人生で4度の中退を経験した村田学さん。アメリカからの帰国子女だが書字に困難を抱え、協調性を重んじる日本の学校教育にも馴染めなかったという(写真:本人提供/村田さんは一番右)

学歴社会ではなにかとネガティブに受け止められがちな「中退」。だが、中退した結果、どんな人生を送ることになるかは、今まであまり可視化されてこなかった。

そこで、この連載では「学校を中退した」人たちにインタビュー。「どんな理由で中退を選んだか」「中退を後悔しているか、それとも辞めてよかったと思っているか」「中退した結果、人生はどうなったか」などを尋ね、中退という選択が、その後の人生や価値観に与える影響を浮き彫りにしていく。

本連載は「中退」と銘打っているが、「良くも悪くも社会のレールに乗れない、しかし、それでも強く生きている人に話を聞く」という裏テーマがある。

今回、話を聞く村田学さん(49歳)は人生で4度も中退を経験。「一体なぜそんなに……?」と思えてきそうだが、話を聞いていくとその理由も理解できてくる。

会社員の父、教師の母のもとに生まれた村田さん

会社員の父、教師の母のもとに生まれた村田さん。父の仕事の都合で幼少期をアメリカで過ごし、その後、5歳の頃に日本に帰国。帰国子女というとキラキラしたイメージを持ちがちだが、実際は、苦労の連続だったようだ。というのも、村田さんは発達に偏りを抱える子どもだったのだ。

「もともと私は書字が苦手で、アメリカにいた頃には自分の『Manabu』という名前を書こうとすると『b』が『d』に反転しちゃう癖があったんです。そして、そのことを教員だった母親から厳しく注意されていました。

でも、日本に帰国して幼稚園に入ると、周りの子たちが普通に平仮名で自分の名前を書いていた。小学校に上がった時も、隣の席の子が自分の名前を漢字で書いていて。『この子、教わってないのになんで漢字で書けるんだろう』ってびっくりしたんです」

学習障害(LD)という概念がある。全体的な発達には遅れはない一方で、文字の読み書きに限定した困難が生じる。村田さんの場合はおそらく、その中でも書字に困難を抱える書字障害(ディスグラフィア)だったと思われる。


小学生の時の読書感想文。「ドイツ語」が「ドイシ語」になっている。大人になっても「シ」と「ツ」の違いはわからず、勤務先の上司にカタカナ練習帳をもらって練習していたという(写真:本人提供)

今でこそ、この概念もそれなりに認知されているが、40年以上前の当時は状況がまるで違った。

「思えば、幼稚園に入った時からつまずきがあったようで、入園して3日目に先生から『もう一年先においで』と言われて。要するに退園になったんです。レベルに足りないと判断されると、アメリカでは結構はっきりそういう対応になるんですよね」

日本から移住したばかりで英語が不得意だったことも影響しただろうが、おそらく、幼稚園の先生から「この子は他の子とは少し違う」と判断された面もあったのだろう。

また、一方で村田さんは、調和を重んじる日本の文化にもずっと馴染めなかったという。

「アメリカは円の文化で、みんな地べたにあぐらを組んで丸くなって、そのなかで手を上げて話すような学び方だったんです。でも日本では、みんな椅子に座って先生に向かって縦に並んでいますよね。教室に入った瞬間、『ここは軍隊か!?』『怖い……』と思ったのを今でも覚えています。

その後も、画一的な指導とは相性が悪くて、『学ぶ楽しさ』はなかなか感じられませんでした。親の都合で転校も繰り返し、高校受験では、いわゆる“偏差値輪切り”の進路指導によって、教師に言われた都立高校へ進学しました。先生が板書して生徒が聞く、それを朝から晩まで……という授業が、もう退屈で退屈で。普通の人は合うのでしょうけど、私はどうしても合わなかったんです」

避難したのは「本の中の世界」

そうして、高校生になった村田少年がのめり込んだのは、本の中の世界だった。

「書字への苦手意識もあり、もとから読書が好きだったわけではないんです。むしろ、父から『お金あげるから本を読んでくれ、漫画でもいい』と懇願されるほどでした。そんな経緯もあり、漫画から読み始めたのですが、そこから椎名誠の旅のエッセイを読んだりを経て、エッセイストが書いた小説を読むようになりました。

