山粼錬(ENEOS) 引退インタビュー 前編(全2回)

 2023年冬、社会人野球生活11年を区切りにユニフォームを脱いだ名門ENEOS(横浜市)の内野手・山粼錬。ひと昔前は高卒3年、大卒5年と言われた社会人野球の平均在籍年数だが、それを大幅に超え、野球関係者の間では職人気質のプレーヤーとして「知る人ぞ知る」の存在だった。


ENEOSで11年間にわたって活躍した山粼錬 撮影/浅田哲生

 山粼が一躍脚光を浴びたのは、慶應高3年の時に出場した2008年の春・夏の甲子園。主将としてチームをけん引し、夏の県(北神奈川)大会決勝・東海大相模戦では、延長13回に右翼席へ試合を決定づける、2ランホームランを放った。

 46年ぶりの出場となった甲子園ではベスト8入りに貢献し、その後、慶應大へ。大学でも主将を務め、卒業後はENEOSに入社し、1年目と10年目に都市対抗野球で頂点に立つ栄誉を手にしている。

 山粼のばらつきのない安定した成績と、勝負強さは誰もが認めるところ。加えて、人を束ねる抜群のリーダーシップは学生時代、社会人を通して発揮され、首脳陣からも仲間からも信頼を得てきた。

 その間、ケガやチームの低迷など、紆余曲折は当たり前にあった。それでも山粼が常にアマチュア野球界のトップ街道を走り続けられたのは、自分のなかに「こうありたい」と願う確固たる思いがあったからである。

 それは、昨夏の慶應高107年ぶりの全国制覇で再び注目を浴びた「エンジョイ・ベースボール」。あまりにストレートな言葉ゆえに世間一般の理解はさまざまだが、その真意を知る者にとっては心の奥底に根づく、人生観にも深く影響するものだという。

 引退の節目にあたり、もっとも長く身を置いたENEOSでの社会人野球生活、そして慶應の「エンジョイベースボール」について、前後編のインタビューで思うことを語ってもらおう。


慶應高3年時には主将として春・夏の甲子園に出場した 撮影/浅田哲生

【ギリギリ感がクセになる社会人野球】

ーー野球ひと筋に24年間、お疲れさまでした。

山粼錬(以下同) ENEOSに入社した時は、まさかここまで長く野球をやれるとは考えもしませんでした。社会人チームは毎年新人が5人前後入り、多い時は10人以上。メンバーは総勢30人ほどなので、その分入れ替わりがある厳しい世界です。僕自身も5、6年目にキャプテンを務めたあと、7年目からはずっと「今年が最後かもしれない」と思いながら野球をやってきました。

ーー「引退」と言われた時の正直な思いは?

 覚悟はしていたものの、平然と受け入れられたわけではありません。当たり前に野球をしてきた毎日がなくなるというのはとても寂しいこと。でも区切りの10年目に都市対抗で優勝でき、さらにもう1年現役を続けて11年もプレーできた。途中勝てない時期もあって山あり谷ありでしたが、学生時代も含めて幸せな野球人生だったと思っています。


インタビューで野球人生を振り返った 撮影/村上庄吾

ーー年間を通して戦うプロ野球と違い、一発勝負の社会人野球。どんなことが印象深いですか?

 社会人野球は「この一瞬」にかけていて、結果を出せなかったり、ケガで出場できなかったらまったくチームに貢献できないことになります。ひとつの勝負に1年かけて向かっていくのでそれぞれの思いが日々積み重なり、本番では一投一打にそれが自然とにじみ出るんです。選手一人ひとりにそこに至るまでのストーリーがあって、だから見る人の心を動かせるようなプレーも生まれるんだと思います。

 ENEOSはそれをとことん突き詰めたチームです。たとえば、昨年のドラフト1位で横浜DeNAベイスターズに入団した度会(隆輝)は、横浜高時代に指名漏れでプロに行けず、いろんな思いを抱えてENEOSにきたと思いますが、チームの勝利に貢献するために持ち味である長打力や勝負強さを磨き、その結果がプロの道へとつながっていきました。そういう仲間の思いも手にとるようにわかるんです。

 個で戦うプロよりも束になって向かっていく結束力が社会人野球のすばらしさで、試合での緊張や緊迫感は半端じゃないけど、むしろこのギリギリの感覚がクセになります。おかげで、普通に過ごしていたら味わえないような興奮や感動を経験できたと感じています。


日々練習に励んだENEOSとどろきグラウンドにて 撮影/村上庄吾

【いい場面に立たせてもらう運があった】

ーー新人として都市対抗に出場し、初戦(対NTT西日本)で6回二死満塁のチャンスで同点に追いつく二塁打を放ちました。その後も値千金の一打を数多く打ち、クラッチヒッターとの異名で勝負強さが光りました。

 1年目のそのシーンは思い出のひとつです。スタメンで使っていただき、延長でサヨナラ勝ちする試合。監督の期待に応えられ、自分のその先の社会人野球人生に強い影響を与えた一打でした。

