前回までのあらすじ:港区で知り合った愛や雄大たちとともに、パリ旅行に来た宝。そこで大輝が不倫している話を聞いてしまい…。



6時50分。携帯のアラームが鳴る10分前に目が覚めた。起き上がってカーテンを開けると、日の出が遅いパリの街はまだ真っ暗で、まるで夜。

昨夜、水をあきらめてベッドに戻ったけれど、しばらく眠れず。最後に携帯を見た時には2時過ぎだったから、5時間くらい眠った、ということになる。

「明日の朝食はね、宝ちゃんを連れて行きたいカフェがあるの」

そう言ってくれていた愛さんとの約束は8時にリビングに集合。まだ1時間程余裕がある。ただ。

― 昨日、あれから大丈夫だったのかな。

大輝さんに対する愛さんの怒りと、それを諫める雄大さんの声を思い出し、今日の朝食の約束は果して実行されるのか、とやや疑問ではあったけれど、とりあえず服を着替えて、愛さんに「女子用ね」と言われていたバスルームへ向かった。

誰かがヒーターを入れてくれていたようで、バスルーム全体がじんわりと暖かい。洗面所の鏡の前に宝ちゃん用、とかかれた水のペットボトルが置かれていた。おそらく愛さんからかな、と気遣いに感謝しつつ、昨夜以来乾いていた喉を潤し、顔を洗ってメイクをした。

メイクと言っても、ベースを塗り、眉毛を整えてリップでほぼ終わりという、10分もかからない単純な作業を終えて、昨夜の“不倫”についてのもめ事が今もまだ続いていたらどうしよう、などとドキドキしながら、私はリビングへ向かった。

そもそも、大人同士が面と向かって言い争う、という現場を見たのは、初めてかもしれない。私は口論が苦手だから、そんな環境を無意識にさけてきたのかもしれないけれど。

「…おはよう」

リビングにはコートを着た雄大さんだけがいた。マフラーを巻きかけていて、どこかに出かけようとしているようだった。

「愛と大輝はまだ寝てる。オレは今からカフェに行くけど、一緒にいく?」
「…え?」
「宝ちゃん、昨日の夜、俺たちの話、聞いてたでしょ?」

気づかれていた。雄大さんの位置からは、リビングの入り口のドアのすりガラス越しに、立ち去る私の影が見えたらしい。すみません、聞くつもりはなかったんですけど、と、もう一度謝ると、こちらこそ騒がしくて申し訳なかった、と謝り返される。

「宝ちゃんにちゃんと説明しておいた方がいいかな、と思って」と雄大さんは言った。

「今のままじゃ、あの2人に会うの気まずいだろうし、心構えがいるかなと。日本に帰っても一緒にいることが増えるわけだし。それに愛からの伝言で、今日の朝食は無理そうだから宝ちゃんにゴメン、って。だからオレが代わりに。朝食がてら、説明するよ」

どこか私に対して距離があったように見えていた雄大さんが、私をケアしてくれるなんて意外だったけど、行きます、と答えて、コートを羽織り外へ出た。


…寒い…!

携帯を見ると8時少し前で、気温は2℃。11月半ばとしては例年通りの寒さらしいけれど、私は、手袋をしていない手をポケットに突っ込んだ。

日が昇り始めたばかりのまだ暗い街を、雄大さんと並んで歩く。アパルトマンからルーブル美術館が近いことはわかっていたけれど、他にも観光名所が沢山あることを知った。

パレ・ロワイヤルというかつての王宮の中庭を通り抜け、路地に出ると、小さなカフェに入った。白髪のマダムが「オー!ユウダイ」と熱烈な歓迎で雄大さんを抱きしめる。

ちゅ、ちゅ、と両頬にキスを受けた雄大さんは、4、5年前からこの店に通っていて、年に1〜2回のパリ滞在期間中、何度も顔を出すのだという。マダムとご主人が夫婦で続けてきたこのカフェは、今年でちょうど30周年を迎えるのだと教えてくれた。




雄大さんに勧められて、クロックムッシュとカフェオレを頼んだ。雄大さんは、朝4時まで愛に付き合って飲んでたからさ、と笑って、具沢山の野菜スープとお水を注文した。

注文の後、お互いの近況報告らしいおしゃべりがマダムと雄大さんの間で続く。雄大さんは流暢な英語を話すけれど、マダムは英語が得意ではなさそうなのに、笑顔と勢いで会話が成立しているのが、ほほえましかった。

