小宮正安氏

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東京・春・音楽祭の名物コーナーの一つ、「東京春祭マラソンコンサート」。12回目となる今回のテーマは「音楽・医学・文学 ヨーロッパをつくった3つの響き」だ。「音楽と文学」は歌曲やオペラなどから結びつけるのは容易だが、では果たして医学はどう音楽と結びつくのか。企画・構成と当日のお話を担当する小宮正安先生(ヨーロッパ文化史研究家/横浜国立大学大学院都市イノベーション研究院教授)にお話を伺ってみると、モーツァルトからブラームス、ワーグナーの時代にいたる約100年間の音楽と文学、医療のかかわりが、現代の「心身の健康」「癒し」に繋がっていることが見えてきた。


■医者にして文学者、森鴎外が感じた欧州の文化。文理混然とした近代文化の黎明期

――まずこの「音楽・文学・医療」というテーマを選ばれたのはどうしてでしょう。

毎年音楽関係の生誕や没年の周年を足掛かりにテーマを探すのですが、今年は少し視点を変えてみたところ、上野にゆかりの深い、作家であり外科医である森鴎外が没後100年でした。ご存知のように鴎外は医学の勉強をしにドイツに留学し、医学のみならず当時の芸術や文化の息吹も肌で感じ、ワーグナーの歌劇も観賞し、さらにグルックの歌劇、『オルフェオとエウリディーチェ』の翻訳も行っています。そこで、鴎外ゆかりの医学、文学というモチーフで音楽に光を当ててみたところ、実はこの三者は一体となって、19世紀の文化をつくりあげていたことが見えてきたのです。

我々の現代の感覚だと、医学は医学、音楽は音楽といった、いわば理系文系でと線引きされ、相容れないものと思われがちです。ところが19世紀の医者のなかには、音楽家と交流を持ちながら趣味の片手間ではなく、本気で音楽に取り組み作曲や演奏を行った人たちや、音楽が人の健康に与える影響などを科学的に分析しようと試み、あるいは治療法を考える人などがいたわけです。

今回のマラソンコンサートでは、そんな社会を鴎外が欧州で学んだ時代――これは第2部の、19世紀半ば頃のブラームスが活躍した時代に当たりますが、その時代を挟み、第1部を18世紀末のモーツァルト、第3部を19世紀末のワーグナーを中心に捉えました。さらに第一部は「医”術”の時代」、第2部は「医”学”の時代」、第3部は「医”療”の時代」と、それぞれ副題を設けています。

(c)東京・春・音楽祭実行委員会/青柳 聡


■「医”術”の時代」:モーツァルトの死因は瀉血?オカルトと近代医学の端境期の音楽

――ではプログラム順にお話を伺いながら聴きどころを教えていただきます。まず第1部「瀉血されるモーツァルト~医”術”の時代」です。

まずモーツァルトの時代は、オカルト的な民間治療の終焉と近代医学が始まる端境期でした。瀉血はこの時代の治療法の一つで、体調が悪ければ悪い血を抜くのが一般的だったのです。一種のショック療法で、一瞬良くなる錯覚は覚えますが、19世紀には危険だとして禁止されます。モーツァルトの死因にはいろいろな見解がありますが、体調を崩して瀉血をしたのが直接の原因ではと言われています。

瀉血の様子

ただモーツァルト自身は新しいもの好きで、当時の最先端の科学技術に非常に興味を持っていました。それが1曲目で取り上げている《グラスハーモニカのためのアダージョ》です。グラスハーモニカは当時、視覚障害や体調不良を治すための、最先端の医術器具と考えられていました。グラスハーモニカ自体はもう廃れてしまい現物が残っていませんが、今回はグラスハープで演奏をします。かなり当時の音色に近いものが聴けるのではないかと思います。

またハイドンの歌劇《薬剤師》は、これは天井からワニのはく製がぶら下がっていたり、動物の皮や怪しげな薬壺があったりという、魔術的な薬局の薬剤師をからかったコメディです。昔はそうしたものが魔除けになる、身体に効くとされていたのですが、ハイドンやモーツァルトの時代にはもうそれが「なんだか怪しいぞ」といわれるものになっていたわけです。この曲はかなりレアな音楽ですので、どうぞお楽しみに。

グラスハーモニカ

また歌曲『夢に見る姿』を作曲したポールはリューマチを研究する医者でした。モーツァルトやハイドンのように頭にかつらをかぶった時代の人ではありますが、病気を科学的に解明しようという動きが出てきていたわけです。

