近年、一般公開が進んでいる「戦時中に飛び交っていた電文」が明らかにする「戦争の裏側」

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太平洋戦争の陸海軍の重要書類の多くは終戦時に焼却されたと言われている。現に、実施部隊ではそのとき焼失して現存しないものが多い。だが、焼却を免れた書類も相当数にのぼり、近年、一般公開が進んでいることもあってかなりの量の史料が閲覧できるようになった。これらをうまく使えれば、タイムピースを埋めるように、これまでわからなかったことが明らかになってくるだろう。中央と部隊の間を飛び交った電報の記録もそのひとつである。

一般公開が進む一次資料

私はこれまで約30年にわたって、主に元零戦搭乗員を始めとする旧軍人やご遺族からの聞き取り調査を進め、取材先に眠っていた多くの貴重な資料、アルバム等を蒐集してきた。

ノンフィクションである以上、裏付け取材は必須である。当事者が大勢存命だった頃なら、同じ戦場にいた方から二重、三重に話を聞くこともできたが、いまやそれも不可能になった。

そこで、昔から頼りにしているのが防衛省防衛研究所や国立公文書館に所蔵された一次資料なのだが、じつは年々公開される資料の幅が広がっている。しかも、私が最初の本を出した1990年代には資料のコピーには莫大な費用と時間がかかった(コピー1枚約40円、マイクロフィルムからだと約130円。私は最初の2年で数百万を投じた)のが、いまや両機関ともデジタルカメラでの複写OKとなり、何より、全部ではないが多くの資料がネットで公開され、ダウンロードできるようにもなった。目当ての資料を探す検索ワードにコツが必要だったり、スキャンの特性上、赤い文字が消えている場合もあるので、ほんとうは元の史料を見るに越したことはないのだが、とにかく便利になった。

それと国立国会図書館に収蔵されている当時の新聞その他の資料を合わせてみれば、相当なことが立体的にがわかるようになった。

とはいえ、ゼロの状態から80年以上前のことを調べるのはなかなかむずかしい。

たとえば、1940年、零戦が海軍に制式採用され、中国戦線漢口基地の第十二航空隊に派遣された日付と機数。こんな簡単なことが比較的近年まで確証を得られなかった。

これは零戦の設計者堀越二郎氏の著書をはじめ、当時関係した隊員の手記などを見ても7月15日、21日などまちまちだったことによる。それどころか、零戦が配備された第十二航空隊の公文書を見ても、同じ書類のなかで違う数字が書かれていたりして、混乱するばかりだった。

零戦はいつ実戦投入されたのか

防衛庁防衛研究所の公刊戦史『戦史叢書』も、当事者の回想をもとに書かれているので同様の誤りを犯している。堀越氏が書いたものもふくめ、零戦は前線の要望に応えて「試作機のまま中国・漢口基地に派遣された」などと書かれたものも多い。

では、十二試艦戦の漢口進出は、じっさいにはいつ、誰によって、どのように行われたのか。

このことを解き明かす上で重要な情報が、防衛省防衛研究所所収の資料に丹念にあたると浮かび上がってくる。

まず、第十二航空隊の『支那事変 戦時日誌 飛行科の部』に、

〈(七月)二六(金)曇 零式艦上戦闘機六機横空ヨリ空輸(第三分隊長海軍大尉横山保着任)〉

とあるから、横山大尉の率いる第一陣6機の漢口到着は、7月26日で間違いなかろう。第一陣の一人として漢口基地に進出した藤原喜平二空曹の現存する「航空記録」には、7月23日、「零式艦戦」11号機で横須賀基地からから大村基地へ飛び、25日、同機で大村から上海、上海から九江基地へ。そして26日、九江から漢口に到着した、とあって、26日説を裏づける。

十二試艦戦が海軍に制式採用され、零式艦上戦闘機となったのは7月24日だから、23日の横空出発時はまだ十二試艦戦だったわけだが、航空記録の記載はこの日から「零式艦戦」となっている。いずれにせよ大村を発ったのは25日、漢口進出は26日だから、「試作機のまま進出させた」というのは言葉の綾としても誤りということになる。

零戦の実戦配備を示す記録

さらに「海軍航空本部支那事変日誌」「発受せる重要の令達報告通報等」(以下、「電報綴」と表記)によると、第二陣となる零戦6機が、漢口に進出したのは8月12日のこと(7機で大村を出発したが1機は故障のためか上海に着陸、後日合流)。

