歴史の授業で習った「参勤交代」を覚えているだろうか。江戸時代、徳川幕府は諸大名を1年ごとに江戸と領地を往復させた。歴史家の安藤優一郎さんは「豪華絢爛な大名行列をイメージする人は多いが、武士たちはお殿様の排泄物や風呂、漬物石まで運んだ」という--。

※本稿は、安藤優一郎『江戸の旅行の裏事情』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

園部藩参勤交代行列図(1)(画像=ブレイズマン/public domain/Wikimedia Commons)

■「単なる大名行列ではない」参勤交代の舞台裏

プライベートで旅行を楽しんでいた庶民とは違い、江戸の幕臣にせよ各藩の藩士にせよ、主君を持つ武士にはプライベートな旅行は事実上無理だった。隠居の身ならばともかく、家督を継いでいる身で、庶民のように一カ月にも及ぶ長期旅行など、夢のまた夢である。

しかし、公務となれば話は別だった。

参勤交代への御供を命じられた藩士は国元から江戸、あるいは江戸から国元への旅に加わることになる。その日数は江戸からの距離によって、数日から数十日。御供の人数は大名の石高によるが、大半は百人から数百人のレベル。千人を超える事例もみられた。

毎年、これだけの人数の団体が江戸と国元を往復したのだから、当事者の藩にとっては、その準備がとにかく大変だった。

実際の旅でも様々なトラブルが避けられなかったが、街道筋や宿場には莫大な金を落としたため、その経済効果は大きかった。参勤交代に要した費用は藩の年間経費の五〜十%にも達したからである。

本稿では、参勤交代という名の「団体旅行」の実態を解き明かしていく。まず、下準備からみていこう。

■日程も、経路も自由に選べない

参勤交代の時期や経路は各藩からの申請に基づき、幕府が個々に指定した。諸大名が勝手に決めることはできなかった。

例えば、譜代大名は原則として毎年六月(関東の譜代大名は八月など)、外様大名は毎年四月に参勤すると定められていて、参勤の際には、その都度伺いを立てる必要があった。

そのため、四月参勤組の外様大名は前年十一月、六月参勤組の譜代大名は同年二月に伺いを立てている。

経路を管轄したのは道中奉行である。五街道をはじめとする街道や宿場の取り締まり、あるいは道路や橋梁などの修復も管轄していた。大名の監察を職務とする大目付と、幕府財政を差配する勘定奉行が一人ずつ道中奉行を兼務した。

文政五年(一八二二)に道中奉行は諸大名に対して通行すべき街道を指定し、東海道通行の大名は百四十六家、中山道は三十家、奥州街道三十七家、日光街道四十一家、甲州街道が三家と振り分けられている。天災などのため、やむを得ず参勤交代の時期や経路を変更する場合も、その都度届け出て幕府の許可を得る定めだった。

大人数の団体旅行であり、幕府としては各街道が混雑しないよう調整したわけである。

■半年前から宿泊場所を予約

参勤交代の期日が指定されると、各藩は早速準備に取り掛かる。加賀藩前田家が参勤した時の事例をみてみよう。

前田家は国元の金沢を出立する四十〜五十日前から準備に取り掛かっている。最初に決めるのは参勤の責任者だった。前田家では家老の一人を責任者に任命している。

次に、その家老のもとで江戸まで参勤の御供をする藩士たちが選抜される。道中での役割分担も併せて決められた。藩主の警護役を務める藩士はもちろん、道中での多岐にわたる事務を処理する藩士も必要であった。

参勤の御供をする藩士とその役割分担が決まると、次は宿割りだ。宿泊場所を確保しなければならなかったが、後述のような藩主の生活用品類を運ぶ大勢の人足も同道させたため、その宿泊場所も確保している。

宿場によっては、旅籠屋をすべて貸し切っても足りなかったかもしれない。この問題が、準備段階では一番悩ましかっただろう。

東海道を通過する大名の場合、半年前ぐらいから宿泊予定の各宿場の本陣や旅籠屋から請書(うけしょ)を取っている。本陣には藩主、旅籠屋には藩士などが宿泊した。

幕府の指定に従い、過半の大名は東海道を江戸への経路として使った。つまりは、宿泊場所の確保がその分難しい。早めに宿泊所を決めておかないと野営となる可能性も高く、半年前には予約してしまったわけだ。

写真=iStock.com/duncan1890
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/duncan1890

■1年以上も前から準備をする藩も

一方、東海道を経由する大名に比べると、加賀藩前田家の準備はかなりゆっくりとしている。

前述のように、約一カ月半前からである。前田家は中山道と北国街道が参勤交代の経路に指定されたが、両街道とも東海道ほど混雑することはなかった。宿泊場所の確保はさほど急がなくても良いだろうという読みが、準備期間の短さに表れている。

