愛おしい人といるときは、何気ない時間が特別なものに変わる。

そして、2人の時間をよりスペシャルなものにしてくれるのが、ワインだ。

ワインには、香りと舌の記憶とともに一瞬を永遠に留めてくれる不思議な力がある。

今宵も、ボトルの前に男と女がいる。

長い年月を経て、このテーブルに辿り着いたこのワインのように、とっておきの物語が紡がれる。

▶前回:2年前に別れた元カノをSNSで発見。結婚したことを知った31歳男は思わず…




Vol.18『不機嫌な妻』健斗(37歳)


4月は、何かと忙しい季節だ。

大学卒業後、飲料メーカーに勤務している健斗だが、毎年この時期はぴりっと気持ちが引き締まる。

幸い部署の異動はなかった。だが、周りの人員も一定数入れ替わるから、引き継ぎや教育といった余分な仕事が増えるのも事実。

― 明日は新人歓迎会で遅くなるし、今日は早めに帰ろう。

春は疲れやすい。それも体力的な、というよりは気疲れと言うほうが正しい。

健斗は足早にオフィスを出たが、気分は少し憂鬱だ。

― 今日も陽菜の機嫌、悪いのかな…。

陽菜とは、結婚7年目になる健斗の妻だ。健斗より2つ年下の35歳。IT系の会社に勤務しており、在宅で仕事をしている。

2人の間には、息子が1人。この春から念願の私立小学校に通い始めた。

陽菜の会社は、子どもが小さいうちは、時短が許され、そのうえフレックス。子どもを小学校に送り出した後、15時まで自宅で仕事をし、それ以降は子どもの習い事や家事に充てている。お受験の準備に費やす時間が多かった去年に比べ、陽菜も健斗も自由になる時間が随分増えた。

だが、最近の妻はイライラと機嫌が悪いことが多く、理由がわからない健斗のもやもやは募るばかりなのだ。

「ただいまー」

家に着くと、玄関であえて明るい声で帰宅を告げる。リビングからバタバタと息子の海斗が走ってきた。

「おっ!海斗、学校楽しかったか?」

「楽しかったよ!もう1人で学校に行けるよ」

快活に答える海斗の様子に、ホッとしながら寝室で着替え、リビングに行くと…。

「おかえりなさい」

キッチンで料理中に陽菜が、振り向いた。


「お!ロールキャベツ、おいしそうじゃん」

キッチンを覗き込むと、陽菜が「でしょ?」と笑った。

― 今日はイライラしてないみたいだな。




ホッと胸を撫で下ろし、健斗は冷蔵庫からビールを取り出した。テーブルの上には、ランチマットが敷かれ、カトラリーもセットされており、今夜のメインが出来上がるのを待つばかりだ。

「あー、うま…」

ビールをぐびっと流し込み、健斗は一息ついた。ランチ以来、何も口にしていない胃に、ビールが沁みる。

健斗は、ふと何かつまみたい衝動に駆られた。

「陽菜ー、悪いんだけどさ、なんかつまみない?」

なんとなく口から出てしまった言葉だった。

しかし、振り向いた陽菜の表情は、明らかに嫌そうだ。たかがつまみぐらいで、機嫌が急降下するなんて大人げない、と健斗は思った

「疲れて仕事から帰ってきたのに、その顔なくない?」

別に言わなくてもいい言葉だとはわかっていたが、言わなければ気が済まなかった。すると陽菜は、淡々とした口調で、言い返した。

「私も疲れている。子どもだってお腹を空かせて待ってるんだから、つまみぐらい自分で用意すればいいじゃない」

ケンカするつもりはなかった。

「あぁ、わかったよ。別に作ってほしいなんて言ってないよ。ナッツでもチーズでも、ある場所言ってくれれば自分で出すし」

ただ、最近の陽菜の態度に、思うところがあったのだ。少し注意して、直してくれるなら…。そんな気持ちだったのに。

「健斗って、仕事して疲れているのは、自分だけって思ってるんだね」

「は?だって陽菜は時短だし、家で仕事してるんでしょ?