「電報綴」によると、さらに8月23日、横須賀海軍航空隊の帆足工中尉が率いる第三次空輸の零戦4機が漢口基地に到着、十二空が受領した零戦は延べ17機となった。そして零戦は、9月13日、重慶上空で中華民国空軍のソ連製戦闘機27機を撃墜(日本側記録)、空戦による損失ゼロというデビュー戦を飾る。

――たったこれだけのことを調べるのに、というより「戦時日誌」や「電報綴」を見ればよいと気づくまでに、何年もの時間を要してしまった。設計者が書いたものにも間違いがある。当事者が書いた本も鵜呑みにしてはいけないという、手本のような例である。

防衛省防衛研究所には、当時、中央と部隊の間を飛び交っていた膨大な電報の記録が残されている。今回はそのなかから、大戦末期、紫電改を主力に編成された第三四三海軍航空隊(三四三空)と、フィリピン戦についての電報をいくつか紹介しよう。

電報に見る『三四三空』人事の舞台裏

まず、戦闘機紫電改を主力とした三四三空。松山基地で撮影された戦闘第三〇一飛行隊の集合写真を見ると、最前列中央の司令・源田実大佐の左に、少佐の階級章をつけた「謎の人物」が写っている。その左が飛行隊長菅野直大尉だから、書籍で紹介される場合は「左から2人め菅野直大尉、1人おいて司令源田実大佐、飛行長志賀淑雄少佐……」のように書かれることが多いが、これには訳がある。源田司令の左にいる「1人置いて」と書かれがちな人物は下川有恒少佐、一時的に三四三空の飛行長だった人なのだ。

「海軍辞令公報」によると、昭和19年12月25日付で志賀少佐が三四三空飛行長に発令されている。志賀少佐が松山基地に着任したのは1月14日だが、その間の1月1日付で下川少佐が飛行長に発令された。同時に志賀少佐は飛行長の任を解かれ、配置のない「隊附」の肩書になっている。つまり着任時には飛行長ではなかった。そして1月18日、志賀少佐が飛行長に復帰し、下川少佐は谷田部海軍航空隊の飛行長に転出した。

ちなみに三四三空司令は、12月26日付で峰松巌大佐が司令兼副長に発令されたが、1月15日付で源田実大佐が司令兼副長になり(19日着任)、1月18日、中島正中佐が副長に発令されると(着任は2月9日。だが、すでに2月1日、後任の副長に相生高秀少佐が発令されている)、源田大佐の「兼副長」は解かれた。

事態の真相を解き明かす電報

さて、三四三空飛行長の人事がなぜ、こんなややこしいことになったか。それは、空技廠飛行実験部員(テストパイロット)として、新鋭機紫電改や烈風を手がけた志賀少佐が、昭和19年5月、肺浸潤を患って入院していたからである。志賀は退院後、同年11月15日付で空母信濃飛行長となるが、工事中の艦を見学しただけで信濃は11月29日、横須賀から呉への回航中に米潜水艦に撃沈される。そしてしばらく横須賀海軍航空隊附でいたところを、紫電改を育て上げた実績を買われ、いったんは三四三空飛行長に発令されたのだ。

だが、海軍省人事局とすれば、志賀の健康状態が、実戦部隊での激務に耐えうるかに不安を持っていたようだ。それで、志賀を練習航空隊の谷田部海軍航空隊(谷田部空)に転勤させ、水上機出身の下川少佐を飛行長につける人事を行おうとした。

ところが、着任したばかりの源田司令が、この人事に激しく抵抗した。着任した1月19日にさっそく、人事局宛に、

〈志賀は紫電改型の落ち着かざる状況において是非必要につき(中略)身体の状況は勤務に差し支えなし。下川は転出せしめらるもやむを得ず〉

という至急電を打っている。

源田司令の猛抗議

さらに1月21日にも人事局長に至急電で、

〈志賀18日付転勤発令せられたるも同人は元飛行実験部において紫電関係を担当しありたる関係もあり、現在当部隊各飛行隊の搭乗員指導には経歴実力とも必要欠くべからざる人物にして、殊に紫電関係の故障続出の現状において同人の転出は当隊として忍びざるものあり。一旦発令ありたるものに対しとかくの要望はまことに相すまざるところなれども、当航空隊の実情および特殊任務御諒察の上、飛行長として留保のことに取り計らいを得たく(後略)〉

と、かなり強い表現で人事局に翻意を促している。

そして源田司令のゴリ押しに人事局が折れて、1月24日に発表された辞令公報で、18日にさかのぼって志賀少佐を三四三空飛行長とし、志賀が行くはずだった谷田部空に下川少佐を転勤させるというドタバタ劇となったのだ。

