日本料理店「賛否両論」の店主で料理人の笠原将弘さんは、今から12年前に妻を亡くしました。「いい時間だった」と振り返る、3人のお子さんのお弁当作りについて伺いました。(全2回中の1回)

【画像】「普段見られないタキシードが新鮮!」笠原将弘さんと妻・江理香さんの結婚式での晴れ姿や家族写真など(全10枚)

子どもには「そのうちよくなる」と

── 妻の江理香さんの病気が発覚したのはいつ頃でしたか。

笠原さん:2010年のある日、カミさんが突然、「変な出血があった」と言い出して。「いつもとなんか違うから病院に行ってくる」というのが最初。最近、調子が悪かったとかそういうこともなく、前日もその日もいつも通り。「そうだな。心配だから行ってこいよ」という感じで見送ったんです。

笠原さんと妻・江理香さんの結婚式での1枚「タキシード姿が新鮮!」

そこで検査をしたら子宮がんだとわかった。先生の説明を俺も一緒に聞きに行きましたけど、「早く見つかってよかったですね」という話ぶりで。手術の説明に関しても「ここの部分をとればいいです」ということだったんで、正直、そこまで重くは受け止めてはいなくて、いつか治るものという感覚だったよね。

── 治療はどのように進めたんですか。

笠原さん:その後、再検査をして、キャリアがある別の先生から「子宮をとってしまう方が安全策です」という話をされた。子どもも3人いたし、俺も両親をがんで亡くしているんで、「確実な方がいいよね」と。カミさんもそれを望んでいたので、子宮の全摘手術をすることに。無事に手術が終わって、退院してからは、今まで通りの生活が戻ってきた。その夏は、みんなでカミさんの故郷の沖縄に行って海で泳いで、好きだった酒も飲んで。本当に普通の生活が1年くらい続いたね。

── その後、再発が発覚したそうですね。

笠原さん:定期的に検査に行っていて、そこでがんの転移が見つかった。そこから抗がん剤の治療をすることになるんですが、カミさんは「治療で髪が抜けちゃうなら」と言って事前に髪も短くして、ウイッグも買いに行って。この時点でも俺は、ものすごく心配をしていたわけではなく、「治療でよくなればいいな」という感じだったと思う。入退院を繰り返すことがしばらく続いたものの、家にいる時は普通の生活を送れていたから、そう思ってたんでしょうね。

でも、最終的に肺に転移していることがわかった。どんどん痩せてしまい、体調がよくない日が多くなって、入院になった。若いというのは、こんなにも進行が早いんだと感じましたね。今はもう、店の若い子たちにも必ず言いますよ。「検査は絶対行った方がいいぞ」って。


── お子さんたちには、病気のことは伝えていたんですか。

笠原さん:長女はその頃中学生で、次女と長男は小学生。病気のことは詳しく言ってなかったけど、入院していることは知っていて。「行けるときはお見舞いに行きなよ」って話はしていたんだけど、子どもだからよくわかってなくて、結局あんまり行かなかった。長女にはどうなのって聞かれたこともあったけど、「そのうちよくなるよ」としか、こちらとしては受け答えもできないですよね。

カミさんも、ずっと治るつもりでいて。よくあるような「私がこのあと」みたいな話はしなかったよね。常に普通の、日常的な会話。自分になんかできることがあるかと言ったら、やっぱり料理人だから「なんか食べたいものあるか」って聞いて、作れるもんは作って病院に持っていって。

── 妻の江理香さんは2年間の闘病の末、39歳のときに亡くなられたとのことですが、その後のお子さんたちの様子はどうでしたか。

笠原さん:亡くなった後はもちろんショックで泣いていたけど、思った以上に子どもたちの方がすぐに日常に戻ったと感じたね。「子どもって、もっと寂しいもんじゃねぇのかな」って思ったんだけどさ。葬式のときも、下の子なんて親戚の子と遊んでるし。そのあとはいつも通り学校にも通って。ずっと落ち込んでいたり、暗くなったりしている感じはなかった。それが救いでもあったんだけど、その意味で言うと、たぶん俺が一番引きずってたね。

抱えていた仕事も一度は全部キャンセルしたけど、仕事って山のようにあるわけで。でもこれが現実。仕事をしている間は気持ちも切り替えられたし、なるべく普通でいようと思ってたね。

── 仕事を続けながら、子どもたちの世話はどうしていたんですか。

笠原さん:カミさんのお義姉さんが仕事を辞めてずっと家にいてくれたんですよ。お義母さんも元気で、しょっちゅう家にきてくれていたのは大きかった。小さい頃からずっと一緒にいるから、お義姉さんのことは半分、お母さんみたいに思っていると思う。だからこそ俺も仕事ができたんだよね。

絶景をバックに お子さんが小さい頃、旅行先での家族ショット

世の中的にはシングルファーザーって言われるけど、家にずっとお義姉さんがいてくれたから自分ではそうは思っていなくて。お義姉さんは、夏とかお正月は沖縄に帰っていたけど、基本的には同居してずっと一緒に住んでくれていたんですよ。

