女子バレー江畑幸子 
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 木村沙織とのダブルエースとして、ロンドン五輪の銅メダル獲得に貢献した江畑幸子。インタビューの中編は、メダル獲得への最大の難所になった、準々決勝の中国戦での裏話などを聞いた。


ロンドン五輪で、日本のエースのひとりとして活躍した江畑幸子 photo by Ishijima Michi

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 聖霊女子短大付属中学・高校を経て、江畑は2008年にVリーグの日立佐和リヴァーレ(現・日立リヴァーレ)に入団した。日立のスタッフ陣は高校1年時から練習を見学に訪れており、バレー部が日立の施設で合宿を行なったこともあったことから、「そのつながりもあって、卒業後は自然な流れで日立に入りました」と江畑は振り返る。

 入団1年目のシーズンでチームは全敗を喫し、いきなり2部に降格。しかし翌シーズンは、江畑の活躍もあってリーグ優勝を果たした。チャレンジマッチ(1部の下位チームとの入れ替え戦)で敗れて昇格はできなかったが、翌年以降に希望を残す結果になった。

 そのシーズン終了後の2010年4月、江畑は日本代表に選出された。2部のチームから代表選手に選ばれることは男女とも珍しい。まして、アンダーカテゴリーの代表でもプレー経験がなかった江畑の代表入りは異例だった。

「当時のVリーグ2部の試合会場は今より環境が整っていなくて、地方の小さな体育館で行なわれることもありました。お客さんの数も少なかったんですが、ある日、いきなり(当時の女子代表監督の)眞鍋政義さんが試合を見に来たんです。当然、かなり目立っていましたよ(笑)。周囲の人たちからは『エバのことを見に来たんじゃない?』と言われて、私は『そんなわけないじゃん』と笑っていたんですが、そこで高く評価してもらえたのかもしれませんね」

 日立の総監督だった菅原貞敬(現・日立のシニアアドバイザー)から、眞鍋監督への"猛プッシュ"もあったようだ。実際に代表に選出されると、菅原はいち早く江畑の両親に伝えたそうで、江畑も「両親に連絡したら、『(菅原さんから)聞いたよ』と冷静な反応でした」と笑顔で話す。

「でもそのあとに、『日本代表はたくさんメンバーがいるから、頑張らなきゃいけないね』と、励ましてくれたのも覚えています」

 当時の日本代表は登録メンバーが多く、世界選手権など大きな国際大会を戦えるメンバーはひと握り。当時20歳の江畑はチーム最年少で、周囲はすでに日本代表で実績がある選手ばかりだった。「私がここにいてもいいのかな」と悩んだこともあったが、「立場とか経験とかは考えず、絶対に自分のいいプレーをしよう」と気持ちを切り替えた。

 代表での"初陣"は、若手選手が多く起用される場だったモントルーバレーマスターズ。竹下佳江や木村沙織といった、すでに代表で実績がある選手たちは出場しない大会で、江畑は十分に存在感を示した。

「1試合目は出番がなく、2試合目に2枚替えで少しだけ出たんですが、けっこうスパイクを決めることができたので手応えはありました。次の日、スタメンで出た試合はかなり調子がよかったですね。私はときどき、自分でもビックリするぐらい何でもうまくいく時があって、この日もその『当たりの日』だったんです。具体的な数字は忘れましたが、かなり得点を決められたと思います」

 その活躍から、江畑は同秋の世界選手権のメンバーにも選ばれ、銅メダル獲得に貢献した。日本女子バレーが世界のトップで戦えることを証明した大会だったが、江畑にとっても飛躍のきっかけになった。

「私にとっては初めての大舞台だったので、すごく印象に残っている大会です。竹下さんや沙織さんなど、それまでテレビで見ていた選手たちと一緒にプレーできたことも、すごくうれしかったですね。大会期間中に21歳の誕生日を迎えたんですが、その日の試合が一番活躍できた(チームトップの24得点)ので、いい記憶ばかり残っています。

 強いて言えば、3位決定戦のアメリカとの試合に出られなかったのが悔しかった。それでも、日本での開催だったこともあって、たくさんの方が見てくれている中で試合ができることは幸せでした。次の年のVリーグは、2部の試合でもお客さんが増えたので、注目度の高さを感じましたね」

 翌2011年のW杯では、日本は惜しくも上位3チームに入れず(4位)ロンドン五輪の出場権を得られなかったものの、江畑は「自分が『世界に通用する』と確信を得た大会です」と振り返る。当時の絶対的エースだった木村と共に得点を重ね、「ダブルエース」と呼ばれるようになっていた。

