◆これまでのあらすじ
大手損害保険会社に勤める美月(28歳)は、語学留学のため退職を控えていた。しかし、それは名目。実際は、不倫中の上司である浅野と一緒になるための口実だった。送別会で、先輩の紗理奈を中心に作成された寄せ書きを受け取る。裏側にまでメッセージが書き込まれていたが、そこに見覚えのない名前を見つけ…。

▶前回: 大手損保を辞める28歳女。退職祝いにもらった色紙の裏に、不穏なメッセージを見つけ…




寄せ書きの裏側【後編】


「出発まであと1週間か。だいぶ片付いたね」

美月のマンションを訪れた浅野は、部屋の中を見回しながら言った。

最低限必要な家具が置かれ、いくつかの段ボールが詰まれた状態となっている。

美月は、もうすぐ、オーストラリアへ語学留学に発つ。買い物の付き添いを浅野に依頼し、帰りに部屋に寄ってもらったのだ。

「明後日には業者が来て、残りの荷物を実家に運んでもらうことになってるの」

留学するにあたり部屋を引き払い、出発の日まで実家で過ごすことにしていた。

浅野が、フローリングの上に腰をおろす。

ふと目線を上げたところで「あっ」と何かに気づいたように呟いた。

「あれって、この前もらったものかい?」

視線の先にあるウッドラックの上段には、壁に立てかけるように色紙が置かれていた。

「うん。送別会でもらった寄せ書き」

先日行われた美月の送別会で、花束とともに贈られたものだった。

慕っていた先輩・紗理奈を中心に作成され、同僚たちからのメッセージが隙間なく書き込まれている。

退社の主な理由は、語学留学と伝えていたが、実際は浅野との不倫関係が大きく影響している。

騙したようで後ろめたい気持ちがあり、寄せ書きを受け取るのに最初は抵抗があった。しかし目を通すととても貴重なものだという実感が湧き、雑には扱えない。

「びっしり書いてあるでしょう?裏側にもあるんだよ」

浅野は色紙を裏返して眺め、感心する。

「そうそう。ひとり、知らない名前があって…」

美月が『深山法子』の名前を差し示す。

「掃除のおばちゃんかと思ったんだけど、違うみたいで。誰だろう。知ってる?」

浅野は色紙をじっと見つめながら「う〜ん」と唸った。

「いや、知らないなぁ…」

その言い方がどうも歯切れが悪く、表情には動揺の色が浮かんでいるように見えた。


留学に出発する2日前。

美月は再び、職場近くにある老舗の焼き鳥屋を訪れていた。

紗理奈に「出発前に飲みに行こう」と誘われたのだった。




「ごめんねぇ、美月。こんな直前の忙しいときに」

「いえ!私ももう一度ここ来ておきたかったので嬉しいです。紗理奈さんにも最後に挨拶したかったし」

日本を離れればしばらく戻っては来ない。

この店独特の活気あふれる光景や雰囲気を、目に焼き付け、体に染み込ませておきたかった。

入口近くのテーブル席に座り、店内を見渡す。

壁や天井際に飾られた有名人のサインを眺めていると、店の奥の座敷にいる男性グループに目が留まった。

「あれ?あの人、なんか見たことあるような…」

テーブルを囲む4人のなかのひとり、薄い色のサングラスをかけた男性にどこか見覚えがあるように感じた。

「ええ?あぁ、確かに見たことあるかも…」

紗理奈も店の奥を覗き、同意する。

「わかった!ほら、あのバンドのボーカルの人ですよ」

超有名人というわけではなかったが、最近注目を浴びているバンドのメンバーで、音楽番組などで見かける機会が増えていた。

同席しているほかの3人も、音楽関係者やスタッフのようだった。

自分だけが存在に気づいたという状況もあり、美月はにわかにテンションが上がった。

「お母さんお母さん!」

高齢の女性店員を呼び止めると「あいよ!」と威勢のいい声が返ってくる。

「お母さん。あの人、有名な人だよ」

「ええ…?」

女性は目を凝らして様子を窺うが、見覚えがないと首を捻る。

年齢を考えれば、若い世代のバンドを知らないのも無理はない。

「あの人、これから絶対もっと売れるはずだから、サインもらっておいたほうがいいと思う」

お節介であることはわかっているが、多少酔いが回っていることもあり饒舌になっていた。

女性は「う〜ん」とためらう様子を見せる。

さっきまでの威勢のよさが失せ、困惑の表情を浮かべていた。

「わかった。私に任せて。私がもらってきてあげるから」

酔いも手伝い、美月は自ら進んで引き受けた。

美月は腰を上げると、店員から色紙を受け取り、男性グループのほうに歩み寄って行った。

しばらくして席に戻った美月は、色紙を得意げに紗理奈に見せた。

「やっぱり本人でした!サインもらえました!」

店に貢献でき、いいことをしたような心地よさをおぼえる。

色紙を女性店員に渡したところで、美月はあることを思い出した。

送別会で受け取った寄せ書きに、見覚えのない女性の名前があった件だ。

紗理奈なら何か知っているに違いないと思い、切り出そうとしたタイミングで、入口の引き戸が開いて女性が入ってきた。




― 女性がひとりって、珍しい…。

黒髪の清楚なタイプの女性であったこともあり、この年季がかった場が似つかわしくないように感じた。

すると、紗理奈が女性に気づき、手をあげた。

「え…。紗理奈さんのお知合いですか?」

女性も紗理奈の呼びかけに反応し、歩み寄る。

「そう、私が声をかけたの。ほら、前に話した、この店によく一緒に来ていた同期」

