料理研究家の平野顕子さん、著述家の中道あんさん。ふたりとも40代で専業主婦から一歩を踏み出し、新しい人生で見つけた仕事で大活躍されて現在にいたります。「私らしい人生」を力強く歩む70代の平野さんと、今年60歳になる中道さんの対談をたっぷりとお伝えする全4回の連載、第1回目では、ターニングポイントをむかえたきっかけや、当時の心境について語っていただきます。

平野顕子さん×中道あんさん対談【第1回目】

17年ほど前、大阪に暮らす中道さんはカフェオーナーを目指して、憧れの存在だった平野さんが主宰する京都・松之助のお菓子教室に1年近く通い続けました。かつて先生と生徒の関係だったふたりですが、人生のターニングポイントは偶然ともに「45歳」のときだったそうです。

●「平野さんの生き方」に憧れていた中道さん

平野 今も大阪にお住まいですか?

中道 はい、ずっと大阪暮らしです。私が平野先生の京都のお菓子教室でレッスンを受けていた当時、京都はあまりなじみのない土地でしたが、とにかく夢中で通っていました。偶然テレビ番組で平野先生をお見かけしたのが、そもそもの始まりです。
ビビッと感じるものがあり、まだインターネットが普及していない時代でしたが、必死にご経歴を調べました。そしたら、離婚されて、800万円を握りしめて単身渡米して、お店のオーナーになってイキイキと活躍しておられる。私と同じ専業主婦でいらしたのに、「すごい行動力だなぁ」と感動しました。自分にも「可能性があるはずだ」と希望をもらえたのです。800万円ものお金はなかったですけれど。

平野 800万円は結婚生活22年間で貯めたへそくりです。そういうふうに感じていただけて、とてもうれしいです。可能性はみんなにあるわけですからね。

中道 もともと料理やお菓子をつくるのが大好きでした。ただ、きっちり計量するヨーロッパスタイルのお菓子づくりは、私の性格上、ちょっと苦手。ところが、テレビに映る平野先生は、カップを使ってラフに材料を計っていて、「これなら私でもお菓子の道で何かを始めるチャンスがあるかも」と。甘い考えでしたが、すぐに京都の松之助に出かけて、その場で2種類くらいケーキを食べて、お教室に申し込んで通い始めたのです。初めてつくったのは、バナナのパウンドケーキでした。

平野 いやー、すごい行動力ですね。

中道 平野先生の方が何倍もすごいと思いますよ。40代で留学する勇気は、そうそうもてませんから。

平野 たくさんの方が、「すごいわね。勇気があるわよね」と言ってくださいます。でもね、離婚して家を出て、行くところがないから娘のアパートに居候して。それまで仕事の経験はまったくないから、アルバイトしようと思ってもなかなか見つからなかったわけです。それであれこれ考えて、若い頃に諦めたアメリカ留学の夢を果たそうかなと。
娘には、「そうね、行ってらっしゃい。卒業できたら快挙よね。でも、卒業できなかったら、ただのムダ使いよ」と言われました。息子からは、「やめとけよ。そんなお金、投資してももとは取れません。僕に投資しなさい」と言われました。ふたりからのはなむけの言葉だと受け取って、アメリカに出かけて行ったという感じですね。要するに、お尻に火がついていたのです。そうじゃないと、覚悟を決めてアメリカに行く勇気なんて、簡単にもてるものではないですわ。

●共通しているのは「45歳」がターニングポイントだったこと

平野 私のターニングポイントは離婚した45歳のときですね。子どもはふたりとも大学生でしたから、身軽といえば身軽な状況でした。

中道 私が別居したのは47歳で、長男は社会人、次男は浪人生、長女は中学生でした。結婚後は仕事を辞めて専業主婦として家庭に入っていましたが、家の近所にある会社の門にパート募集の張り紙を見つけて、37歳でパートを始めました。時給850円、1日3時間の週2回です。
その会社で正社員を目指そうと思ったのですが、けれどやっぱり、パートのまま。「あなたには何も資格がないから、パートからステージアップはできません」ということで…。そこで45歳のとき、一念発起して就活をし、事務員として雇ってくれる会社を見つけました。私にとって就活して再就職をしたことは大きな転機で、そのときは「この会社を辞めるまでに500万円を貯めて、カフェオーナーになろう!」とワクワクしていました。

