◆これまでのあらすじ

顔だけのダメ男・直人と別れたばかりの残念美女・杏奈。かつて振った男性たちがエリートになっている姿を見て接近し始めるが、散々な目に遭ってばかり。結局、一番の逃した魚が直人だと気づき……!

▶前回:早稲田に合格した高3の2月が、人生のピークだった。仕事も続かず海外に逃亡した29歳男は…




Vol.12 逃した魚


街灯の光が、窓からかすかに差し込むだけの、うす暗い部屋。

時刻は22時。ひとりの寂しさゆえの衝動で、杏奈は直人へ電話を発信してしまっていた。

番号のメモを一度丸めてゴミ箱に入れたにもかかわらず…。それでも彼と繋がりたいという気持ちを、抑えられなかったのだ。

「…!」

3コールほどで、はっと我に返る。そのまま呼出終了ボタンを押す。

― 何しているんだろう。自分からフったのに…。

杏奈は心を落ち着かせようと、深呼吸した。しかし、直人を思い出させるシナモンの香りを体中に取りこんだせいか、反対に胸はますます高鳴る。

大人しくベッドに潜り、目を閉じる。もうさっさと、一日を終えてしまおうと努力する。

しかし、まぶたの裏には、直人との楽しかった思い出が浮かび上がるばかりだ。

最初のデートは、チェーンのハンバーガー店だったこと。

彼のひとり暮らしの家が、足の踏み場もないほど汚かったこと。

いずれも他人から見れば嫌気がさすような経験だが、杏奈にとってはじめてのことばかりで、新鮮な感動だったことを覚えている。

なかでも一番楽しかったのは、6年前のクリスマス。

前の日の晩からふたりで並んで、ずっと競馬場で過ごした一日は、直人の馬券の調子が良かったこともあり、最高の時間だった。

結局、最後のレースでトントンになってしまったものの、帰り際、直人は露店で馬蹄形のキーチェーンを買ってくれた。それはそのまま、杏奈へのクリスマスプレゼントとなったのだ。

― すごく嬉しかったな…。ほとんどお金が残っていないのに、私のために買ってくれて…。

それなのに、別れを告げた時。杏奈はその馬蹄のキーチェーンのついた鍵を、「出て行って!」と直人に投げつけてしまったのだった。

子どもじみた、駄々っ子のような行動。酷いことをした出来事を思い返した反射で、杏奈は目をパッと開いた。

起き上がっても、目の前は暗闇だった。窓の外に目をやると、夜空には星ひとつ浮かんでいない。

発信の折り返しはどんなに待っても来ることはなかった。


5ヶ月後──


7月。

里帰り出産のために麻沙美が地元・沼津に長期滞在をしていると聞きつけた杏奈は、早めの夏休みをとり、まるまる帰省に充てることにした。

相変わらず恋人もおらず、ひとり過ごしていても空虚なだけだから。

実家到着の翌日に、さっそく麻沙美と落ち合った杏奈は、沼津の千本浜海岸の堤防をふたりで歩く。

「懐かしいね、この堤防。マラソン大会で走った場所だよね」

「そうそう!杏奈は意外と速いんだよね。確か1位だったよね」

「女子5人中のね」

目の前にそびえたつ富士山、心地よい波の音、爽やかな海風…。

高校時代の思い出話に花を咲かせながらも、杏奈の心はうわの空だった。目の前の海の向こうに、想いを馳せている。




― 直人は今、どこにいるんだろう…。

その日の朝に更新された直人のYouTubeは、メキシコを訪れている動画だった。

日本で撮影された動画も更新されているため、帰国は度々しているのかもしれない。それでも、忙しなく世界を飛び回っている状態は変わらないようだ。

「…杏奈、全然私の話聞いてないでしょ」

案の定、麻沙美に指摘される。

「そんなことないよ…ええと、美味しいタコスの話だっけ」

「違う!子どもの名前の話をしてたの。もー、杏奈は昔から、話聞いてない時はポカンと口開けてたもんね。すぐわかるよ」

「え…そうだった?」

「全然変わらないよね。何もかも」

そう言う麻沙美も、棘のある口調やしたたかで積極的な性格は、高校時代からそのままだ。結局、人は年齢を重ねて成長すれど、根本的なところはほとんど変わらないものなのだろう。

「ところで杏奈、彼氏作りの計画は順調?」

実は、杏奈が麻沙美と会うのは4ヶ月ぶり。

恋人作りに焦って暴走気味だった以前と比べ、落ち着きを帯びた杏奈の様子は、何があったのかと麻沙美が気にするほどだった。

「実はね…」

杏奈は背筋を伸ばし、静かに語りだす。

「色々な男性と接して、苦々しい思いを経験したことで、ようやく気づいたの。私やっぱり…直人のことが好きなんだ」




「…麻沙美、色々協力してくれたのにゴメンね。でも、それがわかっただけで、私にとっては十分なの」

「なるほど。そういえば、直人君も動画で言っていたなぁ。『世界放浪して、結局日本が一番いい国だって気づいた』って。大騒ぎしながら一周して戻ってくる。要は似た者同士だったんだね」

