「彼女と私、どっちも好きなの?」不倫を否定しない夫を置き去りにし、家を飛び出た妻は…
前回:「離婚したくない」一週間ぶりに家に帰ってきた夫から、まさかの告白。妻は…
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不倫の代償。何度打ち消しても浮かぶその言葉に脳裏を支配されながら、門倉崇は、妻・京子の次の言葉を待っていた。
結婚を決めてすぐに購入した千駄ヶ谷のマンション。そのリビングの中心を守り続けてきたL字型のソファーは、春を象徴するような萌黄色が素敵だと京子が選んだものだ。ほんの1週間前までこのソファーで2人、映画を見たり笑いあったりしていたことが、今ではもう幻のようだった。
室内に入る光が赤みを帯び、今何時だろうかと見上げて気が付いた。リビングにあったはずの時計がない。崇は思わず、口にした。
「…時計、外した?」
沈黙を破る言葉としては不適切だったと後悔しながら、京子の顔色をうかがう。崇を見た後、視線を時計があったはずの場所にボーっと向けた京子は、ああ、と言って続けた。
「…針の音が嫌だったから」
「…音?」
「かち、かち、かち、かち、って…やたら大きく聞こえるようになったから」
自分以外の物音がしない部屋に響く針の音に、崇の不在を強調されている気がして外した…というその理由までを京子は言葉にしなかったが、崇は、ごめん、とつぶやいた。
そのタイミングで、ぐうぅー、と間抜けな音がなった。空腹を知らせる腹の音。崇が発したその音に京子は呆れたように軽く笑った。久しぶりに笑顔が見られたことに崇はホッとし、感動すら覚えた。
「…何か食べる?」
「じ、じゃあ。オレがなんか作るよ…!」
京子の返事を待たずいそいそと腰を浮かせた崇を、私がやるから座っててと京子が制した。行き場を失った勢いをごまかしながら、崇はもじもじと座りなおし、キッチンに向かう京子の後ろ姿を見送った。
京子は料理が得意ではない。全くできないというわけではないが、食事は料理好きな崇が作ることの方が断然多かった。
お湯の沸く音がしたかと思うと、京子が戻ってきた。ダイニングのテーブルに置かれたのは、カップラーメンが2つ、だった。
締め切りに追われれば徹夜作業も少なくない京子と崇が、常にストックしているインスタントの麺類。出会った頃…2人でテレビ局のスタッフルームに泊まりこんでいた頃の楽しさと初心を思い出せるアイテムでもあった。
崇が用意する時は、練りゴマやラー油を足して担々麺風にしたり、パクチーやレモン汁でアジアンテイストにしたりとアレンジを加えることが多く、高価なデリバリーを頼める経済力がついた今でも、2人で今日はカップ麺の日!と決めて好んで食べる日もあった。
最後に食べたのはいつだったか…と思い出そうとした自分を崇は止め、6人掛けのダイニングテーブルで待つ京子の方へ向かい、迷った挙句、その正面に座った。
空腹を訴えたはずの崇の箸がなかなか進まないのをよそに、京子は淡々と麺をすすっていく。
「カドくんが作った料理は本当においしいよね」
京子は麺に目を落としたまま言った。
「カップラーメンだってアレンジしてくれて。いつも美味しくて楽しかった。でも…」
「…キョウちゃん?」
「カドくんの料理じゃなくても…カドくんに作ってもらわなくても、食べるものには困らないし、生きていけるんだよね」
そこで言葉を止め、黙り込んだ京子が何を伝えようとしているのかを想像できないまま、崇は箸をおき、京子の顔を見つめた。その視線に気が付いた京子が顔を上げ、微笑んだ。
「…ほんとはね。今日さっきの話を聞くまでは、戻ってきてっていうつもりだった。カドくんがいなくなって、ずっとカドくんに会いたいと思ってたし。許すというとおこがましいかもしれないけど…私のことが1番大切、っていうカドくんの言葉を信じるつもりで。でも…」
崇の心拍数が上がる。この先を聞いてはいけない。聞きたくない。そんな思いとは裏腹に、京子の言葉は止まってはくれなかった。
「カドくんが私たちの現場に彼女を招き入れた。そして彼女の作品を、私の作品と同じように認めている。美里さんに会った時も同じことは聞いてたの。でもカドくんの口から出ると…。
彼女の若さとか体とか……そういう私にはないものに溺れてるって言われたなら、きっと大丈夫だった。でもカドくんが、彼女の才能に惚れたのなら…それは本当に…私にとってはダメだなぁって」