もっと早くから準備に取り掛かっている藩もある。

秋田藩佐竹家などは出立の一年近くも前から着手した。文政八年(一八二五)に十代目藩主佐竹義厚(よしひろ)が江戸から国元に帰国した時の事例をみてみよう。

佐竹家が帰国を許可されたのは、この年の一月七日のことである。四月二十九日、義厚一行は江戸を出立。五月十七日に秋田に戻ったが、幕府から帰国許可が下りる半年以上も前に、佐竹家は帰国の具体的準備に取り掛かっている。

前年の文政七年(一八二四)六月八日、国元で藩主帰国に関する掛かりが任命された。八月十日には、江戸でも掛かりが決まる。国元でも江戸でも、家老が帰国事務の責任者だった。

その後、国元に連れていく家臣の名や道中の行程が発表され、帰国許可が下りるのを待つことになる。

御供する藩士の選抜や宿泊場所の手配だけではない。藩主の持ち物などを運ぶ人足や馬の確保、その日当や駄賃の計算など、多岐にわたる事務処理も事前に済ませておかなければならなかった。そのため、佐竹家などは一年以上も前から準備したのである。

■最後の広島藩主・浅野茂勲の証言

ありし日の参勤交代について、当事者たる藩主の証言が残されている。最後の広島藩主である浅野茂勲(しげこと)(明治に入って長勲(ながこと)と改名)の証言だ。

※写真はイメージです(画像=iStock.com/ilbusca)

浅野は天保十三年(一八四二)生まれで、二十代後半で明治維新を迎える。維新後は貴族院議員などの要職を歴任して昭和十二年(一九三七)に没する。その晩年に、江戸の社会風俗の記録者として知られる三田村鳶魚(えんぎょ)の質問に答える形で、大名時代の日常を語った。その回顧録に、参勤交代時の道中の様子が収められている。

まずは、食事についての証言である。

略式と申しても、道具はいろいろ持って行っておりますから、食事はその土地のものを食うには相違ないが、台所があって料理番が仕立てる。(中略)食物は台所奉行がまず食味をします。それから近習の者が毒味をするので、これは食味がまずくても加減が悪うても一言もいえない。何か嫌いのものが出た為に、目を白黒して呑み込んだという話もある。なかなか面倒なものです。道中でもやはり食事は前日に伺いますが、その晩のことは前日というわけに往かないから、着いてからきめることになります。(浅野長勲「大名の日常生活」柴田宵曲編『幕末の武家』青蛙房)

参勤交代には、藩主専任の料理番も同行していた。宿泊所である宿場の本陣に行列が到着すると、料理番が台所に入り、使い慣れた料理道具で調理する。なぜ専任の料理番に調理させたかと言えば、藩主の毒殺を防ぐためであった。

■漬物のみならず、漬物石も……

料理番による調理が終わると、藩主の食事の責任者である台所奉行がまず毒味をする。料理番のみならず、台所奉行も同行していたことがわかる。実際に殿様の御前に出される際には、さらに毒見役のチェックが入る。

二重のチェックを受けた後、藩主はようやく箸を付けることができた。城中で食事を取る時とまったく同じチェック体制が取られていたのだ。

本陣の台所に持ち込んだのは、料理道具だけではない。浅野家の場合は違ったのかもしれないが、藩主の御膳にのぼる米まで持ち運ぶ場合もあった。米のほか、炊事に使う水や塩・醤油なども樽に入れて運んでいた。

当時、食事には香の物は欠かせなかったが、なんと漬物も運んでいたという。漬物のみならず、漬物石も一緒である。重しの石がなければ味が落ちるからだ。

いわば台所ごと、城から移動してきたようなものだった。当然ながら、それを運ぶ人足も参勤交代の一行には加わっていた。

■殿様専用の風呂、トイレも部下が運んだ

藩主専用の宿所であった本陣には一日の疲れを落とす風呂はあったのだが、藩主は入らなかった。持ち運んできた専用の風呂桶を本陣に持ち込み、入浴したからである。別の場所で沸かしたお湯を桶で運んで風呂に入れ、藩主に入浴してもらうことになっていた。

本陣の風呂は、五右衛門風呂と呼ばれる据風呂だった。湯槽の底に平釜を取り付け、竈(かまど)を据え付けた上で薪(まき)を焚いて沸かす仕組みの風呂である。

据風呂は水面に浮かんだ底板を踏み沈めて入浴する。失敗すると大やけどの危険があったため、藩主は本陣の据風呂には入らなかったのだ。

本陣に持ち込んだのは風呂桶だけではない。風呂から出て藩主が座る腰掛、風呂からお湯を汲み出して体に掛ける手桶も同様だった。殿様の入浴に必要な道具すべてを携行していた。風呂のほかには、藩主専用のトイレも持ち運んでいた。道中で用を足す時はもちろん、本陣でも使用したため、本陣の雪隠(せっちん)は直接使用しなかったことになる。