「友香ちゃんと会えなくて残念だったね。今彼女、NYだっけ?」

マダムとの会話を終えた雄大さんが言った。

そうなのだ。パリに住んでいる親友の友香は、今NYに出張中。宝と会えないのは残念だけど、今回は雄大さんたちのアテンドで思いっきり楽しんで!と言われている。雄大さんには、くれぐれも宝をよろしく、と連絡してくれたらしい。

「…なんか、いろいろ、気を使ってもらってすみません」

なんとなく申し訳なくなり、私が謝ると、雄大さんは、それ、よくないよ、と言った。

「何のための“すみません”?」
「いや、友香からのお願いとか、今も、私が皆さんの話をうっかり聞いてしまったせいで、朝から気を使ってもらって…」
「友香ちゃんのお願いは友香ちゃんの意志。それを受けるかどうかはオレの意志。この朝食は、オレが宝ちゃんを誘って、一緒にきてもらってる。宝ちゃんがすみません、って言うことじゃない。悪くないのに、なんとなくその場の雰囲気で謝るのって、やめた方がいいよ」
「…そんなつもりじゃなかったんですけど…すいません…」
「ほらまた。とりあえず謝るとか、自分が悪いって言った方が気楽だ、みたいな、自分から下手に出る癖、ない?」

― 癖…?私が、下手に出てる…?

「そのほうが楽だとか思ってるのかもしれないけど、相手に安くみられるよ。仕事でもプライべートでも。自分が変わりたいとか、自分の価値を上げたいなら、まずそれを、やめた方がいいとオレは思うけどね」

思わず、また、すいません、と言いそうになって、飲み込んだ。容赦がない言葉が、何かに刺さって、反論できずにうつむいた。

そのうちに雄大さんの、そんなに落ち込む…?という声が聞こえてきた。

「ただの1意見なんだから、違うなら違うと反論してほしいんだけど。むしろ反論もウエルカムだし」
「……反論って言われても…慣れてなくて」
「…言い過ぎた…かも、ごめん」
「…いえ…」

妙な空気になってしまったけれど、“オマチドウサマ!”と料理を運んできたマダムの日本語が(雄大さんに教わったらしい)その空気を打ち破ってくれた。“アタタカイウチ二ドウゾ!”とせかされ、私は、熱々のクロックムッシュを口にする。

トロッとしたチーズが濃厚で、パンも上品でとても甘く感じる。カフェオレもミルクがとてもまろやかだ。

2人共、しばらくの間、沈黙し。黙々と食べていたけれど、私のクロックムッシュが残り半分になったくらいで、「昨夜の話をしようか」雄大さんが、あっさりと言った。

「オレたちの話、どこまで聞いてた?」

さっきまでの気まずさはどこ?という、あっけない切り替えに、肩の力が抜ける。理性という名の暴力、と雄大さんを表現した愛さんの言葉を思い出しながら、私は答える。

「ほんの1言、2言、です。愛さんが、大輝さんの不倫にめちゃくちゃ怒って…それで愛さんが自分が不倫されて離婚したから…?って雄大さんに言って。それくらいです」


「じゃあ、全てを聞いたようなもんだね」と雄大さんは、事情の説明を始めた。

大輝くんは、昨年から年上の女性と不倫関係にある。大輝くんは、恋愛にドはまりするタイプで、恋をすると雄大さんに報告し、話をきいてもらうのだという。

雄大さんは、大輝くんの“不倫の恋”を止めることも、応援することもなかった。ただし、愛さんには絶対に言うなと伝えていた。その理由は、愛さんが、俗に言う『サレ妻』というものだったからだ。

愛さんが、5年前に離婚した原因は、夫が会社の部下と不倫したことだったらしい。しかも離婚後、夫はその相手と再婚し、愛さんとの間の子ども…小学4年生の愛さんの息子さんと一緒に3人で暮らしていて、昨年には2人の間に新たに子どもも生まれたという。

「…愛さん、お子さんがいらっしゃったんですね」

「そう。オレから見てもめちゃくちゃ良いお母さんしてたよ。でも元夫の方が、大地主の家系で金持ち。で、代々大物政治家の後援会会長、っていう経済力的にも、政治力的にも圧倒的強者だった。

その上、相手の弁護士が離婚訴訟のスペシャリストでさ。どんなに分の悪い裁判も勝たせるっていう、芸能人とか政治家御用達の。もうあくどいというか、なんというか。

結婚前に、水商売してたことをつつかれて、その当時から男ぐせが悪かったとか、とか、事実無根な事まで捏造された。信じられないけど、その馬鹿げた捏造がまかり通ってさ。離婚後、男に夢中になったら、育児放棄になりかねない、とか。

