多くの人が意外と知らない「ネオリベラリズム」その正体
「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」はなぜエッセンシャル・ワークよりも給料がいいのか? その背景にはわたしたちの労働観が関係していた?ロングセラー『ブルシット・ジョブの謎』が明らかにする世界的現象の謎とは?
日本の「大学改革」と「新自由主義」
ひとつの糸口として、ここではやはり典型的なネオリベラリズムによる政策がどう展開するのかの一例である「大学改革」、とくに日本の「大学改革」をとりあげてみたいとおもいます。
まずここで、ネオリベラリズムとはなにか、ひとつのよくある誤解とおもわれる考えを検討しながら、若干の規定をしてみたいとおもいます。そのひとつの典型が、教育学者の苅谷剛彦さんによる「『大学性悪説』による問題構築という〈問題〉」というテキストにみられるようにおもいます。
このテキストは、日本の大学改革について、それが「大学性悪説」というイデオロギーとともに「問題」としてでっちあげられるさまを分析したもので、その点はとても有益なものです。
ただし、気になるのは、そこで、イギリスの「ネオリベラリズム」と日本の「新自由主義」とが対照され、日本の「新自由主義」が、その本家「ネオリベラリズム」のまがいものであると断じられる点です。
……臨教審以後の教育政策が、通常理解されている英語の概念としてのneo-liberalism(以下、カタカナ表記。日本語での「新自由主義」と区別する)とは似て非なるものであることがわかる。両者の間に、規制緩和や市場原理の導入、あるいは自己責任の強調といった点で類似性を認めることはできる。ただし注意しなければならないのは、日本の場合、キャッチアップ型近代化を主導してきた、規制国家(あるいは開発国家)の統制を弱めることが、規制緩和を意味した点である
「規制緩和」や「市場原理の導入」「自己責任の強調」は、ネオリベラリズムという思想のもっとも目立つ柱です。それは、日本でもおなじである、と、ここではいわれます。
ところが、そこからがちがう。そこでは「ネオリベラリズム」が「福祉国家の解体」としてまず定義され、そのうえで日本については、こう語られます。日本は、ネオリベラリズム改革以前には、福祉国家の成立する以前の「開発国家」段階にあった、だから、それは正統的ネオリベラリズムとはいえない、だからそれは「新自由主義」なのだ、と。
この議論には重要な論点がふくまれています。つまり、福祉国家理念による「肥大化した」公教育予算が削減されているのではなく、もともと福祉国家にいたらないままで公教育への予算も低劣であるのに、さらに改革言説がそれを解体させている。
ネオリベラルのレトリックを用い、あたかも肥大化しているから削減が必要であるかのようにいう、このような欺瞞への批判がひそんでいます。これは日本における公教育予算の低劣さの問題と「ネオリベラリズム」のレトリックへの批判としては重要な指摘です。
ネオリベラリズムの理念史
しかし、「ネオリベラリズム」研究の文脈で、このような議論に説得力を感じることはむずかしいのです。
そもそも(ここで問題になっているいわばアメリカ型の)ネオリベラリズムが1970年代に世界ではじめて大規模な統治実践として実験に移されたのは、南米のチリでした。チリがそのとき先進国型の「福祉国家」であったわけではありません。だからといってそれが「ネオリベラリズム」ではない(「ネオリベラリスモ」と呼ばなければならないとか)とする議論を、少なくともわたしはみたことがありません。つまり、ネオリベラリズムは必ずしも「福祉国家」の解体を狙っているわけではないのです。
それとおなじく、ネオリベラリズムは第三世界でこそもっとも猛威をふるい、もともと脆弱な社会的基盤をさらに解体していきました。それにそもそも、ネオリベラリズムへの対抗を世界的な民衆運動の結集軸として呼びかけたのが、NAFTA(北米自由貿易協定)に反対して立ち上がった1994年のメキシコでの先住民蜂起だったことも忘れてはなりません。
このメキシコのチアパスにおける先住民蜂起こそ、はじめて「ネオリベラリズム」を対決すべき世界的(今風でいえばプラネタリーな)課題として世界に知らしめ、ネオリベラリズムに対抗する国際的民衆運動──オルタ・グローバリゼーション運動とかグローバル・ジャスティス運動といわれるものです──から批判的研究までの現在にいたる進展も促したのです。
さらに「ネオリベラリズム」の理念史をとりあげてみるならば、ネオリベラリズムが20世紀型「福祉国家」成立以前から存在する教義であることも、忘れてはなりません。それは、20世紀初頭の資本主義と19世紀リベラリズムの危機の渦中での革命の台頭に対するエリートたちの危機感のあらわれであり、社会民主主義をふくめた反資本主義勢力ないし修正資本主義勢力に対する反動だったのです。
近年のネオリベラリズム研究は、このような歴史的文脈とその知的・実践的ネットワークの世界的広がりを強調してきました。そして、その状況に応じた可塑性や適応力に焦点がむけられてきました。
つづく「なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病」では、自分が意味のない仕事をやっていることに気づき、苦しんでいるが、社会ではムダで無意味な仕事が増殖している実態について深く分析する。