彼の家に何度訪れても、彼女になれない女。男の思わせぶりな態度に振り回された結果…
愛おしい人といるときは、何気ない時間が特別なものに変わる。
そして、2人の時間をよりスペシャルなものにしてくれるのが、ワインだ。
ワインには、香りと舌の記憶とともに一瞬を永遠に留めてくれる不思議な力がある。
今宵も、ボトルの前に男と女がいる。
長い年月を経て、このテーブルに辿り着いたこのワインのように、とっておきの物語が紡がれる。
▶前回:付き合って3年だけど、結婚の話を出さない年上彼氏。30歳女が別れを切り出したら…
Vol.16『失恋するって意外と難しい』弓岡心美(28歳)
18時25分の麻布十番。
「不動前までお願いします」
「かしこまりました」
予想もしない声色が聞こえ、心美は驚いて顔を上げる。女性のドライバーだった。しかも若くて美人。
― この人なら、ちょうどいいかも。
心美はそう思った。
「あの…運転手さん。よかったら、このワインもらってくれませんか?」
心美は大事に抱えていたワインを掲げる。
女性ドライバーは、バックミラー越しにチラリと心美を見た。
「すいません。変なこと言って…。でもこのワイン、本当に美味しいんです。もらってくれませんか?」
断られると思ったが、女性ドライバーの返事は意外なものだった。
「そうですか。では遠慮なく頂きます。お客様からの贈り物はすべて頂戴するのが私のルールなんです。
あともう一つだけルールがあります。
東京…特にこの港区にはウソが溢れています。
だから、せめて乗車中だけはお客様も私もウソは禁止。それがルールです」
呆気にとられながらも心美は思った。
― 面白いことを言う人だな。
助手席の前に飾られたネームプレートを見ると、これが本当に無加工の証明写真なのかと疑うほどに美しい顔が載っている。
柊舞香、それがドライバーの名前らしい。
仙台坂から不動前までせいぜい20分かそこらだろう。
男性ドライバー相手なら躊躇するが、舞香のような相手なら会話もしたくなる。
むしろ話を聞いてほしいぐらいだ。
「わかりました。ウソはつきません」
心美がそう言うと、バックミラー越しに舞香は微笑む。
「見たところ、そのワインはどなたかへのプレゼントだと思いますが…。どうして私が頂くことになったのか、その経緯を教えてくれませんか?」
― やっぱり、そこが気になるよね。
ウソをつくつもりはない、本当のことを伝えることにする。
タクシーは白金高輪を通過していく。
大手広告代理店に勤める心美は今夜、会社の同期が集まるホームパーティに参加するつもりで『カサーレ・ヴェッキオ・モンテプルチャーノ・ダブルッツォ』を用意した。
「でもやっぱりやめて帰ろうと思ったんです」
ホームパーティーの会場は、同期の茂森正弥が住む麻布十番のマンション。正弥とは、他の同期に内緒で二人きりで飲む間柄だった。
流れで彼のマンションを訪れたことも何度もある。
「私、正弥のことが好きだったんです」
誰にも言ったことのない本音を、なぜか初対面のドライバーにすんなり打ち明けてしまう。
「でも気持ちを伝えることができないまま、正弥に彼女ができて…。同棲を始めたらしいんです」
心美が訪れていた正弥のマンションに、今は別の女が住んでいる。
今回の同期会の会場が正弥の家になったのは、彼女を紹介するという目的もあった。
当然、心美は気が乗らなかったが同期会に参加するつもりだった。
用意したカサーレ・ヴェッキオは、心美が正弥のマンションを訪れたときに、度々二人で飲んだワインだ。
リーズナブルだけど、辛口のフルボディで濃厚なワイン好きの正弥の好みのワインだ。このワインを飲みながらたくさんの話をした。
― その彼女なんかよりきっと、私のほうが正弥のことを知ってるよ。
ちっぽけなマウントを取るためにも、同期会に参加したかったが…。
「でも無理でした…やっぱり苦しくて」
心美は悩み抜いた末、土壇場になって引き返すことを決意し舞香のタクシーに乗った。
「だから、このワインは必要なくなったんです。よかったら飲んでください」
心美が後部座席から手を伸ばして、カサーレ・ヴェッキオを助手席に置く。
「わかりました、ありがとうございます。大切に飲ませて頂きます」
舞香の優しい声と言葉に誘われ、心美はつい会話を続けてしまう。