すると、退屈な授業の一方で、小説を開けばいろいろな世界が広がっていることに気づいて。どんどんのめり込んでいった自分は、いわゆる“本の虫”になって、朝まで読んでしまうことも。いつしか昼夜逆転の生活をするようになりました」

親しみやすい漫画や、心惹かれる小説の世界に引き込まれたことで、書字や識字への苦手意識が薄れていったわけだが、どうやら村田さんには過集中の傾向もあったようだ。

「でも、生真面目な両親の理解は得られなくて。父からは『もう本は買わないで』と言われ、母からは『学校へ行かない人間は、人間のクズだ』と言われていました。たしかにクズだろうなと思いながらも、それでも私には、学校へ行く意味がわかりませんでした。理解者と言えば恋人くらいでしたね」

通学の電車の時、村上春樹、ジョン・アーヴィングなどの本で膨らんでいた村田さんのリュックをゴソゴソと漁ると、「これ借りるね」と言っていつも持っていっていたという。なんとも微笑ましいエピソードだが、それだけで学校生活への楔(くさび)になるわけではなかった。高校から足が遠のいた村田少年は、10カ月ほどの不登校期間をはさみつつ、2年生の時に高校を中退することになった。

「中退する時、母は『先生、すみません。この子がすみません』と謝っていました。それぐらい学校という空間に馴染めなかったわけですが、でも、家にも居場所はなくて。むしろ、『中退するようなお前に小遣いなんかやれない。働け!』と両親に言われて、すぐにアルバイトを始めました。

ただ、当時は就職氷河期時代でしたし、中卒の僕に応募できたのはコンビニや排水管清掃、大手パンメーカーの工場でのバイトぐらい。16歳にして、社会ではいかに学歴が大事かを知りました」

単位制高校から、4年制大学への進学

その後、中退者でも受験することができる単位制の学校に合格し、高校に戻った村田さん。幸いにもその高校は「授業がある時間だけ学校に来れば良いというスタイル」だったこともあって肌に合い、無事に卒業。1浪後、4年制の大学に入学した。

これでようやく人生が軌道に乗る……と思いきや、実際に大学生活がスタートしてみると、ここでも日本流の「学び」との相性の悪さが未来を塞いだ。

「必修科目や教養の大事さはわかるんですけど、“教養”なのに押し付けだと感じることが多く、本人が知りたい、必要だと思ったタイミングで学ぶことはできませんでした。テストのタイミングで『習ったことを覚えているか・いないか』という学習方法も、やはり私には合わないと感じました」

興味を持てる分野は楽しく学べるものの、興味も持てない授業はどうしても出席できなかった村田さん。そんなスタンスで単位が足りるはずもなく、5年目に大学を中退することになる。

その後、同じ大学の通信学部に移るも、どうしても周りと歩調を合わせられないもどかしさから、メンタル的にも追い詰められていき、受診した心療内科でうつ病だと診断され、その通信学部も辞めることになった。

「かなり強い薬を処方されて、しばらく寝たきり状態のようになってしまいました。そんな状態の私を見て、親からは『お前は働かないし、大学も中退、通信も辞めてしまうわで本当にダメな人間だ』と言われました」

「本当にダメな人間だ」と言われて…

こうして高校で1度、大学で2度、幼稚園を含めると合計4度の中退を経験した村田さん。

ふたたび先が見えない状況となったが、彼の支えとなったのが、高校時代から交際を続けてきた恋人だった。例の、村田さんを図書館代わりに使っていた女性である。

「なかなか就職できないでいる私を彼女はずっと待っていてくれていたのですが、待ちくたびれて大学院まで出て、30歳になる頃には社会福祉士に。そして、沖縄の私立大学に、社会福祉士養成の講座の教員として採用されたんです。

その頃には、私もうつ病の症状が落ち着いて、パートで専門学校の事務の仕事をしていました。彼女が沖縄へ行くと遠距離になってしまうので、一度彼女の両親にご挨拶へ行ったのですが、『君のことを認めたわけじゃない……けれども、一人娘が一人で遠方で就職するのは親として心許ない。だから、ボディーガードとして一緒に行くというなら、結婚を認めましょう』と言われて。