 結果が出せているといっても、その分、失敗も数多くしています。毎回うまくいくわけじゃない。ただ、いい場面に多く立たせてもらえたという運はあったと思います。強いて言うなら僕は試合中、この先こうくるんじゃないか、こうなるだろうという予測をイメージしながらプレーしてきました。それがハマると気持ちもぐっと入るのでうまくいくことが多かったですね。

 2021年の都市対抗西関東予選、代表決定戦の東芝戦で、9回二死からライトスタンドへのサヨナラ3ランを打った時がそんな流れでした。「錬が打てば勝てる」と大久保(秀昭)監督から檄(げき)を飛ばされていたので、チームの期待に応えることができたのが何よりうれしかったです。


社会人1年目から活躍を見せた山粼 撮影/浅田哲生

ーー大久保監督のもとで野球をやりたいとENEOSに入社し、途中、大久保監督が母校の慶應大に移った間、チームが低迷。でも2020年に復帰し、3年計画で立て直すという公言どおり、2022年に都市対抗優勝を果たしました。

 もう一度大久保監督と野球をやれた、それはとても大きかったですね。監督には本当にいろいろなことを教えていただいて、グラウンドでどう振る舞うべきか、どういう人間が多くの人を惹きつけるか、そして毎日の生活の仕方など細かなことも教えていただき感謝しています。


恩師の大久保秀昭監督(右)は「(山粼)錬はプレーからは思いが伝わってくる選手。まさにチームの顔でした」と話す 撮影/村上庄吾

【プロでは勝負にならないと思っていた】

ーー途中、プロでプレーしたいという気持ちもあったのでは?

 自己分析をして、プロでは勝負にならないとずっと思っていました。学生時代の吉田正尚(現・レッドソックス)を見た時は技術の高さに圧倒され、驚愕するレベルでした。これがプロで活躍する選手だな、と。山川穂高やラオウ(杉本裕太郎)も大学ジャパンの選考会で一緒でしたが、飛距離は別格でした。


ENEOSとどろきグランド三塁側ベンチの定位置からグラウンドを眺める 撮影/村上庄吾

ーー社会人野球で印象に残るシーンをもう少し教えてください。

 先ほどの9年目の都市対抗・西関東予選でのサヨナラホームラン(対東芝)、今ヤクルトにいる吉村(貢司郎)投手から打ったんですが、会社にとっても自分にとっても大きな一打で、社員の方にも喜んでもらい日を追うごとにそれを実感することができました。あとで監督にウイニングボールを渡そうとしたら「これはお前の人生の財産だから」と戻されて、そのことも印象深かったですね。

 あとは、やはり2度目の優勝です。低迷期は社内でもなんか肩身の狭いような思いがずっとあって、そこから2022年の10年目でまた勝てた。僕はDHだったんですが、最後に相手打者を打ちとってベンチからマウンドに飛び出していくじゃないですか。あの光景は今も忘れられません。うれしいとかいう感情を超えて、泣くつもりはなかったのに泣けてくる、あの幸せな瞬間は宝物です。


社会人1年目と10年目に2度の優勝を経験した 撮影/浅田哲生

【最後は一番自分らしい打席】

ーー2023年11月に行なわれた日本選手権準々決勝、対Honda熊本での9回の打席が現役生活最後のひと振りとなりました。

 9回先頭打者で、「強いチームは9回必ず先頭を出す」という大久保監督の言葉を思い出しながら打席に立ちました。カウント3ボール2ストライクから打った打球はセンターにあわや抜けるかという当たり。

 この時、抜けると思えば一塁へオーバーランして走るじゃないですか。でもなぜか「捕られるからまっすぐ走れ!」みたいな声が、打席に入る前に下りてきたんです。そうしたら本当にショートがダイビングキャッチして、僕はそのまま一塁へヘッドスライディング、間一髪セーフ! もう、こぶしを握り締めてガッツポーズです(笑)。

 不思議な感覚でヒットを打ち、また最後の打席が豪快なホームランではなく泥臭い、一番自分らしい打席だったような気がして幸せなラストプレーだったなと思っています。

ーー今後については?

 社業専念で、大手町の本社にスーツで通う日々になります。仕事も自分がそこに対して本気で打ち込めば、喜びや緊張感など野球同様に味わえるのではないかと思っています。すべては自分次第なのかな、と。そしていつの日か、またユニフォームをと言っていただけたら、ENEOSの野球に貢献すべく一生懸命やりたいですね。


山粼は「幸せな野球人生だった」と振り返った 撮影/浅田哲生


撮影/浅田哲生

後編<慶應のエンジョイベースボールは「言葉が独り歩きしている」 甲子園ベスト8の名主将は野球教室でどう説明しているのか>を読む

【プロフィール】
山粼 錬 やまさき・れん 
1990年、東京都生まれ。右投左打。大阪ドラゴンズで少年野球を始め、世田谷ボーイズを経て、慶應高へ。2年時よりレギュラーとなり、3年の2008年、二塁手として春・夏連続で甲子園出場。センバツは初戦敗退も、5打数4安打。夏は16打数7安打でチームはベスト8入り。慶應大時代は4年間で春の優勝2回を経験。ENEOS入社1年目と10年目に都市対抗野球で優勝。2022年はベストナインに選出される。高校、大学、社会人で主将を務めた。