下川少佐の行方

三四三空戦闘三〇一飛行隊の集合写真に下川少佐と志賀少佐が同時に写っているということは、1月24日から数日のあいだに、下川少佐の転出記念に撮影されたとみてよいのではないだろうか。主要幹部や搭乗員が転出するさいに集合写真を撮るのは、海軍航空隊のならわしだったからである。

かくして志賀少佐は三四三空飛行長に返り咲いた。せっかく着任したのにすぐに出されてしまった下川少佐が気の毒にも思えるが、下川少佐という人も、ひとかどの人物だったようだ。

終戦直後、徹底抗戦を叫んでクーデターを起こした厚木の第三〇二海軍航空隊(終戦のご聖断もあわや水の泡!?日本海軍最強部隊叛乱事件の真相)から抗戦を呼びかける使者2名が谷田部空に飛来した際、その搭乗員が予備学生出身の予備士官と見るや、部隊の大学、専門学校(旧制)出身の予備士官たちに、「学生らしく徹底的に議論せよ」とディスカッションさせたのだという。

戦後混乱期の壮絶な論戦

当時、その場に居合わせた隊員たちが私に語ったところによると、厚木からの使者のうち1名は中央大学法学部から海軍に入った後藤喜八郎中尉だった。後藤が抗戦の根拠として、

「終戦を受け入れれば女は全員凌辱され、男は去勢されて強制労働させられるだろう」

というのを、高等師範学校英語科卒で米国通の木名瀬信也中尉が、

「そんなことはあり得ない。アメリカは国際法に則って占領統治するはずだ。だいたい、昨日まで『一億玉砕』と言って死ぬ覚悟でいたのに、キンタマを抜かれると聞いた途端に震え上がるのはみっともなくないか」

などと、完膚なきまでに論破した。下川少佐はそれを見て、

「議論はそこまで! 谷田部空は抗戦に与しない。帰れ!」

と厚木の使者を追い返した。自分の部下たちは抗戦の呼びかけに動じることはない、と信じたのだろう。下川少佐は予備士官の多い谷田部空の飛行長が向いていたのかもしれない。

「あのときの木名瀬はカッコよかったよ」

と、戦後も長いあいだ、谷田部空の戦友会では語り草になっていた。

――徹底抗戦を叫んで論破された厚木の後藤中尉は戦後、一転して社会党に入り、二代目武蔵野市長となる。後藤を論破した木名瀬中尉(戦後大尉になる)は戦後、女子大の英語教授となり、日本と旧敵国だったニュージーランドとの友好親善に尽くした。

次に、昭和20年、戦争末期のフィリピン戦線からの電報を見てみよう。

戦争末期の混乱を映し出す電報

1月6日、米海軍の先遣隊がルソン島西部のリンガエン湾に侵入、艦砲射撃を開始、9日に陸上部隊が上陸を始め、ルソン島の地上戦が始まった。日本海軍は、飛行機さえあれば戦力になる搭乗員を台湾に脱出させ、クラーク地区に残る整備員や基地員は陸戦隊となって、北から第十一から第十六戦区と名づけた6つの複郭陣地(幾重にも構築した陣地)に立てこもり、米軍に抵抗するはずだった。

だが、第十一戦区の指揮官・玉井浅一中佐はなぜか台湾に転出し、第十二戦区の指揮官であるはずだった「某隊司令」もフィリピンを脱出、複郭陣地は4つになってしまったという。

2月8日、現地部隊から台湾の第一航空艦隊参謀長に宛てた電報によると、「某隊司令」は、クラーク防禦部隊指揮官(第二十六航空戦隊司令官・杉本丑衛少将)の知らぬ間に、飛行長を連れて台湾に転進してしまった。そのため、最重要拠点3000人の将兵を指揮する適任者がいなくなり、

〈隊員は一時士気消沈之が回復に相当日時を要したり〉

とある。

見捨てられた指揮官の悲痛な叫び

また、別の飛行長も、艦隊命令のないまま脱出した。杉本少将は、

〈航空戦実施の見地より航空関係者多数転出せしむることに関しては全然同意見なるも、重要職員の移動は艦隊または最高指揮官の命令によるべき〉

と訴えている。確かに、指揮官の知らぬ間に脱出されたのでは作戦の立てようがない。ここに書かれている「某隊司令」は八木勝利中佐、飛行長は相生高秀少佐。「別の飛行長」は壹岐春記少佐と電文紙に後から書き加えられている。

また、「第二航空艦隊の某軍医」は、部隊解散の噂を聞くや許可なく姿を消し、ルソン島北部のツゲガラオに向かったが、消息不明になった。そのため部下の衛生兵5人も患者70人を放棄して逃亡した、という報告も記されている。ツゲガラオには台湾へ脱出する搭乗員を運ぶ飛行機が来るから、あわよくば同乗しようとしたのかも知れないが、「消息不明」ということは途中で現地人ゲリラに襲われ、落命したものだろう。