……今思うと、私との関係と自分の仕事を両立させるには、『遠方で就職するしかない』と妻は考えていたのかもしれませんね」

そうして村田さんは結婚。沖縄へ移り住み、働く妻を支える“主夫”としての生活をスタートさせた。沖縄では約4年間過ごし、子どもにも恵まれるのだが、その過程で仕事にも恵まれるようになっていく。

「沖縄は英語に距離が近い土地柄。子育てをしている時、インターナショナルスクールのことを調べていたのですが、『インターナショナルスクールって、日本語の情報があまり出ていないな』と気づき、そうした情報を発信するブログを始めたんです」

そして、これが現在も続ける仕事へとつながっていく。自身をあれだけ悩ませた、教育に関わる仕事だ。

「最初は、アクセス数ゼロという状態が1年間ぐらい続いたんですが、次第にアクセス数が伸びていきました。主夫兼ブロガーとして過ごしているうちに、人と会う機会も増え、教育現場を取材して書くライターになったんです」


保育施設を経営していた頃の写真。忍者の課外授業を取り入れていたという(写真:本人提供/村田さんは一番左)

「ライターの仕事もしつつ、その後はインターナショナルプリスクールの経営をしてみたり、幼・小・中のインターナショナルスクールの共同経営者になってみたり……。今も会社を経営しつつ、”国際教育評論家”として活動しています」

和を重んじる学校という場所には居場所はなかったようだが、個人事業主や経営者としては、メインストリームではないものの、居場所はあったらしい。

「教育に落ちこぼれた私が、そしてあれほど『教師が嫌い』だと思っていた人間が、教育に関わる仕事をしているというのは、我ながら不思議で仕方ありません」

「しくじり帰国子女」と名乗る現在

アメリカで幼稚園を退園したことに始まり、人生で4度もの中退を経験した村田さん。

定型発達児にはわからない苦悩を抱えながら、日本独特の教育に疑問を抱き続けてきたわけだが、年齢を重ねたことで気持ちにもさまざまな変化があり、いま自身が教育に携わる仕事をするうえで、心がけていることがあるという。


さまざまなことを乗り越えて「教育」に関わっている現在の村田さん。困難を抱える子どもたちへの想いは強いようだ(写真:本人提供)

「最近、自分のプロフィールに、“しくじり帰国子女”って書いてるんです。一般にイメージされるようなキラキラした帰国子女ではないし、中退で学歴もない。ずっとコンプレックスでした。

でも、中学受験が加熱している今、自分はあえてしくじった過去を出していこうと思うようになりました。みんな同じスピードで成長できるわけじゃないし、受験に失敗したり、受験した学校を辞める子もいるわけで……だからこそ、『教育現場にもしくじった側の人間も必要なんじゃないか』と思うようになったんです。

自分は現在も決して本流ではない生き方ですが、傍流は傍流なりに力強く、そして『どうせなら、明るくやっていこう』と決めています。だからこそ金髪にしてみたりなんかしてね(笑)。

20〜30代までは、中退したことで『もう社会の本流には戻れない』という挫折感を感じていましたが、50歳も間近になると、学歴に囚われることもなくなり、気持ちも軽くなってきました。

だからこそ、もし今、学校に馴染めなかったり、馴染めずに中退して悩んでいる10代・20代の子がいたら、『未来はそんなに全部暗いわけじゃないよ』って、伝えてあげたいですね」


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幼稚園中退というワードや、終始和やかな口調もあり、取材開始時は楽しく話を聞いていた筆者だったが、村田さんの挫折が発達の偏りに由来するものだと知るなかで、その笑顔の奥に強烈な苦悩・不安があることを知った。

また、高校を中退したことで親戚の集まりでは“ドロップアウトした子”として、腫れ物に触るような感じだったそうで、教職一家だった親族のなかでも、孤立していった状況もうかがえる。

一口に中退と言ってもその理由はさまざまで、彼のように画一的な学校教育に馴染めなかった人も多くいるはずだ。本連載ではそういった声も取り上げ、寄り添いながら、一度ドロップアウトした側の視点で、今の日本社会を描き出していきたい。

本連載では、取材を受けてくださる中退経験(大学中退、高校中退など)のある人を募集しています。応募はこちらのフォームにお願いします。ヤフーニュースなど外部配信サイトでご覧の方は、東洋経済オンラインの本サイトからお願いいたします。

(越野 真由香 : ライター)