ダイエー、ソフトバンク、ロッテでプレーした山田秋親氏【写真:橋本健吾】

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2000年のドラフトでダイエーを逆指名した山田秋親氏

 戦力外を受けた後に独立リーグを経由し、NPBに初めて復帰を果たしたのがダイエー、ソフトバンク、ロッテでプレーした山田秋親氏だ。最速153キロのストレートを武器に2000年のドラフトでダイエーを逆指名し入団。プロ通算16勝に終わったが「目立った成績を残せなかったが、ひねくれていた自分の目を覚ませてくれた」と感謝する。

 立命大時代にはNPB選手と共に2000年シドニー五輪に出場し、アマ球界No.1右腕としてダイエーを逆指名しドラフト2位で入団。将来のエース候補として注目されたが、ホークスでの8年間は「勝たないといけないプレッシャーと怪我もあり思ったような投球を見せることができなかった」と語る。

 ルーキーイヤーだった2001年は3月28日の近鉄戦でプロ初登板。7回途中4失点の粘投で初勝利を挙げるも2勝止まりだった。翌2002年は開幕ローテ入りを果たし、開幕4連勝とエース級の活躍を見せたが、その後は5連敗を喫するなど1軍に定着することはできなかった。

「入団直後のキャンプから右肘に違和感はありましたが、当時はなかなか言いづらい環境。寝たら治るぐらいの気持ちで、とにかく自分の居場所を奪われたくない思いで必死でした」

王監督から「君は優しい人間だ。でも、それじゃプロでは通用しない、生き残れない」

 3年目からリリーフに転向し、2004年には自己最多の35試合に登板し6勝をマーク。だが、右肘の違和感は強烈な“痛み”に変わり2006年には手術を決断。その後も左膝にメスを入れるなど怪我に泣かされ2008年オフに戦力外通告を受けることになった。

 ホークスで過ごした8年間で結果を残すことはできなかった。それでも、王貞治監督(現会長)と過ごした日々は今でも糧になっている。勝利への執念は誰よりも強かった。

 内角を攻めるのが苦手で、外角中心の配球になると「本当によく怒られました(笑)。『君は優しい人間だ。でも、それじゃプロでは通用しない、生き残れない』と。ブルペンで内角を投げると、手を叩いて喜んでくれた」。“世界の王”から指導を受けたのは、かけがえのない思い出だ。

 現役続行を希望していたが、同時に右肩痛を発症しトライアウトは泣く泣く不参加。1年後の復帰を目指し右肩関節唇の手術を受けると、2009年に独立リーグの四国・九州アイランドリーグの「福岡レッドワーブラーズ」からオファーを受けた。

「逆指名でホークスに入って結果が出ず、最終年はひねくれていた自分がいた。『もう、いらんクビ』と言われて落ち込む時もあったが、今思えば野球のありがたみを再確認できた“ありがたい宣告”でした。前例がないのは知っていましたが、しょうもない選手で戻っても意味がない。人生で一番走りましたし、練習も頑張ることができた」

現在は滋賀・びわこ成蹊スポーツ大学の硬式野球部で監督を務める

 独立リーグでの序盤はリハビリに費やしたが、シーズン中盤からマウンドに上がると直球は140キロ中盤を計測。本来の投球を取り戻し1年越しのトライアウトを受けようと考えていると、ロッテから秋季キャンプにテスト生として呼ばれ正式に入団が決まった。NPBを戦力外となり独立リーグを経て、NPBに復帰した第1号の選手になった。

 ロッテでは3年間プレーし2012年には再び戦力外を受けたが、その後はクラブチームの「ミキハウスREDS」でも投げ続け、日本生命の補強選手として都市対抗にも出場。酸いも甘いも経験した野球人生は「楽して勝つことはできない場所。身を削る努力をしても活躍できるのは僅か。ですが、本当に素晴らしい経験をさせてもらった」と、感謝を口にする。

 現在は滋賀・びわこ成蹊スポーツ大学の硬式野球部で監督を務め、チーム初の1部リーグ優勝と神宮大会出場を目指している。「チームも徐々に力をつけています。勝つ喜びを味わってほしいですし、プロ野球選手も輩出できるチームになっていきたい」。高校、大学、NPB、独立リーグ、社会と全てのカテゴリーを経験した右腕が、野球界への恩返しに全力を注いでいる。(橋本健吾 / Kengo Hashimoto)