息子が2歳9ヵ月で夫・尾崎豊は旅立ったのに…尾崎繁美さんが見た「裕哉の中の”遺伝子”」

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1992年4月25日、26歳の若さで旅立ったロックシンガーの尾崎豊さん。そんな尾崎さんと18歳で出逢い、20歳で結婚、21歳で息子・裕哉さんを出産し、24歳で最愛の夫と死別するという壮絶な別れを経験した妻・繁美さん。

「出会いから別れまでの6年間、共に時間を過ごしてきました。この頃、夫には様々な出来事があり、とても濃密で激動な時間だったと思います。今あの頃を振り返っても、よく二人で乗り切ったと思うような……、韓流ドラマにも負けないドラマティクな毎日だったと感じています」と、繁美さん。長い月日を経て、豊さんとの想い出の封印を解き、没後30周年を機に連載『30年後に語ること』として発表。2023年7月からは、豊さんが旅立った後、息子の裕哉さんとともに歩んだボストン母子留学の日々や、今、尾崎繁美として考えることを新連載『笑顔を守る力』として寄稿しています。

2024年6月16日の「父の日」に息子・尾崎裕哉さんが、“OZAKIがOZAKIを歌い継ぐ”をコンセプトに、父・尾崎豊の初期のアルバムから選曲されたセットリストで構成された『OZAKI PLAYS OZAKI 1』のライブを開催し、前回はそのライブについて語って頂きました。今回は、裕哉さんに引き継がれる「尾崎DNA」に戸惑っていたことなど、前回語りきれなかった想いについて綴って頂きます。

以下より、尾崎繁美さん自身の寄稿です。

「父親と同じ感性」、間近で見てきた想い

豊が旅立ったのは、息子・裕哉がまだ2歳9ヵ月のときでした。前回の記事でもお伝えしましたが、幼い息子の中に父の記憶が鮮明に残る年齢ではなかったにも拘わらず、豊を彷彿とさせる言葉使いやそっくりなしぐさを見せることが多く、まるで裕哉の中に豊が宿っているかのような感覚になったり、時空を超えた父と息子の絆を感じる瞬間が何度もありました。

私は豊のDNAを裕哉に感じるたびに、言葉では尽くせない思いになりました。それは対極している感情があって、未知なる可能性に対する”光"の部分と、息子の中に父親の残像を見てしまう "怖さ"という表現に近い部分。そう感じてしまうのは、豊の作品に対する姿勢、愛や真実、人や物事の本質、真の価値などへの探究心や、それに伴うさまざまな感情や葛藤、何より、表現者として極限を追い求めた生き方を目の当たりにしてきたからだと思うのです。

だから、将来父親と同じ道を辿ったら......と、思わせるような瞬間に直面すると、なんとも言えない心の揺れを感じずにはいられませんでした。

豊が生前に言っていた言葉

私は夫が亡くなった後、母子でアメリカで暮らすことを選択したので、裕哉は英語での教育からスタートしました。もちろん、日本語もしっかりキープさせたいとは思っていましたが、将来、日本に帰国することがあっても、父親と同じ道に進むということを当初は考えてもみなかったです。なので、ピアノやギターレッスンなど音楽に触れる機会を与えることがあっても、私自身で息子を音楽の道へ導いたり、勧めることはなく、ましてや父親に関する出来事が理解できる年齢になるまでは、私から裕哉にパパはミュージシャンであると敢えて話すことはありませんでした。

豊自身は息子が生まれてから、「俺と同じミュージシャンにするんだ」「ロッカーになるんだぞ(笑)」などと言って、音楽が人の心を癒すことを教えたかったようです。でももし今、豊が生きていたら......と考えてみると、やはり父と同じミュージシャンの道を選んだかもしれないですし、または違った裕哉の人生を歩んでいたかもしれないですね。と言うのは、今も現役一線で活躍されているミュージシャンの息子さんが同じ歌手の道を選ぶケースがあまり多くないように思うからです。

以前、裕哉がトップミュージシャンを父に持つ”同じ二世”の友人たちとカラオケに行ったことがあったそうなのですが、裕哉以外の二世たちは誰も父親のヒット曲を歌うことはなかったそうで、しかも声が父親と似ているのは裕哉だけだったそうです。

尾崎豊は今もなお光り輝くスーパースターとして存在し、カラオケでも多くの人々に歌い継がれています。でもそれは、亡くなっているという現実の上で、息子は継承と革新というテーマを持ち、父が遺した楽曲を歌いたいと思うし、歌い継ぐことが出来るのだと思うのです。表現者である父は息子の中では永遠の憧れとしての存在であり、また楽曲は息子にとってバイブルなので、ライバルという意識には成りえません。しかしながら、父親が現役で活躍しているミュージシャンだと、そうはいかず活動が制限されることはあるかもしれません。

