「他に好きな人ができたから」

「浮気したから」「されたから」

男女の別れはそんなに単純じゃない。

付き合う前、付き合った後、結婚前、結婚後…。

さまざまなタイミングで“別れ”のトラップは潜んでいる。

些細な出来事であっても、許せるか、許せないかはその人次第。

パートナーのその言動、あなたなら許す?許さない?




Vol.1 弁護士秘書・前嶋愛菜(26歳)の場合


前嶋愛菜は、同い年の新谷雄大と付き合って1年になる。

出会いは、勤務先の弁護士事務所の秘書仲間に誘われた、オープン直後の恵比寿『ピーター・ルーガー』での食事会。

インテリア会社に勤める雄大には20代半ばとは思えない大人な雰囲気があって、愛菜はすぐに好感を持った。

特に両親のことを「父」や「母」と呼ぶところが素敵だと、愛菜は思った。

対外的に両親のことを話すとき、そう表現するのは当たり前なのだが、その当たり前をできる20代半ばの男は少ない。

多くが「父さん」「母さん」「おやじ」「おふくろ」、中には「パパ」「ママ」と呼ぶ者さえいる。

年上ばかりと付き合ってきた愛菜は、そういうことが気になるのだ。

愛菜にとって雄大は、同い年でも付き合えると思った初めての相手だった。

が、付き合ってみて1年が経つころになると、愛菜は雄大との会話に違和感を覚え始める。

雄大の話には「肩書」が多いことに気づいたのだ。

「父」「母」さらには「姉」「弟」と呼ぶだけならともかく、会社の同僚のことも「先輩」「後輩」「同期」などと表現する。

友達のことも「友達」とか「地元の先輩」などと言い、名前は言わない。

交際1年が経ち、雄大の交友関係はおおむね把握しているものの、愛菜はひとりとして名前を知らないのだった。

そんな中、事件が起きた。

秋が深まりつつある、10月の金曜日。

雄大が、美女とふたりきりでディナーを楽しんでいたことが発覚したのだ。


発覚の経緯は、ありきたりなものだ。

愛菜の友人・黒木瑠璃が、雄大と美女がいる店に偶然居合わせたというのだ。

瑠璃から突然『雄大君と美女がデートしてるんだけど!?』というLINEが届き、愛菜は気が動転した。

― たしか、昨晩寝る前に電話したとき、雄大は言っていた。

「明日の夜は幼馴染みとゴハンしてくる」と。

もちろん本当に幼馴染みなのかもしれない。でもそれならば「幼馴染みの女の子とゴハンしてくる」と言ってほしかったと愛菜は思う。

幼馴染みという“くくり”は一緒でも、同性と異性ではまったく印象が違うからだ。

はたして雄大の行為は浮気なのか。愛菜は、ひとりで考え込んだ。






翌日の土曜日。

お昼ごろになって雄大が、愛菜の家を訪れた。

週末は必ずどちらかの家に行くことになっている。

もちろん愛菜が雄大の家に行っても良かったが、そうしなかったのは、最悪の想像をしたからだ。

― 万が一、家に行って例の美女がベッドで寝ていたら…。

考えすぎかもしれないが、そんな現場に遭遇する覚悟は、愛菜にはない。

愛菜は、今すぐ問い詰めたい気持ちを抑え、雄大を出迎える。

愛菜の気も知らず、雄大は「朝ゴハンの代わりに」とコーヒーとドーナツを買ってきていた。

「俺、お腹が空いてるから、先に食うね」

ドーナツにかぶりつく雄大を尻目に、愛菜はドーナツどころかコーヒーにも手を伸ばすことができない。

「どうしたの?愛菜、変だよ?」

そう言われてやっと決心した愛菜は、昨夜瑠璃から送られてきたLINEのスクショを見せた。

「これが何?もしかして浮気を疑ってる?」

雄大は、平然と言ってのけた。

「ないないない。幼馴染みだよ?そういう関係になんてならないよ!」

「でも、女の人とふたりきりでデートなんて…」

「デートじゃないよ。幼馴染みとメシ食ってるだけじゃん」

雄大たちが行っていた店は、渋谷の『高太郎』。

たしかに男女のデートだけでなく、友人同士の飲み会でも楽しめる店ではある。




「本当に浮気なんかじゃないよ」

「じゃ、その女の人、私に紹介できる?」

「もちろん、できるよ」

雄大が即答するので、愛菜は少しばかり安堵した。

だが直後、雄大の顔が曇る。

それを愛菜は見逃さなかった。

「できるけど…」

「けど…何?」

「家が遠いから」

「は?」

「幼馴染みはまだ地元に住んでるんだよ。出張で東京に来てるっていうからメシを食ったんだよね。会うなら地元に行かないと…」

雄大の地元は北海道だ。気軽に行ける距離ではない。

だからこそ出張で東京に来た幼馴染みと会ったのだろう。

理屈は通ると愛菜は思ったが、しかし心は乱れたままだ。