平野 45歳で会社員になられたのですね。それはバイタリティーがありますね。

中道 入社してしばらくの間は幸せな気分だったのですが、会社がよくなかったのです。労働条件は過酷なのにお給料が安い。しかも、ベテランの事務員さんにはしょっちゅう怒鳴られて、もう怖くて。仕事中に涙がさーっと流れるくらいしんどかった。げっそりやせ細ってしまって。徐々に夫婦関係も悪化してきました。当時から別居や離婚は考えていましたが、いずれにしても「自立することが先決」と思い、この会社をあきらめて辞めたら自立できないわけだから、なんとしてもがんばらないといけないと無我夢中でした。
その頃になると、カフェオーナーは憧れというより必須事項になっていて、パン教室にも通い始めていました。その会社で2年近く踏ん張って、そしたら友だちの紹介で結構いい年収のところに転職できたので、「これで自立できる」とやっと別居に踏みきりました。

平野 中道さんは自立できる仕事を見つけてから別居、私は離婚してから自立できる仕事探しと、やり方は正反対なのだけれど、なんだかとても似ていますね。

●カフェオーナーを諦めて、「50歳」でブログを始める

中道 カフェオーナーになることは心の支えでもありましたが、あるとき、ふと気がついたのです。友人知人にお菓子を配り歩いて、「とってもおいしいわ」「あなたならカフェができるわよ」と言ってくれるけれど、誰からも「このお菓子を売ってほしい」という声を聞いたことがない! それがプロとアマチュアの差なのだとわかってがく然としました。その事実を受け入れて、カフェオーナーの夢は潔く断念しました。

平野 いろいろありますよね。人生は本当にシナリオ通りには進まないものです。

中道 そして、50歳でブログを書き始めたのです、ある日、突然に。息子にすすめられたのがきっかけでした。そのときの第1回目の記事の内容がちらし寿司とハミングバードコーヒーケーキ。お料理やお菓子づくりが好きだったので、当初は料理の投稿をしていました。ハミングバードコーヒーケーキは、平野先生から教わった大好きなレシピです。
会社員を続けながらブログを投稿し続けていくうちに、少しずつ人気が出て、本も出せるようになりました。本の出版後に会社員を辞めて、起業しました。ですから、私の人生を変えてくれたきっかけのひとりが平野先生なのです。

平野 ありがとうございます。縁というのは、不思議なものですよね。「縁を大切にする」というのは私の人生のテーマでもあるので、今回こうして再会できたことも、私との縁を大切に思ってくださっていることもとてもうれしいです。

●人との「ご縁」を大切にしたからこそ可能性が広がった

平野 みんなに平等に可能性はあると思いますけれど、私自身、特にラッキーだったと感じているのは、人生の節目で素晴らしいご縁に恵まれたことですね。

中道 そういうご縁はどうしたら手に入れられるのですか? ご縁に恵まれる秘訣ってあるのですか?

平野 自然に、ですね。私は勘も働かないし、ロジカルにものを考えられないし。たまたま、「どうしようかしら」と決断を迫られるときに、自然とご縁がつながるのです。ディーン&デルーカさんとのご縁もそうでした。
短い期間ですが、赤坂の裏通りに友人との共同経営で小さなケーキ店をやっていて、赤字続きでもう閉めないといけないと思っていたタイミンクで出会いました。ディーン&デルーカさんが立ち上げた事務所がすぐ近くにあったのです。彼らはアメリカンケーキを探して、お声をかけてもらいました。
私の場合、そうしたご縁に出合ったら、「やってみはったら」の精神でまずトライします。それで失敗しても構わない。「やってみないとわからない」という考え方が根底にあるのです。

中道 平野先生とお会いしたとき、「なぜ、こんなにできるのだろう?」とすごく思いました。「どうしてうまいこといくのだろう?」と。

平野 うまいこと成功している実感はあまりないのですが、ご縁に恵まれていることは実感しています。今までの人生を振り返ると、人の世の巡り合わせの不思議を感じますね。

中道 どうやって出合ったご縁をつないできたのですか?

平野 ウソのないつき合い方をしているからかもしれません。本音と建前、どちらもすごく大事なことだと思いますし、本音と建前を使い分けることも大事なのだけれど、建前ばかりで生きていくのはつらいから、結局はウソのない本音の関係でいられる人と長いこと深くつき合うことになります。それは公私ともにそうで、私の場合、人間関係にプライベートとビジネスの区別は意識してつけていないのです。

中道 すごいですね。私は、起業するときに「人脈をつくりなさい」と言われて、起業家が集まるパーティには積極的に顔を出した方がいいとアドバイスされました。一切行っていませんが、平野先生はどうですか?

平野 私もまったく行ってませんわ。そういう意味では、表に出ていくことはしなかったですね。何かのグループに属すこともないし、「私は自分のやり方でいい」と思っていましたから。

中道 わー、すごいな。マニュアルから外れた方法で成功している平野先生、あっぱれです。「自分流でもビジネスで成功するチャンスはある」ということですよね。心強いです!