「神秘主義的な考え方」が、19世紀末というタイミングで流行しはじめた「納得の理由」

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世紀末的な感覚

私たちが生きている社会は、いったいどのような空気や風潮、あるいは雰囲気のうえに成り立っているのか……私たちはときおり、このような、大きく、茫漠とした問いを前に立ちすくんでしまうことがあります。

こうした問いについて考えるためには、これまでの歴史のなかで、どのような思想がつむがれてきたのかを知ることが必要になります。

私たちがそうした知識にふれるうえでいまもっとも便利な書物が、『徹底討議 二〇世紀の思想・文学・芸術』(松浦寿輝、沼野充義、田中純)です。タイトルのとおり、圧倒的な実績を誇る3人の研究者が、20世紀のさまざまな思想や文化のあり方について徹底的に討議した様子をまとめたもので、少し読むだけで、多くの知識が得られます。

たとえば本書が、「神秘主義」について検討したパートは、きわめて興味深いものがあります。

まずは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、とくにロシアにおいて神秘主義的な発想が力をもつ様子……それと同時に、神秘主義とはやや距離があるように見える「革命運動」が力をもつが語られています。本書よりロシア文学研究者の沼野充義さんの発言を引用します(読みやすさのため一部編集しています)。

沼野ロシアと西欧の世紀末の思潮を比べた場合、際立った違いになっていると思うのは、神秘への志向性や宗教的な傾向が非常に強いというのが一つ。ただし、その一方で、対極的に、社会を変革しようとする革命運動も強まっていくというもう一つの側面もある。私はこれは一枚のコインの両面だと思うんですね。霊的なものに沈潜していくのか、あるいは社会的な運動によって現実を変えるのか。

いずれにせよロシアは世紀末感覚が非常に強くて、一九〇〇年に世界の終わりが来るというのは、宗教哲学者のソロヴィヨフなどははっきり予言に近いことを言っていて、後期ロシア・シンボリズムを代表する詩人のアレクサンドル・ブロークはそれを真面目に信じていた節がある。

そこで浮かび上がってくるのが「ソフィア信仰」です。ソフィアというのは叡智の女神で、ソロヴィヨフがそれを称えたものですから、ブロークはそういうその女神のイデアと、理想的な永遠に女性的なるもののイメージを合体させて「いと麗しき女性」を詩に謳いました。

そして、この乱れた世は一九〇〇年に終焉を迎え、一九〇一年にソフィア、永遠に女性的なるものが来迎して新しい世紀が始まる、などということを思っていたようです。ブロークはまだ二十歳になるかならないかの若者ですからね。フランスと比較すると、ロシアの世紀末はずいぶん雰囲気の違うものだったんじゃないでしょうか。〉

そして、フランスにおいては、ロシアに比べるとやや弱められたかたちで神秘主義的な発想が見られるというのです。さらに同書では、こうした神秘主義的な発想の背景に、どのような社会の動きが影響していたかが語られます。同書から引用します。

松浦(前略)ロシアの神秘思想というのは本当に深くて混沌としていますよね。フランスは何もかもを言葉で表現し尽くしてしまおうとする理智的な文化だから、むしろ混沌を排除しようとする志向が強い。やはり合理主義と実証主義が基盤にあって、もちろんそれへのアンチというのはつねに出てくるわけだけれど。

沼野オカルト的なものへの興味というのは、フランスの世紀末にはあんまり出てこないですか。

田中ユイスマンスとか。

松浦奇矯な神秘主義者のユイスマンス。それからマラルメの詩だって一種の超越論的な神秘思想だし、まあ象徴派は総じてそれですけれどね。絵画ではオディロン・ルドンですか。

沼野オカルトというより、神秘的な……。

田中神秘主義ですね。ブラヴァツキーが設立したテオゾフィー(神智学)の流れは、モンドリアンも影響を受けているし、抽象絵画につながる影響関係というのはあるはずですよね。

松浦ところで、神秘主義の対極にあるのが科学主義でしょう。「ベル・エポック」期の顕著な現象として、やはりテクノロジーの進歩ということがあります。科学技術が爆発的に発展した時代ですよね。鉄道は一九世紀前半からあったけれども、後半に入ってガソリン自動車が徐々に普及してゆく。キュリー夫人が放射能の研究で、夫ピエールとともにノーベル物理学賞を受賞したのは一九〇三年(さらに一九一一年、ノーベル化学賞を単独受賞)。その一九〇三年は、ライト兄弟が動力飛行を成功させた年でもあります。そして飛行機は第一次世界大戦で実際に兵器として使われることになる。

沼野ジュール・ヴェルヌが色々なアイディアを出して、その多くが実現するわけですよ。

松浦潜水艦やテレビ、宇宙ロケットなど。すべて「戦争の世紀」を底支えする装置になってゆくわけですね。

「物質文明」という言葉は、それへの鑽仰というよりはむしろ、それを批判する人々によって使われてきたネガティブな含意を持つ言葉ですが、ともかく科学技術の爆発的な進歩によって「物質文明」の繁栄、そしてそれを享受する一般大衆の生活の向上が一挙に進んだことは間違いない。万国博については先ほど少しだけ触れましたが、あれはその大々的なデモンストレーションの場だった。

他方、それへの批判というか嫌悪の系譜があり、その端的な一例は一八八九年の万国博に際して建てられたエッフェル塔に対するユイスマンスの批判です。近代技術文明の精華としての三百メートルの鉄塔への嫌悪が、石造りの都パリの美観への郷愁とセットになって語られている。「技術」対「芸術」の対立抗争の構図がそこに出てきます。

先ほど沼野さんが言及されたド・ヴォギュエ子爵というのは、実はエッフェル塔擁護の論陣を張った人でもある。「技術」と「芸術」をうまく宥和させようとする言説を彼が発信しているのが私の目には興味深く映ったので、それについてはかつて『エッフェル塔試論』でかなり詳しく論じました。

ユイスマンスの場合が典型的なように、沼野さんの触れられた霊的なものへの関心の高まりというのは、やはり技術文明の加速度的な進歩への反動という面が大きいでしょうね。「ベル・エポック」期のフランス文学で言うと、他にはモーリス・バレスのスピリチュアルな小説があり、これはナショナリズムのほうに結晶していきます。あとは実証主義を批判したカトリックの思想家シャルル・ペギー。だからフランスでももちろんそういう流れは脈々とありますけれども、ロシアのような、霊的なエネルギーが渦巻きながら滾々と湧出してくる豊かな源泉みたいなものは、フランスの場合はちょっと弱いというか、浅いんじゃないかなという気がします〉

神秘的なものに心惹かれる感覚が、どのような土壌で育ちうるのか。現代にも通じる問題を考えるためのヒントが、ここにはありそうです。

さらに【つづき】「あの『ロリータ』の著者と三島由紀夫は、「フロイトぎらい」だった…そこから見えること」では、20世紀の主要なカルチャーの一つである「精神分析」の意外な側面について紹介しています。

あの『ロリータ』の著者と三島由紀夫は、「フロイトぎらい」だった…そこから見えること