前田家の殿様専用の携帯用トイレは、高さ一尺二寸(約三十七センチ)、長さ二尺(約六十センチ)、幅一尺(約三十センチ)の台形をしていた。腰を下ろす位置には、大・小の穴が瓢箪(ひょうたん)形にくり抜かれていたという。

■藩主の排泄物は回収して持ち運ぶ

携帯用トイレを本陣に持ち込んだ藩主に関する証言が残されている。中山道を通過する大名に、自分の家を本陣として提供した村の庄屋の言葉である。

お大名が今夜お泊りと申す時には、「先番(さきばん)」と号する士(さむらい)が、長持(ながもち)に雪隠の抽出筥(ひきだしばこ)を納めたのを持たせて参りまして、上雪隠へ仕掛けて置きます。もっとも大抵の家(うち)で本陣にでもなろうという処では、そうしなくても御間(おま)に合うようにはしてありました。黒塗の樋筥(といばこ)の雪隠です。先番衆は本陣へ乗込むが早いか、乾いた砂をソレへ敷き、両便を受けるようにしたものだそうで、サテ殿様が御到着の上両便を達しられると、先番衆は、再びその砂をば樽詰にし、御在所へ持帰ったもので、サゾ大変の物であったろうと思われます。(篠田鉱造『増補 幕末百話』岩波文庫)

長持に納めた「雪隠の抽出筥」というのが、携帯用トイレだった。庄屋の証言から、携帯用トイレだけでなく藩主の排泄物まで持ち運んでいた様子が窺える。

■お城まるごとの移動

参勤交代では、藩主は駕籠(かご)に乗っているのが通例である。警護する方としては駕籠の中に居てもらった方が助かるが、藩主からすると、駕籠に乗ったまま道中を続けるのは苦痛だった。前出の浅野長勲も、駕籠の中は薄い布団が敷いてあるだけで楽ではなかったと語っている。

そのため、駕籠に乗り疲れると馬に乗った。藩主率いる団体旅行に馬も加わっていたことは、別に不思議ではない。そもそも、何か危険が迫った場合、藩主をその場から速やかに立ち去らせるため、馬も同行させたのである。

ただし、馬を同行させるとなると、その轡(くつわ)を取る口取の者も必要だ。飼葉や飼葉を持ち運ぶ者も必要であり、馬小屋も藩主と一緒に移動していた格好だった。馬一頭連れていくだけで行列の人数はさらに増え、予備の馬も用意されたため、その分行列の人数は増えていく計算となる。

予備があったのは駕籠も同様である。破損した場合に備えて持ち運んでいたが、となれば担ぐ人足も必要だった。

■重すぎる……幅が三メートルもある鉄の延べ板

囲碁や将棋の道具など、藩主の無聊(ぶりょう)を慰める娯楽用具も携帯され、鷹狩りで活躍する鷹も同行していた。

安藤優一郎『江戸の旅行の裏事情』(朝日新書)

この時代、鷹狩りは藩主が野外で楽しむスポーツ感覚のレクリエーションとして人気が高かった。休憩時、気分転換を兼ねて鷹狩りを楽しんだのだろう。

そのため、鷹を調教する鷹匠も同行させなければならなかった。鷹の餌を入れる餌箱も持ち運ぶことになるだろう。

紀州徳川家の事例だが、道中では幅が三メートルもある鉄の延べ板を運んでいたという。宿泊した本陣で藩主が寝る床の下に敷くためだ。

床下に刺客が忍び込んでも、藩主に危害が及ばないようにする措置である。となれば、延べ板を運ぶ人足も必要となる。

参勤交代の行列が大人数になったのは警固の藩士の数が多かったからというよりも、城がまるごと移動するかのように、藩主の日々の生活に必要なものを一切合財持ち運んだことが一番の理由なのである。

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安藤 優一郎(あんどう・ゆういちろう)
歴史家
1965年千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。文学博士。JR東日本「大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『明治維新 隠された真実』『河井継之助 近代日本を先取りした改革者』『お殿様の定年後』(以上、日本経済新聞出版)、『幕末の志士 渋沢栄一』(MdN新書)、『渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘』(朝日新書)、『越前福井藩主 松平春嶽』(平凡社新書)などがある。
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(歴史家 安藤 優一郎)