歌劇《煙突掃除人》はモーツァルトにゆかりの深いサリエリが作曲したものですが、台本を書いたのは現代の医学でも使われている「打診法」を発明した、アウエンブルッガーというお医者さんです。さらにモーツァルトの『レクイエム』を編曲したリヒテンタールは、音楽が人の健康にどう影響するかということを科学的に解明しようと試みた医学研究者でした。音楽も人の健康も科学も明確な線引きはなく、すべてが渾然一体となって捉えられていたのでしょう。
 

■データに基づく「医”学”」の時代。垣根なくすべてを包括的に捉えて芸術への昇華を目指す

――第2部は「外科医と旅するブラームス~医”学”の時代」の時代になります。

先の「医”術”」と「医”学”」、大きな違いは、「医”学”」は臨床実験やデータなどをもとに、検証して考えるという点があります。文明開化の折、日本が学ぼうとしたのがこの「医学」で、森鴎外もこれを学びにドイツに留学しました。とはいえ医学は医学、音楽は音楽と切り分けるのではなく、むしろ医学・音楽・文学はそれぞれにかかわり合いながら発展してきたのがこの時代の特徴です。

ビルロート

例えばブラームスと親交のあったビルロートという外科医は、当時の外科手術の大家で、ポリープの切除手術などを行い、今でも医学分野で名前が残っているような人物で、その一方で作曲もし、楽器も弾くという音楽家でもありました。さらに晩年は「優れた音楽はどういうものであるか」ということを科学的に証明しようともしたのです。

今回演奏されるブラームスの『弦楽四重奏曲 第1番』は、これはビルロートに献呈された曲です。ブラームスは若い頃は尖った気鋭の音楽家という評判でしたので、ブラームスとビルロートは有名若手音楽家の曲を弾く有名若手外科医という、いわばその時代を象徴するコンビの図でもあったわけです。

ビルロートによる手術の公開授業

――芸術家、創作者、知識人たるもの、分野にとらわれずすべてを包括してたしなむというのが当時の感覚だったのですね。

はい。ブラームスが尊敬するベートーヴェンもまた、外科医で眼科医のシュミットと交流がありました。彼は白内障の研究をする傍ら、ピアノ演奏家としても趣味の気晴らしとは言えないほどの腕前の音楽家でした。今回取り上げる『ピアノ三重奏曲』は、本来七重奏曲だったものを、ベートーヴェン自身がアレンジして、シュミットに献呈したものです。

さらに2つの歌曲――ハンスリック作曲『夕映えの湖よ』とブラームス作曲『余波』をお聞きいただきますが、作詞者はマイスナーという医者であり文学者です。「余波」とはドイツ語の自然科学用語なのですが、芸術と科学が互いに響き合い共鳴していくような、文化の豊かな時代だったことを感じさせられます。

――科学の黎明の時代であるからこそ、様々な文化が自由に影響を与え合っているようなところがあったのですね。医学、文学、音楽の融合を通して、彼らは何を作り出そうとしたのでしょうね。

一つは憧れみたいなものがあったのかもしれません。この当時、世の中は貴族社会から市民社会へと移り、商業産業も右肩上がりで発達していきましたが、完成はしていない。まだよりよいものがあるのではないかという憧れもありましたし、音楽の分野で言えば、ベートーヴェンが打ち立てた巨大な壁をどう超えるのか、どうすればさらなる高みへと到達できるのかを模索していたところもあったのでしょう。そのためか、ブラームスとビルロートは2人でイタリアに旅行し、見識を広めようとしました。自分にないものへの渇き、知的欲求が非常に強い時代でもあったのかもしれません。

――異国や旅がもたらす文化もまた、医学・文学・音楽に刺激を与えていたのですね。

ローゼッガー「シュタイヤー風レントラー組曲《森のふるさとから》」ですが、これはオーストリアのシュタイヤーマルク地方の民謡をもとにしたものです。ローゼッカーのお父さんがこの地方の民謡を収集しており、それをもとに息子が曲を作りました。民謡の収集は20世紀初頭にバルトークが行っていますが、その先駆けと言えるでしょう。因みにローゼッガーもまた医者であり音楽家でした。