「正弥は私のこと、どう思っていたと思いますか?」
タクシーは白金台から首都高の下をくぐり抜け、目黒方面へ向かっていた。
心美と正弥は、皆には内緒で二人きりで飲み、流れで正弥のマンションで二次会や三次会をしていた。
しかし、男女の関係になったことはない。
一度、それらしい雰囲気になったことはあるが、一線を越えることはなかった。
翌朝、オフィスで会ったときには周囲に気づかれない程度の気まずさで挨拶を交わし、数日後にはまた皆に内緒で二人きりで飲みんだ。
何度もそんな夜を繰り返したが、付き合うまでに至らなかったし一線を越えたこともない。
「異性だけど、仲の良い友達ってことですかね?」
「そうですね…」
そう言ったきり舞香は黙ってしまった。
答えに困っているのだろう。
心美は急に恥ずかしくなり、沈黙を破る。
「まあでもこんな恋バナ、東京ではありふれていますよね…」
タクシーが目黒駅前の信号で停まる。
すると舞香は少し強い口調で言った。
「ありふれた恋バナなんて存在しません」
「えっ…?」
「ありふれた恋愛なんてものは、この世界にひとつもありません。私はそう思います」
舞香は言葉を続けた。
「かつての正弥さんが、あなたのことをどう思っていたのか、それは私にはわかりません。
でも今現在の正弥さんの恋愛感情は、その同棲中の彼女に向けられていて、心美さんには向けられていないことは、確かです」
舞香がはっきり言うのものだから、心美は少しばかり傷ついた。でもそれは明白な事実だ。
「きっとあなたは、そのことは理解しているのでしょう?」
「…そうですね…まあ、はい、理解してます」
「だから傷心を隠して、同期会に参加するつもりだったのだと私は想像しますが、どうですか?」
「…」
図星だった。
バックミラー越しに心美の表情を読み取った舞香は言う。
「やっぱり、そうですよね。私もあなたと同じ立場なら、同じような選択をしていたと思います」
「…運転手さんも、正弥が彼女といるところを見るために、同期会に参加しましたか?」
「そうです。そしたら、ちゃんと失恋することができるから」
タクシーは走り出す。
「悲しい出来事があったとき、人間はちゃんと傷ついて悲しまないといけないんです。ちゃんと失恋しなきゃいけないんです」
心美は気づけば、涙が頬をつたっていた。
なぜ泣いているのか、自分でもわからない。
― 私、本当に正弥のことが好きだったんだな。
勝手に溢れ出す涙が、あらためて心美自身に訴えかけてきた。
「どこかでUターンして麻布十番に戻ってもらえますか?」
涙を拭って心美は舞香へ告げた。
「やっぱり同期会に参加しようと思います。正弥が彼女といるところをこの目で見て、ちゃんと傷ついて、ちゃんと失恋してきます」
舞香はチラリと振り返って、心美へ優しく微笑みかける。
「それがいいと思います」
権之助坂の手前でタクシーはUターンした。
「いい男だったんですよ。正弥って」
思わず心美は呟いた。
「でもよく考えたら、ずっと思わせぶりな態度を取られていた気がします。なんて最低な男なんだろう」
吹っ切れた女の明るい毒づきであり、強がり。
つまりウソだ。
しかし舞香は「ルール違反だ」とは指摘してこなかった。
代わりにタクシーが麻布十番に到着するころになって、舞香は言った。
「お客様、ワインはどうされますか?持っていかなくていいんですか?」
「正弥の好みを彼女に教えるためにも、持ってきます」
舞香は微笑む。
「そうですね。それがいいと思います」
「ありがとうございます。私、ちゃんと失恋してきます」
心美も笑顔を見せ、カサーレ・ヴェッキオを手に、タクシーを降りた。
傷つくことはわかっていても歩き出す。
それが恋愛だから。
【今宵のワイン】
カサーレ・ヴェッキオ モンテプルチャーノ ダブルッツォ
イタリアのアブルッツォで作られているワイン。品種はモンテプルチャーノ。
通常、1本の葡萄樹から8房の葡萄を収穫するところ、こちらのワインに使われる葡萄畑では半分の4房を落とし、残りの半分の4房だけに栄養を集中させている。それによって密度の濃い旨味の詰まった味わいとなっている。
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別れてから後悔しても遅いけど、あの時…