2023年下半期(7月〜12月)にプレジデントオンラインで配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします――。(初公開日:2023年9月17日)
豊臣秀吉に重用された石田三成は、関ヶ原の戦いで徳川家康と全面対決し敗れた。作家、歴史研究家の濱田浩一郎さんは「家康と三成は最初から宿敵・仇敵だったように思われているが、秀吉死後に起こった豊臣七将による三成襲撃事件を詳しく見ていくと、家康の三成へのリスペクトが感じられる」という――。
写真=滋賀県提供
JR長浜駅東口。観音寺での豊臣秀吉と石田三成の出逢いの「三献の茶」の逸話に基づいた像 - 写真=滋賀県提供

■関ヶ原の戦いで西軍大将となり家康に敗れた石田三成

大河ドラマ「どうする家康」第35回「欲望の怪物」では、ドラマ後半の主要人物とも言える石田三成が登場してきました。三成を演じるのは、歌舞伎役者の中村七之助さん。石田三成というと、いわゆる「天下分け目」の関ヶ原の戦い(1600年)で、家康率いる東軍と戦い、敗れた武将として知られています。では、家康と三成の関係は、どのようなものだったのでしょうか。

本題に入る前に、三成の前半生について、軽く触れておきましょう。三成は、永禄3年(1560)、近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)の地侍・石田正継の子として生を受けます。ちなみに、家康は天文11年(1543)の生まれですので、三成の17歳年上です。

長浜城主であった羽柴(豊臣)秀吉に年少の頃から近侍するようになった三成。中国征伐や山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどに従軍し、さらには吏僚(役人)として働くことにより、豊臣政権のなかで出世していきました。(1585年には、従五位下治部少輔に叙任)。三成は、堺奉行に任じられたり、博多奉行として博多の復興を指揮したり、いわゆる太閤検地の実施の中心人物になったりと、主に民政で活躍しています(朝鮮出兵に際しては、船奉行を勤めて部隊の輸送を担当)。

そうした仕事をこなしていくには、頭脳明晰で、テキパキと物事を推進していく人間でないといけないでしょう。三成は秀吉にそうした所を見込まれたのではないでしょうか。

■三成は家康の17歳下、秀吉亡き後、豊臣家臣の反発を買った

家康と三成というと、関ヶ原合戦で刃を交えたことから、最初から宿敵・仇敵だったように一般には思われていますが、果たしてどうだったのでしょうか。秀吉死後に起こった豊臣七将による「三成襲撃事件」(1599年閏3月)から、そのことを探っていきましょう。

「豊臣七将」とは、加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明のこと。この七将が、大坂にいる三成を襲撃しようとしたのです(襲撃ではなく、三成の制裁を訴えようとしただけとの説もあり)。

その原因となったのが、朝鮮出兵の際、三成派の軍目付の報告により、諸将が秀吉から譴責(けんせき)処分を受けたことにあるとされます(朝鮮にある諸将が戦線縮小を画策していることを、三成の義弟で目付の福原長堯が糾弾。秀吉は怒り、黒田長政は蟄居(ちっきょ)、領地の一部没収。加藤清正は譴責)。

■家康の仲介で三成は救われ、家康の次男に護衛された

さて、七将の動きを察知した三成は、これまではよく、家康の屋敷に逃れたとされてきました。しかし、近年ではそうではなく、伏見城内にある自分の屋敷(治部少輔曲輪)に避難したとされます。七将は、三成を追い詰めますが、それ以上の行動はできず、三成の屋敷を遠巻きに包囲するのみ。一方、三成は伏見にいた毛利輝元や上杉景勝と連携し、事態の打開を図ります。

だが、最終的に、三成と七将の仲を仲介・調停したのは、徳川家康でした。三成の盟友である安国寺恵(え)瓊(けい)(毛利氏の使僧)が主君・毛利輝元に「家康に両者の仲裁をしてほしいと頼んでください」と懇願。輝元が家康に要請し、それを受けて、家康が動いたというのです。家康の調停策は次のようなものでした。三成は居城の佐和山城(滋賀県彦根市)で隠居すること。三成は隠居するから、七将は矛を収めよというのです(また黒田長政や蜂須賀家政の名誉回復も行われました)。

このとき、三成は子息・重家を人質として、家康のもとに送りました。三成は、閏3月10日に佐和山に去りますが、それを結城秀康(家康の次男。越前松平氏の祖)が警護しています。途中で、何者かが三成を襲撃してきたら大変ということで、護衛を付けたのです。三成を無事に佐和山まで送り届けた秀康。感謝の印として、三成から「正宗」の太刀を与えられています(この「石田正宗」の太刀は、現在は東京国立博物館が所蔵しています)。

宇治主水作『石田三成像』(模本)、東京大学史料編纂所蔵(写真=宇治主水/PD-Art (PD-old-100)/Wikimedia Commons)

■家康と三成は決定的に対立していたわけでない

それはさておき、家康は「三成襲撃」という七将の行動を黙認することはできませんでした。黙認すれば、秩序は乱れ、場合によっては、家康の「豊臣重臣」としての指導力が低下してしまう恐れがあるからです。それを避けるためには、七将の「暴挙」を抑制し、三成を中央政界から追放して、衝突を緩和させるしかありません。

