ぬことはやむを得ない。だが、「死」はあくまで任務遂行の結果であって目的ではない。たとえ指揮官であっても部下に死を命じることはできない、というのが近代軍隊の常識である。「決死」の作戦ならば許されるが「必死」の作戦は許されない。その上で、命令は、実行可能なものでなければならない。

しかし、回天が黒木中尉、仁科少尉という若手士官が考案したものであったように、上から死を命じるのではなく、「現場の将兵が発案」した体当り兵器を「自ら乗っていくという熱意」に動かされ、やむにやまれず採用する、つまり下からの自然発生的な動きから始まったという流れになることは、上層部にとって好都合だった。

海軍は、大田がじっさいに「人間爆弾」に乗って死ぬことよりも、歴戦の搭乗員による

「私が乗っていきます」

という、開発の引き金を引く言質を必要としていたのではないだろうか。大田は結局、桜花で出撃することなく終戦を迎えるが、海軍によって終戦直後に自決したこととされ、戸籍も名前も失ったまま、戦後半世紀近くを生きることになる。(拙著『カミカゼの幽霊』小学館)

「人間爆弾」が海軍全体を動かす方針に

大田正一がもたらした「グライダー爆弾」(人間爆弾)の着想は採用され、航空本部はこの兵器に、発案者大田の名をとって「〇大部品」と仮名称をつけ、空技廠に研究試作を命じた。8月16日のことである。空技廠では〇大に「MXY7」の試作番号をつけ、三木技術少佐が機体設計にあたり、さしあたって10月末までに試作機100機を完成させることとした。8月18日、軍令部の定例会議で、黒島は「火薬ロケットで推進する〇大兵器」の開発を発表している。

もはや「人間爆弾」の発想は大田正一という一介のノンキャリアの手を離れ、海軍全体を動かす大方針となったのだ。

〇大の試作が決まったのを受け、昭和19年8月上旬から下旬にかけ、第一線部隊をのぞく日本全国の航空隊で、「生還不能の新兵器」の搭乗員希望者を募集した。ただし、その「新兵器」がどんなものであるか、その時点では明らかにされていない。

筑波海軍航空隊の零戦搭乗員・湯野川守正中尉(のち大尉)は、私のインタビューに、

「一撃で死に至る任務を志願するには躊躇いもありましたが、この戦争は尋常な手段では勝てない。自分の命を有効に使えるならやってやろうじゃないか。母が悲しむかも知れないが、俺は次男で、戦死要員だ、と決心し、「熱望」の意志を上層部に伝えました」

と語っている。湯野川はのちに七二一空(神雷部隊)桜花隊分隊長になる。

特攻を「熱望」する搭乗員・拒否する搭乗員

昭和19年7月、硫黄島上空の空戦で壊滅し、千葉県の館山と茂原の両基地で再建中の第二五二海軍航空隊でも、「新兵器」搭乗員の募集が行われた。茂原基地では、司令・藤松達次大佐より、この新兵器は絶対に生還のできないものである旨の説明があり、紙が配られ、官職氏名と「熱望」「望」「否」のいずれかを記入して、翌朝までに提出するよう達せられた。

「青天の霹靂だった」

と、角田和男少尉(のち中尉)は私に語っている。

「先任搭乗員の宮崎勇上飛曹が、司令の言葉が終わるやいなや23歩前に進み出て、整列している下士官兵搭乗員をふり返り、『お前たち、総員国のために死んでくれるな!』と、どすの利いた大声で叫んだ。間髪をいれず、『ハイッ!』と、50数名の搭乗員の声が一糸乱れず響き渡りました。彼らは全員が、その場で『熱望』として提出した。部下たちが志願するなら、生死をともにするのは分隊士である自分の役目。私も用紙に『熱望』と書いて提出しました」

だが、歴戦の搭乗員の中には志願しなかった者もいる。岩本徹三飛曹長の意見ははっきりしていた。

「死んでは戦争は負けだ。われわれ戦闘機乗りは、どこまでも戦い抜き、敵を一機でも多く叩き墜とすのが任務じゃないか。一回の命中で死んでたまるか。俺は『否』だ」

連合艦隊の航空参謀として特攻を推進した多田篤次少佐は手記に、

〈むずかしい死生観を言わなくても、生には死が続いていることを気楽に納得できるようになっていた。『職責の自覚とその完遂』を徹底すると、体当りするのがもっとも職責を全うする方法だと思ったら、躊躇なく体当り攻撃ができるというのが、私の見るところでは、海軍の飛行機乗りの一般的気風であった。〉

と記している。しかし、自分が「死」を決意するのと、「死」を部下に命じるのとでは天と地ほどの差があることに、多田は気づいていなかったようだ。

これまでにも、敵艦隊を発見した索敵機が、自分の飛行機の燃料がもたないのを知りながら攻撃隊の誘導を続けたり、被弾した飛行機の搭乗員がとっさの判断で自爆した例は数多くある。だが、それらはあくまで個人としてのその場の状況判断によるものであり、海軍という組織としての「特攻隊」編成とは、本質的に意味が異なっている。

そのことに思いが至っていた首脳や幕僚がどれほどいたか、いまとなっては確かめるすべはないが、数々の特攻兵器の開発を受けて、海軍の作戦方針は大きな転換期を迎えようとしていた。

第2回『「海面の白波」を水陸両用戦車と見間違え…敵機上陸の「誤報」で通信設備や重要書類を処分し、司令部としての機能を失った「日本海軍の大失態」』へ続く

【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!