愛が両親を亡くしてることが、不利になったりもした。当時愛は、夫の両親と同居していたんだけど、サロンをはじめたばかりだったこともあって、仕事で自分が幼稚園に迎えにいけないとか、困った時には夫の両親や、両親が雇っているお手伝いさんとやらを頼っててさ。それが、夫の両親なしでは育児が成り立たない、と判断されたらしいんだ。

詳しい最終判決は、俺も聞いてない。というか、愛が辛そうすぎたから、聞けなかったんだけど、息子と一緒に暮らす権利を元夫に奪われた、ってことは知ってる」

離婚原因が、相手の不倫にもかかわらず、今は、愛さんは1ヶ月に1度ほどしか子どもに会えず、愛しいわが子は、不倫相手を母と呼ぶ生活をしている。

「そりゃ、極度の不倫アレルギーにもなるのもわかる。だから、大輝には、愛には絶対言うな、って言っといたんだけど」




大輝くんとキョウコさんの関係が始まって1年とちょっと。その間、愛さんの質問を大輝くんはうまくかわしてきていたという。それなのに、昨夜は。

「俺たち、3人一緒に旅行して同じ部屋に泊まるのって、実は久しぶりでさ。店で会う時とは違うリラックス感が出ちゃったのかな。珍しく、愛がしつこかったんだよね。まあ2人とも酔ってた、っていうのもあると思うけど」

いつもは話してくれるのに、今回だけ隠したい、ってことはさ、と愛さんが詰め寄ってしまった。

「もしかして、不倫?だったら最悪なんだけど。って、愛が嫌悪感丸出しの顔で問い詰めたから、大輝も珍しく、スイッチ入っちゃってさ。

人の恋愛をよく知りもしないで、最悪って言う方が最悪でしょ、ってキレた。

愛さんの、正義感まっしぐら、みたいな性格って、時々、めちゃくちゃウザい、とか言っちゃって。そこからはもう、売り言葉に買い言葉的に全部バレた」

そこからは、宝ちゃんが聞いてた通りで、あの後、大輝を部屋に戻して、オレは朝まで愛に付き合ったってわけ…と雄大さんは溜め息をついた。

誰にだって、うまくいかないことの1つや2つがあることはわかっている。でも愛さんや大輝くんは、私が出会ってきた人の中でも殊更キラキラしていて、毎日が楽しい事ばかりの人たちに見えていたし、そのキラキラに、そんな裏側…苦労があるなんて思いもしなかった。

「…私に話しちゃってよかったんですか?」

「愛には、多分宝ちゃんいたよ、オレからちゃんと説明しとく、って伝えてある。パリでもあと2日一緒にいるし、これから顔を合わせる度に、宝ちゃんに知らないふりさせるのもどうかと思ってさ。愛も同意してたから」

大輝は事後報告でも気にしないから大丈夫、と、雄大さんは続けた。

「宝ちゃんも不倫とか、絶対ダメなタイプだろうから。なおさら説明が必要かな、って」
「…絶対ダメ、ってことは…」
「ダメでしょ」
「…」

元カレに浮気されてフラれた私を、いわゆる『寝取られた女』だと知っているから、雄大さんは聞いているのだろう。

「…絶対、ダメとかはわからないですけど…傷つく人がいるんだよ、って思います」
「それはそうだろうね」
「雄大さんは、不倫、とか、どうなんですか?」
「不毛な恋愛とか世界で一番いらないモノ」
「……それでも、大輝さんを止めないんですか?」
「大輝とはちゃんと話してるけど、不倫、ってカテゴライズされるだけじゃわからない本人たちの事情があるんだろうし、人生、そんな思い通りにならないもんでしょ。でも宝ちゃんが大輝のことをキライになるのは自由。そこはご遠慮なく」

淡々とそう言うと、雄大さんは、愛さんと大輝くんのためのお土産、クロワッサンとショコラパンを注文してくる、と、席を立った。

レジの前で、マダムと談笑する雄大さんを見ながら、私は、ふと思った。雄大さんが恋をするのは、一体どんな女の人なのだろう。

大輝くん程のわかりやすい美貌ではなくても、多分それなりにルックスが良いと言われる人種であろう雄大さんは、身長も175cmは超えてそうだし、スタイルもいい。

服や車、時計などを高級にすることには全く興味はないらしく(普段着はユニクロでも十分らしい)派手さはないけど、清潔感はあるし、仕事もできてお金もあるとくれば、絶対にモテると思う。いちいち毒舌…というか、言葉がキツイ所は難点ではあるけれど。