── これまで「妻が生きていたら」と思ったことはありましたか。

笠原さん:俺も高校生のときに母親を亡くしているんだけど、親父が自分にしてくれたことはわかるから、男の子の育て方はなんとなく想像がついた。でも娘2人のことは、根本的にどうやって育てるもんなのか、わからなかったよね。

普通はお母さんに打ち明けるようなことを娘たちは言えないのかと思うと、可哀想なことしたなって。聞かれたらきっと答えだろうけど、たぶん俺に聞いてもわからないだろうから、言ってこなかったこともあると思う。でも本当にそこは、お義姉さんがいてくれたから助けられた。特に娘2人のことは、いろいろと悩みを聞いてもらっていたと思いますよ。

長男の高校入学で始めた3人分のお弁当作り

── お子さん3人のお弁当を作っていた時期があったそうですね。

笠原さん:運動会とか、行事の際の弁当は必ず作るようにしていたけど、どんどん仕事が忙しくなっちゃって、家のことがおざなりになってきた。長男が高校に行くときに、「もう弁当を作るのもこれで最後なんだな」と思ったら、なんか急にやってやろうと思ってね。長男の高校3年間の弁当は毎日作った。長女は社会人で、次女は大学生だったんだけど、弁当って1つ作るのも3つ作るのも一緒だから、「もしいるなら作るよ」と聞いたら、「いる」とことだったんで毎朝3つずつ作ってましたよ。

「賛否両論」の店内で行ったインタビュー

── お弁当の反応はいかがでしたか。

笠原さん:娘たちはやっぱり、美味しいって。でもね、長男は好き嫌いが多いし、ガキだからわりかしいろいろ言ってくるんだよね。野菜もこっちはよかれと思って入れてるのに、「野菜は好きじゃない」とかさ。今のような時期に、うなぎを入れてやったらそれも気に入らないらしい。俺はご飯の上におかずがのっけてあって、味が染みたようなのが好きなんだけど、長男はおかずとご飯が混ざるのが嫌なんだと。だからおかずはカップに入れてくれとかね。手羽先を入れたときは、食べる時に手が汚れるとも言われた。長男には、「お前、めんどくせぇな!」とよく言ってましたね(笑)。

── (笑)。それも楽しいコミュニケーションにも見えます。お弁当の感想は直接言われるんですか?

笠原さん:俺は帰るのも遅くて子どもたちと生活リズムが違うから、弁当の感想はグループLINEで。家族のLINEがあって、あれは便利だね。長女は食べているところの写真を撮って送ってくれて、嬉しかった。長男は、言い方はムカつくけど、「笠原のお父さんが作ったんだから美味しいだろ」って言って仲のいい友達に全部食べられちゃったということも言ってましたね。

── さぞかし美味しいお弁当なんでしょうね。

笠原さん:それが、そんなにおしゃれなやつじゃなくて、本当にごく普通の弁当でしたよ。ウインナーとかも入れて。そういう方が子どもには喜ばれるからね(笑)。

── 家族それぞれ別なところにいても同じものをいただくって素敵ですね。

笠原さん:どんなに遅くに帰ってきても、朝弁当を作っているときだけは、子どもたちのことを考える時間だった。「どんな友達と食ってんだろうな」とか、「そろそろ彼氏できたのかな」とかね。振り返ってもいい時間だったと思いますよ。


── お子さんと、恋愛の話もされるんですか?

笠原さん:うちは結構します。娘が高校生の時に「彼氏できたら言えよ」って話はしていたんで、一応、子どもたちから報告があるんです。

── 多感な時期に、父親に打ち明けるとは仲のよさが伝わってきますね。

笠原さん:うちはカミさんが亡くなってるから俺に言うっていうのもあるんじゃないかな。反抗しようにもあんまり俺が家にいないもんだから、「すごい反抗期が来たぞ」って感じは誰もなかった。でも長女は、高校生のときに彼氏ができてから門限を破るようになって。長女とは門限のことでちょっと言い合いになるようなことはあったけど、次女と長男はそんな感じはなかったな。

── やはり、父親としては心配で。

笠原さん:まだ当時は高校生だから門限のことは言ったけど、俺はどっちかっていうと、子どもたちは小さい時に母親を亡くして寂しい思いをしているだろうから、できる限り楽しい人生を送ってほしいって思ってるんだよね。

恋愛もそうだけど、彼氏や彼女ができたら、守ってくれる存在がいるって安心だなって気持ちがある。よっぽどひどいやつじゃなければ、結婚も早くていいと思うし、孫の顔というのも見てみたい。だから、子どもたちにはそういう存在がいてくれたらいいなと思いますよ。

PROFILE 笠原将弘さん

1972年、東京生まれ。焼鳥店を営む両親の背中を見て育ち、幼少期からさまざまなセンス、技、味覚を鍛えられる。高校卒業後、「正月屋吉兆」で9年間修業後、実家の焼鳥店を継ぐ。店の30周年を機にいったん店を閉め、2004年9月、恵比寿に自身の店「賛否両論」を開店。私生活では、ビールをこよなく愛する3児の父。

取材・文/内橋明日香 撮影/CHANTO WEB NEWS 写真提供/笠原将弘