夜が明けたばかりの、港区六本木。

ほんの少し前までの喧騒とは打って変わり、静寂が街を包み込むこの時間。

愛犬の散歩をする主婦や、ランニングに勤しむサラリーマン。さらには、昨晩何かがあったのであろう男女が気だるく歩いている。

そしてここは、六本木駅から少し離れた場所にあるカフェ。

AM9時。この店では、港区で生きる人々の“裏側の姿”があらわになる…。

▶前回:仕事を理由に朝早く出かけた夫が、カフェで女と会っていた。相手はまさかの…




Vol.2:彩菜(32)「35歳までに再婚したい…!」


「プロフィール写真は、えーっと…。これでいいか」

3年前、29歳のときに離婚した私。それからというもの、恋愛面においては一切の進展がなかった。

離婚当初は、夜通し看護学校時代の友人たちと遊び歩き、独り身を存分に謳歌していたが…。最近になって、周りには彼氏ができたり結婚したりと、急に遊ぶ友達が減ってしまったのだ。

― もう32歳か。再婚は35歳までにできたらいいと思ってたけど、このままじゃマズイなあ。

刻々と迫るタイムリミット。そして周囲のライフステージの変化の波に押され、私はマッチングアプリをダウンロードしたのだった。

ここ3ヶ月で一番盛れた写真をトップに据えて、気合を入れたプロフィールを作る。そのおかげか、登録から数十分もしないうちにたくさんの男性からいいねが来た。

「数は多くても、実際に会いたいと思える人がそんなにいないのよね…。あ!この人、雰囲気良さそう」

少しうつむき加減で笑っている写真だったので、彼の顔をしっかりとは確認できない。けれど、それを差し引いても爽やかな顔立ちをしている。

年齢は30歳、身長は178cm。職業はIT関係で年収は2,000万。

「うわっ、かなり高収入だけど…。もしかしたら、CEOとか役員かも?」

詳しい仕事内容はあまり書かれていないけれど、これが本当ならすごく素敵な相手だと思った。グッと体温が上がってしまい、即座にいいねを返す。

『彩菜さん、初めまして!友介です。マッチングありがとうございます!』
『こちらこそ。素敵な方に出会えて嬉しいです』

何通かテンポよくやり取りが続き、数時間ほど返信が来なくなった。しかしその夜、再びあるメッセージが届いたのだ。


『急ですけど、明日土曜の朝って空いていませんか?』

今日が夜勤だから、明日の午前は勤務帰りになる。初対面でクタクタの疲れ顔を晒すのもどうかと思ったが、今はなんだかこの勢いのまま会ってみたいかもしれない。

数分ほど考えた末『仕事帰りなので、午前9時以降なら空いている』とメッセージを送った。

『本当ですか!?もし疲れていなければ、六本木にあるモーニングが美味しいカフェを知ってるので、仕事終わりに少しだけお話ししませんか?』
『ぜひ!明日、そのお店で朝ごはんを食べましょう』

そう送ってさっそく、私は明日の朝ご飯デートに似合うコーディネートを組み始めたのだった。





翌日。

― このままいい感じに付き合うことになったら、35歳までの再婚も夢じゃないかも!