そういえば…初めて会ったあの夜。

愛さんと雄大さんの間に甘い空気が流れた気がしたのは、私の気のせいだったのかな。


店を出てすぐに、今から朝食を持って帰る、と雄大さんが愛さんにLINEすると、まさかの返事が返ってきた。

『帰ってこないで。今、大輝と話し合い中なの。とことんやらせて』

つまり、2人きりにさせて欲しいとのことだった。

『雄大は、今日は、宝ちゃんを観光に連れて行く係で。話がついたら連絡するから、その後合流しよう』

雄大さんからその文面を見せられ困惑していると、私にもLINEが着信した。

『宝ちゃん、雄大に、なんでもわがまま言っていいよー。大輝みたいなエスコートは期待できないけど、雄大って金ならあるから♡』

今度は私が、雄大さんにその文面を見せる。すると雄大さんが溜め息をついて言った。

「仕方ない」
「…仕方ない、って?」
「買い物でも行く?確かに、オレ、金ならあるんで?」

心底面倒くさそうな顔で、イヤミっぽく語尾を強調した雄大さんが、なんだか笑えてきてしまった。

― この人、意外にわかりやすい人なのかも。

とはいえ急に、買い物、と言われても、欲しいものが思い当たらず。

確か、歩いて行ける距離にモネの美術館がある…とガイドブックに書いてあったな、と思い出し、向かってみたら土曜日のせいなのか、団体客がずらっと並んでいて、その混雑に入ることをあきらめた。

「他にしたいことは?」

雄大さんにそう言われて、困った私は携帯のメモを取り出す。それは、パリに行くことが決まった時、パリのおススメスポットをリストにして友香が送ってくれていたものだった。

ハイブランドに興味を持てない私向けのショッピングリストで、食器やインテリア雑貨、そしてマカロンやチョコレートなどのスイーツの店、かわいいカフェやおしゃれなBar、そして美術館などもあった。




雄大さんは、そのリストを携帯ごと私から受け取ると、URLから店の詳細をじっくり見ていた。そして、しばらくすると「こっちは明日行きなよ」と言った。

「明日ですか?」
「女子受けのいいスポットなら、大輝にエスコートしてもらうか、愛と行く方が、オレと行くより断然楽しいから。愛と大輝のおすすめも聞いて、明日一緒に行ってもらいなよ。だから、今日は…」

ちょっと待ってて、と、雄大さんは電話をかけ始めた。

電話の相手が出ると、最初は英語で、やがて日本語になった。そして、急で申し訳ないです、本当にありがとうございます、と電話を切ると、雄大さんは私に言った。

「今から、シャンパーニュに行こう。昨夜レストランで飲んだシャンパンの生産者さんのところ。俺のプランを今から実行するってことで」

「プランって…」
「宝ちゃんが変わるための、なんとか、ってやつでしょ」

佐々木宝改造計画、とでも呼ぶ?と笑った雄大さんのプランは、確か。

≪雄大プラン:雄大が紹介する、芸術・料理・学問など各分野の一流の専門家3人から1対1で学ぶ時間を作る≫

「雄大さん、本当に今からですか?今、すぐ?」
「大丈夫。シャンパーニュまでパリから車で1時間半だから。今からなら、余裕で日帰りできるよ」

私のために動いてくれているのは、本当にありがたい。でも。

― この人たちは、どうして、いつもこんなに急なの!?

日帰りだからOKとかいう問題ではなくない!?とか、そもそも何しに行くんですか!?とか、突っ込む間もなく雄大さんの手配はてきぱきとすすみ。

あっという間に、一目で高級車とわかる大きな車が迎えにやってきて、海外ドラマに出てくるSPのような、大きな体のフランス人の運転手さんが、笑顔で車のドアを開けてくれて、乗るように促される。

中にいた顔に見覚えが…と思えば、昨夜のレストランのシェフだった。シェフと雄大さんが並んで座り、私はその後ろの列に。

「眠かったら、着くまで寝てていいよ」

と雄大さんに言われたけれど、眠れるわけがない。

朝起きた時には想像もできなかった展開。この人たちと出会って何回目かわからない、その予想外の展開が、またも始まろうとしていた。

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次回は、2月24日 土曜更新予定!