「……ごめ…ん。さっきの話はそんなつもりで言ったんじゃないんだ。キョウちゃんの作品と彼女の作品は全然違う。キョウちゃんの才能と彼女の才能は全く別の…」
「でも……どっちも好きだって言うんでしょう。私にも…彼女にも」
虚を突かれたように目を見開き、言葉を失った崇から目を逸らした京子は、食べかけのカップ麺の容器を手に立ち上がりキッチンへ向かった。
半分以上残したそれを、生ごみを処理するディスポーザーに落とし、粉砕するためのスイッチを入れる。少量の麺を砕くのに時間はかからず、手ごたえのない空回りのような音を数回立てると、それはすぐに止まった。
カップ麺の容器をキレイに洗って捨ててから、京子は崇を振り返った。
「私とカドくんは、出会いが仕事で、お互いの能力を好きになって、お互いを頼って。ずっと一緒にいるようになった。そんな心地よさのままに結婚を選んだけど……もしもカドくんが、私より先に彼女と…美里さんと出会ってたら、どうなったのかなって思うの」
「………今のオレが何を言っても信じてもらえないと思うけど…」
絞り出すような声でそう言い唇を噛んだ崇を、京子はシンクにもたれながら見つめる。崇が弱った姿を見るのはつらい。でも、気がついてしまったことを、なかったように目をつぶることは京子にはできなかった。
「カドくんに別の女の子がいるって知った時、最初は驚いてパニックになった。それを私は、カドくんが、ただ不倫してる、浮気してるってことによるショックで、傷ついたんだと思ってた。でも違ったみたい」
「……違った?」
「…不倫だから、浮気だから全てが悪、間違えている、とは言えないんじゃないかって。ひかれあう力が本当に強いなら、むしろ…」
― 2人にとっては私の方が…ただ早く出会っただけの、邪魔者ではないのか?
「……もしかして…キョウちゃん、オレに美里ちゃんのところに行けって言ってる?」
崇が、勢いよく立ち上がった。その勢いのまま京子に近づいてきて、京子の両手を強く、でも優しく包んだ。少しだけ背を丸め、乞うように覗き込んでくる眼差しに、なんといえば伝わるのか、京子は必死で言葉を探した。
「私たち…一度離れよう」
「……いやだ」
子どものようにそう言った崇にほだされぬよう、京子は話す。
「じゃあ…聞くけど。もし…今カドくんが、美里さんとの関係が始まった日に戻れるとして……目の前で泣いている美里さんを抱きしめずにいられる?」
「……」
― ウソでも抱きしめないと言えばいいのに。
とっさに否定の言葉が出せずに黙った崇を、本当に正直な人だと京子は思った。そう思えば1年以上よく関係を隠せたものだ。それとも自分が鈍感すぎたのか。案外この世界は、自分にとって都合のいいフィルターがかかる作りなのかもしれない。
「私はずっと、自分がカドくんにとって唯一で、他にかわりのきかない存在だと信じてた。でもたぶん違ったんだよね」
「………唯一、だよ」
「…カドくん。唯一っていうのは、たった一つってことだよ?だから選んで欲しいの。でもその選択は、浮気だから悪いとか、そんな罪悪感からのものじゃなくて、本当に心から…どちらが唯一なのかを選んで欲しい」
「…オレが、選ぶの?」
「…うまくいえないけど…私とカドくんでは作れない世界が、彼女との間に存在してるってわかってるでしょ?」
京子の手を握る崇の力が強くなった。それをそっと外して、京子は何歩か後ずさり離れてから言った。
「ほら、私ラブストーリーが苦手じゃない?私には恋愛ものが書けない、私の恋愛の表現はありきたりで深みがないって散々言われてきたよね。でも別に傷つかなかった。向いていないなら書かなければよかったし、避けて過ごせた。ただ人生は…きっとそれじゃダメだよね」
「……」
「私たちの間に仕事がなかったら…結婚してたかな」
「…」
「カドくんに選んで欲しいって言ったけど、その間、私自身も考えてみようと思う。仕事でも生活でもカドくんから離れて、カドくんのいない世界で…お互いを唯一だと思えるのか…これからも一緒に過ごしていけるのか…」
そういうと京子は、立ち尽くす崇をキッチンに置き去りにし…しばらくすると荷物を持って家を出た。
「…あーやっぱり、雨ふってきちゃいましたね…」