搭乗員を脱出させる輸送機の機長だった大竹典夫・元中尉が私に語ったところによると、敵戦闘機を避けて深夜、ツゲガラオの飛行場に着陸すると、搭乗員を乗せて離陸するまでの間、こっそり紛れ込んで乗ろうとする士官、トランクいっぱいの札束を見せて「乗せてくれ」と懇願する士官もいたという。誰しも生きて帰りたいのは当然だけれども、大勢の部下を置き去りにして逃げようとした士官のふるまいは見苦しいと言われても仕方がない。

内地への転勤が発令されたのに、フィリピンから出られなかった人もいる。

最期まで戦い続けた部隊の訴え

第二十六航空戦隊参謀の吉岡忠一中佐は、1月25日付で横須賀鎮守府附に発令されたが、1月29日、現地部隊から人事部長宛てに打たれた電報には、

〈「クラーク」にはすでに敵地上部隊侵入一月二十四日より輸送交通不能所在部隊は復郭陣地に籠り戦闘準備中警戒のため、人員抽出ごときは現在むしろ慮外のことなり〉

として、

〈出来得れば即刻再び第二六航空戦隊参謀に発令方取り計らいを得たく〉

と記されている。

吉岡中佐はそのままフィリピンに残り、地獄の戦場で終戦まで戦うことになる。

脱走、殺害、処刑...フィリピン戦の惨劇

極限の戦場で、絶望して脱走を図ったり、上官を殺害する者も出た。2月7日付、第二十六航空戦隊司令官(杉本丑衛少将)から海軍省人事部長に宛てた電報では、

〈一AF(第一航空艦隊)司令部附呉一補水一五〇九〇上等水兵角渡登、十二月一日及一月二十七日再度に亘り逃亡 爾後も監視員二名を要する状況なるを以て敵前逃亡の科により一月三十一日銃殺せり〉

と、逃亡兵を銃殺した報告がなされている。「呉一補水」というのは呉鎮守府の第一補充兵を意味する。第一補充兵は徴兵検査に合格しながらその年の定員超過のため現役兵として入営、入団しなかった者が人員補充のために召集されたものだ。脱走したところで逃げ場のない戦場で二度も脱走を図り、軍法会議も開かずに銃殺された角渡上水の心中はいかばかりだっただろう。

フィリピンではないが、インドネシアのハルマヘラ島からは、2月11日、3人による上官殺害ともう1件の殺人事件があり、臨時軍法会議を置くよう要請する電報も残っている。

一万五千人の「死」の記録

ルソン島で陸戦に従事した海軍部隊は、慣れない陸戦で、戦車を前面に立てた米軍の圧倒的な火力を前に絶望的な戦いを続けた。複郭陣地は北から十三戦区、十四戦区、十五戦区の順に制圧され、クラーク防禦部隊指揮官の杉本丑衛少将は4月下旬、防禦部隊の編成を解くとの命令を発した。残る部隊はそれぞれの指揮官のもと、ピナツボ山の山中に隠れ、自活しながらゲリラ戦を続けよ、というのである。

だが、米軍の火力から逃れても、山中での自活は、飢餓と風土病との苦しい戦いだった。

数少ない生還者の話によると、杉本少将は6月12日、「俺の肉を食って生き延びよ」と部下に言い残して自決した。また、第三四一海軍航空隊司令舟木忠夫中佐は、極限状態で何かのことで部下の恨みを買ったらしく、マンゴーの実をとろうと木に登ったところを従兵に火をつけられ、燃える草原の上に落ちて非業の死を遂げたと伝えられる。

ただ一人、第十六戦区を率いた佐多直大大佐だけは、部下を掌握したままクラークを望むピナツボ山西南地区に潜伏、山中のわずかな平地を耕してイモ畑をつくり、最後まで無線機を破却せず、ゲリラ戦を続けた。終戦後、隊伍を整えて米軍に投降、昭和20年9月17日、武装解除を受けた。

クラーク防衛海軍部隊15400人のうち、生きて終戦を迎えたのは450人に過ぎない。そのほとんどが、佐多大佐の率いる第十六戦区隊の将兵だったという。

大戦末期の電報には、ほかにも沖縄戦、ドイツ降伏、原子爆弾の情報やソ連の参戦など興味深いものが多くあるが、それらについては稿を改めて紹介したい。戦後79年、まだまだ解き明かせることはありそうだ。

【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!