1999年にキエフを訪れた際、筆者は時の代表監督、ヨゼフ・サボー氏をはじめ、ウクライナのサッカー関係者から、ロシアサッカーとの関係を聞かされている。中でも記憶に鮮明なのは、1988年の欧州選手権(ユーロ)にまつわるエピソードだ。

 シュツットガルトのネッカースタジアムで行われたイタリアとの準決勝に完勝したソ連は、ミュンヘン五輪スタジアムで行われる決勝戦に進出した。

 相手はオランダ。マルコ・ファンバステン、ルート・フリット、フランク・ライカールト、ロナルト・クーマン……。豪華絢爛な選手以上に、忘れてならない存在は監督だった。没後、20世紀最高の監督としてFIFAから表彰されたリナス・ミホルスだ。

 対するソ連はバレリー・ロバノフスキーが監督を務めた。没後、世界からウクライナの著名人ランクで6位に入ることになった、同国が生んだ最高のサッカー監督である。

 ミホルス対ロバノフスキー。当時、筆者はその現場にいたものの、両者の対戦が意味する重要性をあまり分かっていなかった。後になって詳しく知ることになったわけだが、ロバノフスキーに関しては1999年のキエフ訪問で、学習する機会を得た。

 当時、ウクライナの全国版夕刊紙「夕方の便り」でスポーツ部長を務めていたウラジミール・ブダノフさんは、ロバノフスキーの人物像をこう語っている。

「ロバノフスキーは神様です。彼と話すだけで、そのパワーが乗り移ってくるような不思議なカリスマを備えています。宗教家のような鷹揚な魅力をね。学業の方も優秀で、キエフ工科大に通いながらサッカー選手として活躍した文字通りの文武両道です。母親はボイチェンコという有名な作家の娘で……。戦略家として名高い理由の一つには、その遺伝子の影響もあるでしょう」

 1988年の欧州選手権で準優勝したソ連代表は、それは素晴らしいチームでした。2-0でイタリアを撃破した準決勝の戦いは最高でした。監督はロバノフスキーさんでしたーーと、筆者が水を向ければ、ブダノフ部長はこう答えた。

「ベラノフ、ザバロフ、ミハイリチェンコ、デミヤネンコ……。選手もディナモ・キエフに所属するウクライナ人選手を中心に編成されたのですが、それを恨んだロシア、モスクワ側からのプレッシャーは相当なもので、オランダとの決勝戦を前にそれはピークに達していました」

 ロバノフスキーの敵は、オランダと言うより現ロシアにあったのだと述べた。ロバノフスキーは当局からの圧力に対しても怯まず、最後まで自らの信念を貫く選手選考をしたという。

「その心労がなければ、我々はオランダに勝っていたかもしれません」と、ブダノフ部長は、残念そうに述べたのだった。
 その時、取材した原稿の最後に、筆者はこう記している。

――オレグ・ブロフィンとイゴール・ベラノフ。旧ソ連からは、欧州年間最優秀選手が過去に2人誕生しているが、両者はともにウクライナ人。ディナモ・キエフの選手であることを、ここに改めて強調しておきたい。はたして今年、ウクライナ人として3人目の受賞者は生まれるのだろうか。

 1998-99シーズンの準決勝でディナモ・キエフは結局、バイエルンの軍門に下った。アンドリー・シェフチェンコも、欧州年間最優秀選手賞を逃した。こちらの期待も泡と消えた。

 彼がウクライナ人として3人目の受賞を決めたのはその5年後、2004年。ミランの一員として受賞している。だが、ウクライナが生んだ名将、ロバノフスキーは、その2年前にシェフチェンコの晴れ姿を見届けることなくこの世を去った。

 ウクライナ対ロシア。欧州年間最優秀選手を誕生させた数では3-0でウクライナの完勝だ。それをいま力説したところで、何の役にも立たないことは承知しているが、一介のスポーツライターがいまここで放つことができる言葉が、それぐらいしかないことも事実。残念だ。