大輝の声に、京子はPCから視線を上げた。けっこうひどいな、という大輝の言葉通り、走る新幹線の窓に水滴が猛スピードではりついていく。その様子をしばらく見た後、京子はPC画面に視線を戻した。
京子と大輝は青森に向かっている。
京子が大学での講義を受け持っているのは、大学時代の恩師である香川教授に頼まれたからだが、その教授に講義活動の一環だと思ってくれ…!と半ば強引に組まれたのが、2泊というスケジュールの青森出張だった。
地元紙でインタビューを受ける教授の対談相手、そして高校生主催の映画コンテストの審査員を任されてしまったのだが、久しぶりの地元に浮かれた教授が数日前に現地入りしてしまったことで、大輝との2人での旅路になってしまっている。
「青森って今の時季、桜がキレイらしいのに…」
予報がずっと雨…と嘆く大輝に、京子は、遊びに来たわけじゃないんだからとPCから目を離さないまま苦笑いで言った。
目的地は弘前市で、新幹線がもうすぐ新青森駅に到着する。
PC操作が苦手な教授が、映像をプロジェクターに出す係として大輝を同行させると言った時、京子はそれ以上聞くことをしなかった。大輝は教授の雑用係をしていると聞いていたし、すでに大学を卒業してアルバイト生活だという大輝は、他のゼミ生より融通が利くのだろう。
あの日家を出て以来、京子は崇に会っていない。事務所のマネージャーである金城にだけは夫婦の事情を話し、京子はとりあえずのホテル暮らしをしている。そろそろ小さな部屋でも借りた方がいいのではとマネージャーに勧められ、物件を探し始めたところだった。
「お互いに…唯一が決められたら…また話し合おう。それでいい?」
そう言った京子を、崇は黙ったまま力の抜けた様子で見つめていた。あれから2週間近くがたつが、崇は自宅にいるようだとマネージャーから聞いていた。
美里と会っているのか…たまにそんなことも考えてしまうが、崇から時々くるLINEは、ちゃんと食べてますか、などの他愛もないものばかりで、京子も簡単な返事をするだけ。
京子は今、崇ではない監督との企画を抱えていたし、崇も夏から放送のドラマの演出にかかりきりでお互いに忙しくしている。ただ、その忙しさを言い訳に問題の輪郭がぼやけていくような心もとない不安、焦りも感じていた。
「…まさか…離婚はしませんよね?」
マネージャーの金城が心配そうにそう言うには訳がある。彼女は自分が京子に美里からの手紙を渡してしまったことが引き金となったことに罪の意識を感じていたし、事務所の立場としては、門倉夫妻が別れるのは避けたいという思いもあるのだろう。
業界最強の夫婦。それが売りとなり、夫婦でのCM出演や講演会の依頼が絶えないベストパートナー。2人のパッケージ売りは、クライアントにも受けが良く、そのおかげで、コストがかかる割に儲からない映画作りという仕事で、社員を養えていることも事実なのだから。
このまま別れるのか、元に戻れるのか。どちらにせよ…それが、自分達夫婦だけの問題ではないという事実に、京子は改めて溜息をついた。
◆
― 少し…痩せた、のかな。
細くなった気がする京子の横顔に心配になる。JR新青森駅から目的地の弘前市内までは、教授の勧めもあり車で移動となった。レンタカーを運転する大輝の横、助手席に座ってすぐに京子は眠ってしまっていた。
京子が疲れていることは、東京駅、新幹線の車内で待ち合わせて、すぐに分かった。
大輝の部屋に京子が泊まった翌日に送ったLINEには京子からの返信がこないまま、今日はあの日以来の再会だった。教授からこの青森への同行を依頼された時、食い気味に承諾して教授に引かれたことは京子には秘密だ。
4月も下旬に入ったというのに雨のせいなのか、青森はまだ寒い。外気8℃という表示に大輝は空調を調整し、京子を起こさぬよう穏やかな運転を心掛けながら、あの日の長坂美里の言葉を思い出した。
「私たち、友達になりません?仲良くなって助け合いましょ」
眉をひそめた大輝に、美里は、私はね…と強い目で見つめた。
「出会ったタイミングが遅かったっていうだけで、あきらめるのはイヤ。崇さんへの思いを…世間が決めた、不倫とかいうチープな枠にカテゴライズされるのは耐えられないんです。大輝さんもそうでしょう?」
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