― だったら最初から『女の幼馴染みが出張で東京に来ていて、会う機会が少ない相手だから、ゴハンを食べてくるよ』と言えばいい。

雄大は、ウソはついてない。

でもすべてを正直に話しているわけではない。

「やっぱり、私、どうしても引っかかる」

愛菜は、あらためて雄大に想いをぶつけた。


「私たち付き合って1年が経ったけど、雄大の癖がどうしても気になるの?」

「俺の癖?」

「雄大はウソはつかないけど“黙っている事実”が多いと思う」

雄大は、同僚や友人のことを「先輩」「後輩」「大学の友達」などと表現し、名前は言わない。

愛菜は今まで、それら全員を“男”だと思い込んできた。

でも、もしかすると…いや、今回のことを踏まえたらきっと、その中には「女の後輩」や「大学時代の女友達」もいただろう。

愛菜のモヤモヤは加速する。

ほかにも雄大は、仕事についてもほとんど話さない。インテリア会社に勤めていることは知っているが、その仕事内容が何なのか、愛菜は知らない。

内勤なのか営業なのか、それともデザインなどやっているのか、判然としていない。

年収だって知らない。

過去に他の女性と付き合ったことは当然あるとは思うが、それが何人だったのか、前カノとはいつ別れたのか、何も知らない。

何度か聞いたが、そのつど、はぐらかされた。

今となっては雄大の自宅マンションの合鍵を渡されているが、思い返せば、付き合った当初は雄大がどこに住んでいるのかも知らなかった。




「雄大は秘密主義だと思う」

愛菜がそう言うと、雄大は不貞腐れたような顔になった。

― マズい。ケンカになる。

愛菜は直感した。でも引き返せない。

「私は好きな人のことをちゃんと知りたいの。それっておかしいこと?」

「僕は、おかしいと思うよ」

すがるように同意を求めた愛菜を、雄大はばっさり切り捨てた。

「男女は余計なことを言わないほうが長続きするんだ」

愛菜はショックだった。

― ふたりきりでゴハンする幼馴染みの性別を言うことが、余計なことだって?

もう話すことはないと愛菜は思った。

今後も、雄大はウソはつかなくても、すべてを伝えてはくれないだろう。

おそらく、愛菜が問い詰める機会が増えていく。

それが容易に想像できた。

きっと、すぐ口喧嘩になる。言い合いは子どもじみていて嫌いだった。

だからこそ愛菜は、年上の大人びた男とばかり付き合ってきたのだ。

― 結局、雄大は同世代の男と変わらなかったんだ…。

恋の魔法が解けた瞬間だった。冷めてしまえば、もう元には戻らない。



話し合いから1週間後、愛菜は雄大に別れを告げた。

雄大は、フラれるとは思っていなかったのだろう。

復縁を求めるLINEが鳴りやまなかった。

『雄大:俺が悪かったよ。これからは全部正直に話すことにするから、やり直してほしい』

愛菜は返信しなかった。

雄大からのLINEはしばらく続いたが、1ヶ月も経つと諦めたらしく、音信不通となった。



雄大からLINEが来なくなって4ヶ月後。

桜が開花し始めたころ、愛菜が職場の秘書仲間の送別会をするため店に向かっていると、対面から雄大が歩いてきた。

偶然の再会だった。雄大の隣には、女性がいる。




咄嗟に愛菜は目をそらした。

しかし雄大は「愛菜!」と声をかけてきた。

雄大の隣の女性も、秘書仲間も怪訝そうな顔をする。

「ひさしぶり。元気にしてた?」

たった4ヶ月じゃ何も変わらない。愛菜はそう言いたかったが、口が回らなかった。

「俺、今この人と付き合ってるんだ。西崎江梨香さん」

雄大は隣にいた女性を紹介したあと、“江梨香さん”にもこう告げる。

「この人は前嶋愛菜さん。俺の元カノ」

“江梨香さん”は一瞬だけ驚いたような顔をするが、すぐに頭を下げた。愛菜は、その表情を確認することはできなかった。

「はじめまして」

愛菜は反射的に「はじめまして」と返す。

自分がどんな表情をしているか想像もできなかったし、周りに見られたくもなかった。

「俺、あのあとちゃんと反省して、これからは彼女には何でも話すことに決めたんだ」

雄大はそんなことを言ったような気がするが、愛菜の記憶はあいまいだ。

ただ、別れてから4ヶ月経ったのに、変わっていないのは自分だけということはよくわかった。

雄大はちゃんと変わっていた。

新しい恋もしていた。

愛菜は恋をしていない。なんなら誰ともデートしていない。

はたして雄大と別れて正解だったのか。

答えが出ないまま愛菜は、送別会へ向かうしかなかった。

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