夜勤の最中も、頭の中は友介さんのことでいっぱいだ。先走る期待が態度に出ていたのだろうか。後輩がニヤついた顔でこちらにやってくる。

「彩菜さん、なんかいいことありました?」

「今日さ、仕事終わりにアプリでマッチした人と会うの」

すると普段は静かなナースステーションが、ワッと黄色い声でにぎやかになる。矢継ぎ早に放たれる質問にあるがまま答えていくと、後輩からの厳しい一言が刺さった。

「ちょっと、あまりにも出来すぎてて怪しいなあ。先輩、その人に騙されないでくださいよ?」

「えぇ!?ちょっとやめてよ〜」

愉快ではない後輩からの助言だが、無視できない一言だった。なぜなら私自身も、あまりにも出来すぎていると感じていたから。

もしかしたら彼女がいるとか、最悪結婚している可能性もある。なんにせよ、それを見極めるためにも早く会わなくては。

退勤時刻を迎えた私は素早くメイクとヘアセットを直し、彼が待つカフェへと向かった。




天井が高く、開放感のある店内。そこは焼きたてクロワッサンのいい香りが充満する、オシャレなカフェだった。

『奥の方の席で待ってる』という友介さんからのLINEを確認し、むくんだ足をねじ込んだフェラガモのピンヒールで彼のもとへと向かう。

「友介さんですか?初めまして、彩菜です」

「どうも、友介です。朝早くからお仕事で疲れてるのに、ありがとうございます」

彼はネイビーのジャケットにスラックス、手元にはロレックスのデイトナを着けていた。年収2,000万と書いていたけれど、実際はもっと稼いでいそうだ。

瞬時に値踏みする癖がバレないよう、目を細めてニッコリ笑って見せる。

「いやあ、想像通り素敵な人で緊張しますね」

そう言いつつも余裕のある笑みをこぼす彼を見て、後輩からの苦言を思い出した。私は勇気を出して、こう尋ねてみる。

「友介さんみたいな素敵な人が独身だなんて、珍しいですよね。本当にご結婚もされていなければ、彼女もいらっしゃらないんですか?」

「残念ながら仕事一辺倒で、長くそういう機会がなくて。それに僕、週末は友達と集まることが多いから彼女もいないんですよ」

その言葉に、私はホッと胸をなでおろす。しかし「この人は大丈夫そうだ」と、安堵したのも束の間。

彼が、ギョッとする一言を放ったのだ。


「そういえば彩菜さんって、お仕事は看護師だけですか?副業とかは?」

「え?副業はしていませんが…。それが何か?」

「いやあ僕はね。これからの時代、企業に属するだけでは生きていけない。みんなどこかのタイミングで投資をするか、独立しなくてはやっていけないと思うんです」

「はぁ…」

我ながら、間抜けな相槌だった。




だがこの会話は今、するべきことなのだろうか。

会話の前後でビジネスや経済の話をしていたらまだしも、急に話の腰を折ってムリヤリ話題をねじ込んできたように思えて違和感があった。

「彩菜さんもいい年齢だ。もちろん結婚を視野に入れるのも大事だけど、男の経済力に左右されないよう自分で生きる力をより強固にしたほうがいいと思うな。僕はそういう賢い女性が好きなんです」

急に様子のおかしい発言を繰り返す彼を前に、何を言えばいいのかわからず黙りこくってしまう。

するとそのとき、40代前後の羽ぶりの良さそうな男性がこちらに向かって歩いてきたのだ。

「おう、友介!」

「あれっ。雅史さん偶然ですね!彩菜さん、この方は僕にビジネスを教えてくれるメンターの雅史さん。ちょうどよかった、ぜひ一緒にお話しませんか?」

― ああ、そういう感じね。

ここで状況をようやく理解した。このままだと、謎のビジネスに勧誘されて逃げられないことになる。

しかし私は「いい年齢」だの「自分で生きる力を強固にしたほうがいい」だのと好き勝手言われたからか、どうしても何か言い返してやりたくなってしまった。




先ほどまで張り付けていた笑顔の仮面を外し、私は冷ややかな視線でジッと友介さんを見つめた。

「雅史さんのお話は聞きません。だって私は副業したいとも稼ぎたいとも思っていませんし、今の生活に満足していますから」

すると、キョトンとした目で彼がこちらを見てくる。

「むしろ自立が必要なのは、友介さんの方じゃないですか?いい時計を身に着けていても、よく見ると服や靴の手入れが行き届いていないようですし。

その時計もご自分で買ったのではなく、雅史さんからの貰い物なのでは?」

そう言いながら、顔をひきつらせている彼を無視して席を立つ。

「でも、おかげで目が覚めました。あなたみたいな男に依存して生きていかないといけないのなら、私は自分の力で生きていく力を強固にして自由を謳歌することにします。では」

捨て台詞を吐いてその場を去ると、勢いよくドアを開けて店の外に出る。すると春の柔らかい風が吹いてきて、私の顔をなでた。

先ほどまでの出来事がくだらなさすぎて、思わず笑いがこみ上げてくる。

「あ〜あ。相変わらず、男運ないな」

小さくそうつぶやく。でも、それもまあいいかと思えた。なぜなら私には、誇りに思える仕事があるから。

それに今だって自分1人の力で生きているのだから、焦って結婚相手を見つけるようなことしなくてもよかったはずだ。

「35歳までに再婚とか、別にしなくていいよね」

そうして私は、友介さんのLINEをブロックしたのだった。

▶前回:仕事を理由に朝早く出かけた夫が、カフェで女と会っていた。相手はまさかの…

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