(撮影:竹中圭樹)

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「ボクがこれまで50歳という年齢に持っていた印象は“人生の終わり”。織田信長の《人生五十年》という言葉をどこかに意識していました。でも、今わかったのは《人生五十年》って、50年しか生きられないという意味ではなくて、50になる前にどれだけのことができたのかということなのかと。もう30代や40代には戻れないですし。それまでどれだけ全力で走っていけるのかが、人生でいちばん大事だと思うようになりました。

かつてのボクのなかでは、30歳までに自分がどれだけできるのかという思いがあり、余生が50歳で終わりというイメージで。だから正直今思うことは、まだなぜか生きてる…よくここまで生きたな…そんな感じです」

7月4日に50歳の誕生日を迎えたGACKT。待望の主演映画『翔んで埼玉〜琵琶湖より愛をこめて〜』の公開も11月23日に決まった。年齢非公表だった彼が、初めて年齢を明らかにしたのは’09年、主演舞台『眠狂四郎無頼控』の制作発表でのことだった。その真意を聞くと――。

「年齢公表するかしないかは意識していませんでした。でも、そのとき、もうそろそろ年齢を言ってもいいんじゃないか、と思ったんです。ファンも知らなかったし。

たまたま、そのときのプロデューサーが『年齢言うのはどう?』と提案してきた。だから『いいよ』って。別に隠したいことでもなかったですし。だからそこで『え、俺より年下だったの?』と思った人いっぱいいると思います。『あんなに態度でかいのに』って(笑)。

自分の年齢を隠した理由はひとつだけ。ボクは20歳のとき上京して音楽始めたとき、周りがみんな先輩だったんですよ。だから年齢を言うと、すぐさま後輩扱いされてこき使われる。先輩後輩って年齢で勝手に決まるでしょう? そうすると年上の相手はなめてくるから、当時のバンドメンバー以外には、年齢は一切言わなかったんですよ。448歳とか適当に言っていました。

『あいつ絶対俺より年下だよな。なめた態度とってきたから潰すか』みたいな感じになったら『じゃ、やる?』って。バンド時代は、そんなことばかりでしたから」

■例年、GACKTは誕生日にプライベートパーティを開くという

「7月4日はだいたいライブと誕生日イベントがあって、それが全部終わって疲れ果てた後にプライベートのパーティがあります。300〜400人集まるから、お酒も大量に用意してますよ。最初はワインだったけれど、ここ12〜13年前からはテキーラになりました。一人1分話しても400人いたら400分、約7時間。ワインをそんな飲み続けるのはキビしいでしょう?

だったら、みんな参加型の“テキーラ生き残り”パーティにしようかと。常に覚悟のある人だけ来てくれと連絡しています。入口で誓約書も書かせます。ここで何が起きてもすべて自己責任だと。

誕生会が始まると、仲間たちがステージ上に来て、すぐテキーラを10杯飲むから、キツイですよ(笑)。だからみんなどんどん消えてく。最後に残るのが30人ぐらい。最後はみんなベロベロで帰ります。

残された後はひたすら孤独。完全にハイになって眠れないから、朝からみんなにメッセージ打ってます。当然、誰も返ってこない。昼過ぎになって、ようやくポツポツと『大丈夫ですか?』と返信が来て。『ずっと朝からメッセージ打ってたよ。孤独だな』と返すんですよ。

そのとき思ったのが『もしかしたら戦場って、こんな感じなのかな』って。戦争で生き残って帰ってきた人たちって、また戦場に戻るっていいますよね。精神的に日常の生活が受け入れられなくて、虚無感があって。みんなもう飲みたくないって言うし、ボクも飲みたいわけではないんだけど、極限状態にまた返ってしまう気持ち、わかるなって。そんなこと考えているからおかしいとか言われるんでしょうね(笑)。

ただ、体調不良で活動を休止してから酒は弱くなりました。昔みたいにテキーラを5〜6本とか飲めなくなりました。この前の誕生日のときは3本ぐらいかな」

■財産、愛犬のこと。遺書20通書きました

GACKTは昨年末、本誌のインタビューで’21年秋からの約1年間の活動休止期間中、遺書を書いたと語っていた。50歳を前に、終活を考える契機があったようだ。

「遺書はね、20通ぐらい書きました。『財産はこういうふうに分けて、車は清算して』とかね。愛犬は姉だったり、スタッフに託したりとか、そういうことを書きました。

ボクの墓のことも姉に伝えています。『沖縄の海に散骨してくれ』と。墓なんていりません。昔からそうなんですよ。墓に来てもらいたくないですよ。海を見て手合わせてくれるぐらいで十分。身内のお墓を買ったり、いろんなことをやったとき思ったんです。ここ(墓)にいたくないなって。

ボクは毎年、沖縄に戻って実家の墓を掃除してるんですよ。今はボクの役目になっていて。最低20人から30人のスタッフを連れて墓掃除に行ってます。

20代後半からお墓の掃除を手伝っていましたが、一族の人たち皆、年をとってやり手がいなくなってしまったんですよ。

沖縄の門中墓(むんちゅうばか)って、もともとサイズが大きい。うちの墓は山奥にあって、古かったから建て直したんですが、今も(今回撮影した)このスタジオぐらいの大きさはありますよ。

もともとは、もっとデカかった。覚えているのは6歳のとき。サトウキビ畑を車で抜けて、あぜ道を抜け山の中歩いて、たどり着くまでも大変で。大きな墓に苔も生えるし草も生えるし、汚れも全部掃除しないといけない。ハブの出ない時期に行くようにしてました。

お墓だけではなく祭壇もあって、お墓と祭壇が沖縄の別々の場所にあって。うちの先祖のルーツは沖縄の南部エリア。お墓は南部にあって、ひいじいさんが北部で町を作ったから祭壇は北部にあるんです。だからお墓と祭壇の掃除は日帰りでは行けなくて。いちばん最初は6人で行ったんだけど、終わらなくて墓掃除だけで2日半かかって。

ボクの後の世代には、そんな嫌なことをさせたくない。死後、毎年管理しなきゃいけない状況が続くとしんどいでしょう?

だからボクは散骨でいい。海を見に来てくれて『ここにいるんだな』っていうぐらいでちょうどいい。そのうち誰も来なくなっても、誰も困らないでしょう」

ヘアメイク:奥川哲也(dynamic)
スタイリスト:Rockey
衣装:HARAJUKU VILLAGE