「父親の跡を継ぐ」、5歳のときの決心

今年になって息子のインタビュー記事を読む機会がありました。その記事には、「5歳くらいから「音楽をやりたい」「当然やっていくもの」と思っていました。音楽が好きだからというよりは、父親の跡をついでミュージシャンになる、に近い感覚かな」(出典/『CHANTO WEB』2023.10.29:全3回中3回目)と書かれているのを見て、とても驚きました。

先ほども触れましたが、裕哉の中に豊の残像を見ることで、その“怖さ”があったことから、私は裕哉に父親が歌手であるという会話をあえてせず、意識させないように意図してきました。息子の心の内では、すでに幼い時期に父はミュージシャンということを受け入れ、跡を継ぐという覚悟があったなんて思いもよりませんでした。

裕哉が豊と同じアーティストとしての人生を歩むことへの使命感は勇気がある決断だったと感じています。

息子の中に跡を継ぐという気持ちが芽生え始めていたとはつゆ知らず、ピアノに関しては豊が生前「3歳くらいになったらピアノを習わせたい」と話していたので、その想いを叶えたいということもありレッスンの機会を探っていました。

裕哉が8歳の頃に、バークリー音楽大学に通っていた日本人女性との出会いがあり、ピアノを習う機会が訪れたのです。バークリー仕込みということもあって、クラシックではなくジャスピアノの要素を組み入れたレッスンでした。私としても、何かひとつは楽器を演奏できる人になってほしいという思いと、リズムやフィーリングが軽快で、即興で楽しく弾けるような感じを望んでいました。

裕哉は小学6年生の時に約350マイル(約560キロ)離れているコネチカット州のボーディングスクールに転校しましたが、定期的にピアノレッスンと日本語学校だけはできるだけ続けさせたいと思っていました。金曜日に車を運転してコネチカット州まで迎えに行き、日曜日に送り届ける……。おおよそ東京から京都までの長距離を1日で往復運転するのですから、今考えると当時の私は本当に根性がありました(笑)。

アメリカの高速道路は永遠と同じ景色が続くので、途中でウトウトと眠くなり、実は二度ほどあやうく死にかけたことがあったのです。すると、必ず豊が一瞬夢に現れて知らせてくれるのです。いつも見護ってくれているのだなと感じる、尊い瞬間でした。

決めるのは本人。親は環境をケアするだけ

ピアノのレッスンは、日本に帰国後の17歳の頃まで続けていました。ボストンで出会った友人が東京でピアノの先生をしていたので、今度はクラッシックスタイルで習い始め、発表会にも出て『ノクターン』など演奏していました。

ギターに関しては、10歳のときに裕哉本人が「習いたい」と言い出しました。インタビューで5歳から父親と同じ道へ進むことを考えていたとすると、「ギターを習いたい」と言ったときには、そういった想いが背景にあったのかもしれませんが、私は全く気づきませんでした。友人の紹介でまたバークリー音楽大学出身の日本人男性の先生を見つけて習わせましたが、ギターレッスンは6ヵ月くらいで終了しました。

レッスンが嫌だったということではないのですが、当時は寄宿舎の友人と過ごす時間が多く、同じ興味を持った友だちと一緒に弾きながら学ぶのが楽しくなっていったからだそうですが、ギターが好きならば父親もそうだったように独学で学ぶのが一番だったのかもしれません。知らない間にギターが上手くなっていたので驚きました。

ボストンに住んでいた当時は、私も学生でしたので、自分の課題で忙しく、息子のためにつきっきりでケアをする時間は、ほとんどありませんでした。ですが、私は「環境が人を育てる」と思っているからこそ、息子のために「環境」を選ぶことには注力してきたつもりです。まず安全で、自己表現が存分にできる学習環境を最優先にしてきました。母一人子一人だったので寂しさはかなりあり......心配で学校に行ってしまい、『巨人の星』の明子姉さんのように、裕哉を校庭の樹木の陰から涙をこぼし見つめていたこともあります(笑)。

6年生でボーディングスクールに行かせることを選んだのには大きな意味がありました。息子の人生は息子だけのものであると思うので、どんな道を歩んでいくのかは自由です。自分で望んだことを仕事にして生きていけたら、この上ない喜びだと思います。親の私にできることは、生きていく中で、できるだけ多くの選択肢を与えてあげて、本人に選ばせるレールを敷いて、あとは本人の中で目覚め決断することが大事だと思うのです。

同時に、裕哉が望んだことをしてほしい、そのことに対しては一番の味方となって応援しようと思って生きてきました。

◇後編『尾崎繁美さんがアメリカで直面した「尾崎豊の息子」を育てる上で大切なこと』では、繁美さんが子育ての中で大切にしてきたこと、尾崎豊の息子であるからこそ、息子さんにわかってほしいと思ってきたことについて綴っていただきます。

尾崎繁美さんがアメリカで直面した「尾崎豊の息子」を育てる上で大切なこと