しかし、その後、家康は三成の兄・石田正澄の大坂屋敷や、三成の屋敷に宿泊したりしています(1599年9月)。こうしたことを見れば、家康と三成の仲は、決定的に悪化・対立しているようには見えません。本当に仲が悪ければ、好き好んで、その人の屋敷に宿泊するようなことはないでしょう。もちろん、仲良しこよしというわけではなかったでしょうが、関係は決裂していなかったと言えましょう。

■三成は秀吉の遺言に背いた家康を打倒しようと立ち上がった

三成は、豊臣政権の実力者・家康と安易に対立することは良くないと考えていたのでしょうか。とはいえ、内心では、豊臣秀吉の遺言(私婚の禁止など)を次々と破ってきた家康に苦々しい思いも持ってはいたでしょう(家康の六男・松平忠輝は伊達政宗の娘と結婚。家康の姪で養女とした女性は、福島正則の嫡男に嫁いでいます)。

家康に対する不満や敵意があったからこそ、三成は最終的には、西軍を組織し、家康打倒のため、動いたのです。が、その結果は、皆様、ご存じのように西軍の敗北に終わります。関ヶ原の戦いに敗れた三成は、逃亡するも、捕縛されます。『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)は、家康は慈悲深くも三成を助けたのに(筆者註=先述の諸将による三成襲撃事件のことを指す)、三成はその御恩を有難いと思うことなく、心中、謀反を企んでいたと記しています。

狩野貞信作『彦根城本・関ヶ原合戦屏風』(写真=関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵/PD Old/Wikimedia Commons)

■関ヶ原で負けた後、木こりに変装した姿で捕まった三成

三成は、敗戦後、伊吹山に逃げ込んだようですが、木こりに変装していたとのこと(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書『徳川実紀』)。破れてボロボロになった衣服を着て、鎌を所持しているところを捕えられたと言います。そのことを聞いた人々が「大逆を企てる程の者が、死を惜しむとは。情けない」と嘲笑したそうです。

家康は、人々の嘲笑を聞くと、次のように反論しました。「凡そ人は、身を全うしてこそ、何事も成し遂げることができよう。大望を思い立った身ならば、1日の命であっても、大事なのだ。早く衣服を与え、食事を提供せよ。もし、病ならば、医者にも診せよ。よくよく扶助して、不自由のないようにせよ」と(『徳川実紀』)。

三成は、徳川の家臣・鳥居成次に預けられます。成次の父は、鳥居元忠。伏見城の留守を守っていた元忠ですが、そこを西軍に攻められて、元忠は戦死していました。成次にとって、三成は親の仇。しかし、成次は家康の仰せに従い、三成を丁寧に扱います。三成は感激し、涙を流したそうです。

■京都市中で処刑された三成が最期の瞬間に望んだこと

三成は、京都市中を引き廻しの上、処刑されることになります。六条河原の処刑場に行く途中、三成は喉が渇いたとみえて、湯を所望します(江戸中期成立の逸話見聞集『明良洪範』)。ところが、警固の者は湯を求めることはできず。よって「ただいま、湯は求めることはできない。喉が渇いたならば、ここに干し柿があるので、これを喰われよ」と三成に伝えます。三成はそれを聞いて「それは、痰(たん)の毒じゃ。食べない」と拒否。三成の回答を聞いた人々は「今から首を刎(は)ねられる者が、毒を忌(い)むとはおかしなこと」と笑ったそうです。

すると三成は「汝らのような者はそうであろう。しかし、大義を思う者は、たとえ、首を刎ねられるときまでも、命を大切にして、本意を達せんと思うものじゃ」と言い返したといいます。この逸話が本当にあったことか否かは分かりませんが(創作の可能性が高いでしょう)、誇り高い、三成の思考が垣間見えます。

■家康が三成の子どもたちを生かし、三成の血筋は続いた

江戸時代中期の説話集『常山紀談』には、関ヶ原合戦後に、家康と三成が対面したと書かれています。家康は「どのような武将も、このようになること(筆者註=戦に敗れて、引き据えられること)はある。恥ではない」と三成に慰めともとれる言葉をかけたといいます。すると三成は「ただ、天運のしからしめるところ。早々に首を刎ねられよ」と返答。気丈な三成の態度を見た家康は「三成はさすがに大将の器量じゃ。平宗盛とは大きく異なる」と感心したとのこと。

孟齋芳虎画「三河英勇傳」より『従一位右大臣 征夷大将軍源家康公』、明治6年〔写真=PD-Art(PD-Japan)/Wikimedia Commons〕

平宗盛は、平安時代末の武将であり、平清盛亡き後、平家の総帥となった人物。壇ノ浦の合戦(1185年)後、捕縛され、勝者である鎌倉の源頼朝の前に引き据えられます。その際、宗盛は卑屈な態度で助命を願ったと言われますので、家康はその故事を知っており、宗盛と三成を比較したのでしょう。これらの逸話が本当にあったことか否かは分かりませんが(創作の可能性が高いでしょう)、ここでも誇り高く潔い、三成の性質・思考が垣間見えます。

三成には嫡男・重家がいましたが、関ヶ原合戦後に京都妙心寺で出家。まだ年少であり、出家したこともあり、死罪となることはありませんでした。三成の次男・重成も、戦後、大坂城を逃れ、のち、津軽氏の家臣となっています。三成の三男も出家し、命を永らえています。こうした所を見ても、家康は三成に敵意ばかりを募らせていたわけではないように思うのです。

※主要参考文献
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2017)
・藤井譲治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)
・濱田浩一郎『家康クライシス』(ワニブックス、2022)

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。
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(作家 濱田 浩一郎)