杏奈は、高濱にもそう言われたことを思い出し、はにかむように笑った。

「で、これからどうするの?」

麻沙美は答えを急かすように顔を覗きこんだ。杏奈はしばし考えた末に、しどろもどろで口を開く。

「…彼、海外を飛び回っているじゃない?だから私は今、自分を磨く時間なんじゃないかなと、思っていて」

本音は、自分から動き出す勇気がないのだ。

一度、勢いで直人に電話をかけたものの、折り返しがないことが不安に拍車をかけている。つまり、海外にいるのをいいことに、直人の方から迎えに来るのを待っている状態だ。

もちろん、待っているだけでそんなことが起きるかどうか、自信もなければ確証もなかった。

「直人が戻ってきたときに胸を張って会えるような自分になりたくて、PRプランナーの資格に挑戦したり、社内起業のプロジェクトに手をあげてるんだ」

杏奈は自分に言い聞かせるように訴える。真実ではあるが、自分磨きなんて大層なものではなく、いずれも心の隙間を埋めるための手段に過ぎないから。

一方で、話を聞いている麻沙美は、みるみる怪訝な表情になっていくのだった。

「…」

「どうしたの、麻沙美、おかしな顔して」

「ねえ、杏奈。もしかして、直人君が地元に戻っているのを知らないの?てっきり知っているものだと」

「…え?」

「港湾のあたりにカレー屋さんを開いたんだよ。確か、この近くだったはず」


直人がいま、地元にいる──その事実は、寝耳に水だった。

「うそ。直人のSNSにもYouTubeでも、そんなことひと言も…」

「ひとまず味で勝負したいから、今は名前を伏せているんだって。でも地元の同級生のあいだでは有名よ。今後は商社と手を組んで、物販系の起業もするらしいけど…ええと、店名なんだっけ」

ショップカードがあるはずだと、鞄の中を探りはじめる麻沙美を、杏奈は横で前のめりになって見つめた。

麻沙美はその鋭い視線に気づき、いたずらっぽく微笑む。

「今すぐ会いに行っちゃう?」

「行きたい!けど…」

思わず本音が漏れるが、杏奈はその先の言葉にしばらく詰まった。

直人が遠くにいると思い込んでいたとはいえ、一人前の女性に成長しなければいけないと、決心したばかりなのだ。今はまだ、なにも胸を張れることがない。

「今の、何もかも中途半端な私のままで会いに行くのも…」

杏奈は言葉を選んでゆっくり告げる。近くにいるからといって安易に会いに行くなんて、甘えている。しかも、直人がすんなり自分を受け入れてくれるとも限らないのだ。




「ふうん。そういうところも、似た者同士ね」

麻沙美は、何か言い返すわけでもなく、ショップカードを差した。

そこに書かれていた店名に、杏奈は目を見開く。

「これ…」

「タンクと店に行った時、直人君に軽く杏奈のことを聞いたの。そしたらね『杏奈には今、合わせる顔がない。胸を張って会えるような自分になるのが先』だって。なんか同じこと言ってない?本音はお互い未練あるのに」

麻沙美の言葉は、杏奈の背中を押した。

「…麻沙美。ごめん、ひとりで帰ることできる?」

「もちろん。タクシー呼ぶから大丈夫よ」

麻沙美の返事を聞くや否や、杏奈は地図にある店に向かって走り出したのだった。



生まれてからずっと、お姫様気分だった杏奈。

白馬の王子様を夢見て、ちやほやされるのが当然だと思っていた。

しかし、“王子様がお姫様を迎えに来る”だなんて、もうそんな時代ではない。

アニメ映画や物語に出てくるプリンセスだって、近ごろは自ら動き出し、道を切り開いているのだ。

リベンジするなら、今しかない。

杏奈はそれが、衝動だと理解していた。しかし、その衝動こそが自分の正直な気持ちなのだと、波にあえて乗る決意をする。

距離にして1キロほど。杏奈は無我夢中で店に向かって走っていた。

「ここ…」

たどり着いたのは、港の倉庫をスタイリッシュに改装したカフェライクな雰囲気のカレー店だった。

店名は、『annapūrṇā』。

サンスクリット語で“豊穣の女神”という意味の、ネパール・ヒマラヤ山脈に位置する山群の通称だと、ショップカードで説明されていた。

しかし、そこには別の意味が含まれていることを、杏奈は直感している。

それを表すかのように、OPENと扉にかかったプレートには、杏奈がなくしたはずの馬蹄形のキーチェーンがかかっていた。

乱れた髪を整えた後、意を決して扉に手をかける。




「いらっしゃいませ。ようこそ、アンナプルナへ」

若い店員が杏奈を迎える。杏奈はおもむろに店内を見渡した。

お昼時を少々過ぎた時間にもかかわらず、地元の漁業関係者や、近くにある母校の生徒たちで席が埋まっている。

「おひとりさまですか?」

席に座りメニューを手に取ると、背後から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。迎えてくれた店員とは別の男だった。

「はい。ひとりです、ずっと」

杏奈は柔らかにほほ笑む。

彼は、感極まった表情で杏奈を見つめ、優しく頷いた。

Fin.

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