「ああっ。はいはい」

女性が紗理奈の隣の席に腰をおろす。

「紹介するね。こちら、美月が日本橋支社に来る前まで一緒に働いていた深山法子さん」

寄せ書きにあった、正体不明の女性の名だ。

美月は、一瞬ゾクッと背筋が寒くなる感覚をおぼえた。


「法子さんって。寄せ書きにメッセージを書いてくれましたよね?」

美月が尋ねると、法子が頷いた。

紗理奈と法子が視線を合わせる。

紗理奈は、真剣な面持ちで話し始めた。

「ねえ、美月。詮索するわけじゃないんだけど…。浅野課長と付き合ってるよね?」

「え…。なんで…そう思うんですか?」

「寄せ書きを集めているときにね、ある子から聞いたの」

紗理奈は名前を明かさず「心配してるんだと思う」と相手の心情を汲み取った。

美月は少し答えをためらったが、もう隠しても仕方がないと、交際を認めた。

「実はね。法子も、3年前まで課長と付き合ってたの」

「ええ…?」

すると次に、法子が口を開いて話を続けた。




「私が異動することになったのは、課長と一緒になるためだったの。今の支社を離れて、そのあいだに課長が離婚をして、ほとぼりが冷めたころに付き合い始めたことにする計画だったんだ。それで私は、異動願いを出したの」

自分と同じような状況だ、と美月は思う。

「それでね。異動はしたんだけど、向こうはいっこうに離婚する気配がなくて…。結局、職場が離れたのをいいことに『気持ちが冷めた』とか言われて別れを告げられちゃって。まあ、都合よく扱われたのね」

自分の行く末を暗示するような言葉に、美月は気分が沈んだ。

認めたくはなかったが、心のどこかで思い描いていた、暗い未来のひとつではあった。

「美月も、同じようなこと課長から言われてない?」

美月がうつむいたまま応えないでいると、紗理奈も察したようだった。

「当時ね。法子は、私にだけは相談してくれてたの。それで今回、美月の話を聞いたから、いてもたってもいられなくなって…」

「私も、美月さんのことを紗理奈から聞いて。私と同じような目には遭ってほしくないなって思ったの。そのときちょうど、美月が寄せ書きを作っているところだったから、私もつい思っていることを書き込んじゃって…」

寄せ書きにあった法子からの『気をつけて』のメッセージに込められた意味を理解した。

「浅野課長、たぶん別れる気なんてないよ。あの人、自分の欲ばっかりだから…」

紗理奈も言う。

「美月も、今はまだ私たちの言っていることが受け入れられないかもしれないけど、頭には入れておいてほしいの。何かがあったときのために、心のクッションになるように」

美月は彼女たちの訴えに耳を傾けてはいものの、どこか他人事のように受け止めているところがあった。浅野に、深く傾倒しているからだ。

ただ、2人の真剣な眼差しからは、後輩の未来を親身になって考えてくれているのが伝わってくる。

「ありがとうございます」

美月は呟くように礼を述べた。

口先だけでしか返せなかったが、心を動かされるところはあった。



留学から半年後。

美月は一時帰国をしていた。

「紗理奈さん?さっき空港に着きました」

紗理奈に電話をかけ、日本に戻ってきた報告を入れる。




留学期間中、紗理奈とは頻繁に連絡を取り合っていた。

というのも、浅野との関係に決着がついたのだ。

案の定、オーストラリア留学中、時差のため浅野と連絡が途絶えがちになり「気持ちが冷めてきた」と言われた。

法子から受けた忠告通りの行動に、美月はショックを受けるどころか呆れてしまった。

美月は、この一件を紗理奈に伝えた。

すると紗理奈が、浅野の不倫を人事部に告発したのだ。

法子だけでなく、浅野の行動に不信感を抱く者たちからの証言が得られ、事実だと認められた。

結果、浅野は地方への異動というペナルティを課せられた。

「紗理奈さんと法子さんのおかげで、たいしたダメージもなく済みました」

「大丈夫?落ち込んでない?」

「全然!スッキリしてます」

「ならよかった。あ、もしかして向こうでいい出会いがあったとか?」

「ふふふ…。まあ、その辺の話もしたいので、飲みに行きませんか?ほら、あの焼き鳥屋さん」

「あのお店、閉店しちゃったんだよ。ちょっと前に」

それを聞いて、美月の脳裏にある光景がよぎる。

留学直前に訪れた際、バンドのボーカルにサインをもらったときのこと。

女性店員が、やけに困ったような表情を浮かべていたのが印象に残っていた。

― きっと、閉店することが決まってたんだ…。

美月は、送別会で寄せ書きを受け取ったときの、なんとも言い難い複雑な感情を思い出す。

― 受け取る側の都合も考えなきゃだな。

善意の行動であっても、相手に迷惑をかけしまうことがあるのだと考えさせられた。

電話の向こうから「そうそう」と紗理奈の声が聞こえた。

「いい店見つけたんだよ。もつ煮込みがめっちゃ美味しいの」

「いいですね。そこ行きましょう!お土産持って行きますね」

オーストラリアで人気のあるオイントメントをお土産用に購入していた。

― 迷惑…ではないよねぇ…。

お土産すらも、相手の迷惑になるのではないかという戸惑いが生じる。

だが、再会を楽しみにする晴れやかな思いが、その感情をかき消した。

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