「直前まで調子が悪かったのが、いざW杯が始まったら急によくなったんです。そこで眞鍋監督にも『沙織とエバ、2人で頑張れ』と言ってもらえるようになった。大会後に、海外チームも含めた全選手の中で、私のバックアタックの効果率が一番よかったことを聞いたんですが、自分の"武器"として大きな自信を持つことができました」


ロンドン五輪での激闘を振り返る江畑 photo by Matsunaga Koki

 木村と共にエースとして期待されるプレッシャーもあったが、それを感じている暇はなかったという。

「もちろん、一番大変なのはエースの沙織さん。徹底的にサーブで狙われて、トスが上がる前から沙織さんに2枚ブロックがつくような感じでした。私がバックアタックを打つ時もノーマークになることが多かったです。

 そこで決めないと沙織さんへのマークがより厳しくなってしまう。そういった場面でしっかり決め続けて、積極的にトスを呼べば、少しでも相手ブロックの注意を引くことができる。私自身もプレッシャーを感じないことはなかったですが、沙織さんを楽にするため、私がやることははっきりしていました」

 世界選手権やW杯の戦いから、2012年の最終予選では「全勝でロンドン五輪出場を決める」ことが目標に掲げられたが、最終戦でようやく出場権を獲得。チーム状態が少し心配されたものの、本番ではグループ3位で決勝トーナメントに進出した。

 準々決勝の相手は、江畑が「一番印象に残っている試合」に挙げる中国。金メダル候補とも目されていた強豪を相手にフルセットの激闘になったが、木村と江畑がチーム最多の33得点を記録するなど両エースが躍動した。

 この日の江畑は、本人が言う「何でもうまくいく『当たりの日』」で、「特にこの日は絶好調でした」と語る。勝負が佳境に差しかかった第5セットの終盤には、中国選手のスパイクをブロックしたボールが体とネットの間に落ちる......と思われたものを拾い、体勢を立て直してトスを呼び、強烈なスパイクを決めたシーンもあった。決して得意ではなかったレシーブやつなぎでも好プレーを見せるなど、完全に"ゾーン"に入っていた。

 試合当日の朝に、眞鍋が伝えたある指示も江畑の活躍を後押しした。

「いきなり眞鍋監督に『トスを少し短くしたほうがいい』と言われたんです。中国はサイドのブロックがストレートを絞めてくるから、トスを10cmだけ短くしてクロスを打ったほうがいいと。試合の朝のことでしたから、『10cmってどれぐらいだろう......』とちょっと混乱しました。私なりに10cm短いトスをイメージして練習に入ったら、テンさん(竹下佳江)が上げたトスがそのイメージとピッタリ合ったんですよ。そこで、『今日はいけるかも』と思いました」

 竹下は大会直前に、左手の人差し指を骨折していた。チームメイトに気を使わせまいと肌色に近いテーピングをしてケガの状態を隠していたが、江畑は「誰も直接は聞けませんでしたが、みんな薄々はわかっていました」と振り返る。

「いきなりの『10cm短く』という指示を、骨折した指で難なくやってのけてしまうのは、すごいとしか言いようがないですね。他の場面でも、トスに関して私のほうから『このくらいでお願いします』と要求したことはありません。例えばスパイクを打ったあとに『ちょっと今のトスは長かったかな』と思っていると、テンさんのほうから『ごめん、ちょっと長かった』と言ってくれて、すぐに修正してくれる。スパイカーのことを本当によく見ていて、理想の位置にぴったりトスを上げられる高い技術と信頼感があったから、私たちアタッカー陣も安心してプレーができたんです」

 中国戦は第1セットを逆転で制するも、その後はすべて2点差でセットを取り合う接戦でフルセットに突入。「最後の1点を取るまでまったく気を抜けなかった」という江畑は、得点を決めてもそれほど喜ばず、淡々とスパイクを打ち続けた。

 勝負を決めたのは、中道瞳のサービスエースだった。

「セットポイントになっても『まだまだ続くぞ』という気持ちだったので、その瞬間は『あ、終わっちゃった』みたいな感じでした」

 アジア最大のライバル中国を下した日本は、準決勝でブラジルに敗れ、3位決定戦へ。やはりアジアの"宿敵"である韓国を相手に、28年ぶりのメダル獲得をかけて戦うことになった。

(後編:引退を決断したリアルな経緯)