ほんと、最近の陽菜はおかしいよ。なぁ?海斗、ママ怒りっぽいよな?」

健斗は息子に同意を求め、海斗は困った顔で2人を見ている。

その後の夕食は、言うまでもなく最悪だった。それぞれが子どもに話しかけ、陽菜と健斗はお互いの存在が見えないかのように、無言を貫いた。

どちらも、自分が正しいと思いながら。



翌日になっても健斗は、昨日の一件が引っかかっていた。

「ビールだって自分で冷蔵庫から取り出しているし、つまみない?って聞いただけであんなに機嫌が悪くなるなんて」

ランチをとりながら、健斗は同僚の山崎に愚痴る。




「なにか、心あたりは?奥さん、誘って2人きりで飲めばいいじゃん」

「そう言うけど、子どもが生まれてからは、誘う隙すらないんだよな。昔はワインが大好きでよく一緒に飲んだんだけどな。最後に2人で飲んだのは…もう4年前も前だよ」

山崎は、結婚した年が同じで、子どもも1つ違いと共通項が多い。

「俺の大学の友達は、妻がよそよそしいなぁ、変だな、って思ってたら、他に男ができて離婚してほしい、と懇願されたってよ?」

「いや、まさかうちの陽菜に限って…。

在宅ワークだからいつも同じような服着てるし、メイクも必要最低限だ。昔はセルジオ・ロッシの綺麗なピンヒール履いて、いい女だったんだけどなぁ」

毛先を軽くカールしたロングヘア、プラダのバッグ、ラインの美しいパンツスタイルで、美味しそうにワインを飲むかつての陽菜が脳裏に浮かぶ。

「いやぁ、子どもが生まれると変わるよな…」

「いや、それもあるけど…。妻が美しく居続けるのは、旦那次第だ」

山崎はきっぱりと言い切った。姉と妹に挟まれた3人兄弟の真ん中で育ち、自分よりも早く結婚した2人を見て悟ったのだそうだ。

「うちの場合、週2回家事代行を頼むようにしてから、家庭が格段に円満になったな。時は金なりだよ。試してみろよ、奥さん喜ぶぞ」

そう言われても、いきなり家事代行とは話が飛びすぎる。せめて中間的な解決策があれば、と思う。そんな健斗の様子を察して、山崎は言った。

「じゃあ、聞くけどいままで奥さんのために、何をやってきたか言える?」



その日の夜、健斗は妻のためにワインを買って帰った。

陽菜は驚き、いぶかしそうに言った。

「いきなりワインって、なにかあったの?それも私の好きな…『キスヴィン ピノ・ノワール』」

キスヴィンは、山梨県甲州市にあり、世界品質のワインを作ることで知られる、気鋭のワイナリー。ファーストクラスのワインリストにも名を連ねる、このワイナリーのピノ・ノワールをいつかの結婚記念日に開けたことがあった。

「何年か前に一緒に飲んだだろ?最近は、なかなか入手しにくいみたいだけど、たまたま見つけたから買ったんだ。他意はないよ」

しかし、ワインに気をとられたのは一瞬で、この日の陽菜もバタバタと忙しそうだった。子どものお風呂、息子の学校の準備、宿題のチェックにお弁当に仕込み…。






日曜日。

「今日の夕飯は僕が準備するから」と健斗は宣言し、夕方、デパ地下で調達したデリを片手に、家に戻ってきた。

健斗は、料理はまったくできない。仮に今から料理を始めても、要領を得ないだろう。山崎の言う家事代行も一案としてあるが、まずは、自分でできることをやってみよう、と思ったのだ。

デリを買ってきてセットするだけだが、陽菜は想像以上に喜んだ。

「すごい!海斗、パパセレクトのご飯、美味しそうだね」

― なんだ。こんな簡単なことだったんだな。

妻の機嫌の良し悪しは、夫次第。山崎が言った通りだったのだ。

健斗は、夕飯と一緒に1本のワインを買ってきた。

「これ、どう?」

陽菜にボトルを見せた。

『マニフェスト ブルゴーニュ・ムスー』

「え?これって、もしかしてスパークリングなの?」
「陽菜にいろいろ言われて、僕もだいぶ反省したからね」

健斗は照れ笑いを浮かべながら、料理をとりわけ、グラスにワインを注ぐ。ルビーのように美しい色調に加え、グラスの底から泡が立ち上っていく。

発泡酒らしい華やかさに、陽菜はグラスを見入っている。




「この間は良かれと思ってキスヴィンのピノ・ノワールを買ってきたけど、今の陽菜にはフィットしていなかったな。気づけなくて、ごめんな」

健斗は挽回するつもりで、ワインショップに出向き、オーナーに相談した。すると「ブルゴーニュでスパークリングワインを手掛けるパリゴ&リシャールのワインはどうですか?」と勧められた。

スパークリングなら、開けてすぐに美味しいし、これなら赤ワインのように深くて華やかな味わいも楽しむことができる。

さらに、もうひとつ、このワインを選んだ理由があった。

「あとは、名前がマニフェストだから」

「マニフェスト…宣言?」

陽菜が聞き返した。

「うん。陽菜は気づいてないかもだけど、明日は僕らの結婚記念日だし、これからは、陽菜に家のことを任せっきりにしないで、協力できることはやります、っていう宣言的な意味で…」

陽菜の表情がパッと明るく輝いた。

「じゃあ、宣言を忘れないように、このボトル、飲み終わったら捨てないで取っておくね」

久しぶりに見た、楽しそうな様子の妻。

― 春は始まりの季節なんだな…。

夫婦もリスタート。甘酸っぱいアロマを嗅ぎながら、健斗は酔いのまわった頭でぼんやりと思った。

【今宵のワイン】

『マニフェスト ブルゴーニュ・ムスー』
フランス・ブルゴーニュ地方で作られる、ピノ・ノワール100%の赤のスパークリングワイン。100年にわたり、スパークリングだけを作り続ける生産者の思いが詰まったワイン。味わいは深くて華やか。

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