――収集をもとにした作曲は、医学のデータの検証や実証の側面が音楽に反映されたようにも思えますね。
 

■再び回帰する「医”療”の時代」100年の間に起こる急速な精神文化の変化

――第3部が「自然療法にはまるワーグナー~医”療”の時代」です。「はまる」という言葉が微妙な雰囲気を醸します。

臨床実験など実証データに基づき検証する「医”学”」が発展する傍ら、病とは悪いところを切り取ったら治るというわけではないのではないかという、疑問が起こってきたわけです。

その疑問に対する考え方の一つが、「世界は人間だけで成り立っているのではなく、様々な動植物や宇宙全体の中で考えるべきで、それをなるべく科学的に考えながら医学とは違った方向から、人の癒しなどに対しアプローチをすべきだ。またそうした宇宙的な位置から人間の癒しを考えなければならない」という考え方でした。それを実践したのがクナイプです。日本では同名の、自然派のオーガニック石鹸のブランドで有名ですが、クナイプはもともとこのような考えに則り、水治療法を始めた人なのです。

クナイプの水治療法のイメージ

そしてワーグナーはまさに、当時だんだんと広まり始めた水治療法にはまります。いろいろ投薬をしても良くならなかった体調が、ウーリヒという思想家に紹介されて行った水治療法ですっかり良くなったからです。このウーリヒもやはり音楽家で、ワーグナーの歌劇《ローエングリン》をピアノ伴奏版に編曲した人でもありました。

第3部ではワーグナーの義父でもあるリストの曲も取り上げていますが、彼もまた晩年動物愛護――「肉食は自然の循環の流れを断ち切るもので、それにより人間は堕落していく」といった考え方にはまり、ワーグナーも水治療法をやりながらそういう考えに影響されていきました。

――モーツァルトの時代から100年ほどのあいだに、オカルト的な医術から臨床実験・データに基づく科学、さらに宇宙的概念を取り込んだ自然療法や自然思考といった精神文化の変化が、急速に起こっていたわけですね。

はい。さらに身体ばかりでなく、精神の療法という点で、マーラーとフロイトが登場します。

マーラーは晩年夫婦間の危機が訪れ、フロイトのもとを訪ねます。精神疾患は18世紀の終わり頃までは悪魔が憑いたなどとされていましたが、19世紀頃には病として認識されてきます。当時のヨーロッパでは近代化による社会の矛盾、恐慌、貧困など様々な矛盾が生まれ社会不安が増し、精神を病む人も増えてきていたのです。ただそれをどう治療するか、方法がわからなかった。その時にフロイトが考えたのが、一種の催眠療法で、それを用いて精神分析をしていくわけです。ある意味「医"術"」の時代に戻ったようにも感じられますが、フロイトはそれでマーラーの心の傷を見出していく。フロイトのこの手法は現代の心理療法にも繋がっているわけです。

マーラーの曲からは『交響曲 第3番』の第2楽章をピアノ4手にアレンジした曲をお聞きいただきますが、これを特に楽しんでいたのがフロイトから影響を受けたシュニッツラーという医者であり文学者でした。またこの人と同年代の作曲家にしてお医者さんのマルシクが作曲した『ホルンとピアノのためのロマンツェ』は、当時ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の団員も演奏した、いわばプロのお眼鏡にかなった、非常に完成度の高い名曲でもあります。今回のコンサートでこの曲を演奏しますが、間違いなく日本初演になりますのでお聞き逃しなく。

■音楽・医学・文学、互いが支え合うことで生まれる新しい世界

――音楽と医学の関わり合いは、現代の自然療法など身心の健康が問われる現代にも通じるものがありますね。

今の世の中、コロナ禍など様々な不安がありますが、昔のヨーロッパ文化史を検討することで、今の日本や世界が失ってしまったもの、残っているものやその影響など、見えてくるものがいろいろあるのではないかと思います。

最後に、第3部の半ばで取り上げるヨーゼフ・シュトラウスのワルツ《天体の音楽》ですが、これはお医者さんの舞踏会のために書かれた曲です。医学が発展した時代ですが、ウィーンのお医者さんたちは舞踏会という伝統も大事にしていました。この曲には医学とは宇宙の天体の存在と調和・連動して存在するものだ、というメッセージもこめられています。

違った領域のものが、違うということで対立し合うのではなく、その違いを尊重しながら互いに支え合い生まれる新しい世界を、このマラソンコンサートでお楽しみいただければと思います。

――ありがとうございました。
 

音楽の調和と天体の調和を描いた寓意画

取材・文=西原朋未