女子バレー江畑幸子 
引退インタビュー 前編

 3月25日に引退を表明した、元バレーボール女子日本代表の江畑幸子。2010年に、Vリーグ2部のチームだった日立佐和リヴァーレ(現・日立リヴァーレ)から代表に選ばれ、ロンドン五輪では木村沙織とのダブルエースで銅メダル獲得に貢献した。

 インタビュー前編は、幼稚園からの幼なじみで日本代表のセッターとしても活躍し、奇しくも同年に引退した佐藤美弥との思い出を聞いた。


高校、日立リヴァーレでチームメイトだった江畑幸子(左)と佐藤美弥(右) Photo by Sakamoto Kiyoshi

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 1989年11月に秋田県秋田市で生まれた江畑は、両親がバレー経験者(父は社会人チームでもプレー)で、2歳上の兄もバレーをする"バレーボール一家"で育った。自身がバレーを始めたのは小学3年生の時。母がコーチの資格を取って江畑が通う小学校にクラブチームを作り、そこに入ったことがきっかけだった。

 小学校時代はまだポジションが定まっていなかったものの、「当時も(現役時代と同じ)レフトから打つことが多かったですね」と振り返る。のちに日本代表で活躍する選手の中には、早くから身長が高かったという選手も多いが、江畑はそうではなかったという。

「当時の身長は、平均よりは高かったと思うんですけど、私の小学校にはもっと大きい子がいたんです。小学校6年生で170cmくらいある子がたくさんいて、それに比べると私はまだ小さかったですね」

 強豪国相手にも臆しない"強気な点取り屋"という現役時代のプレースタイルは、この頃に培われたようだ。

「チームの監督は『とりあえず攻めろ』という方で、フェイントをしたら『それは逃げのプレーだから、とにかく打て!』と怒られた記憶があります。打ち切ることを重視した監督でしたが、そこで江畑幸子という選手像ができあがった気がします」

 クラブチームは県で2番目の強豪になったが、中学進学の際に江畑は「すごく重要だった選択」をする。地元の公立中学校には、県で3番目に強いチームがある近隣の小学校の生徒も通うことになっていた。そのチームには、幼稚園が一緒で、のちに日本代表のセッターとして活躍する佐藤美弥がいたため、そのまま進学していたら中学で"代表コンビ"のプレーが見られたかもしれない。


当時を振り返る江畑 photo by Matsunaga Koki

 しかし江畑は、私立の聖霊女子短大付属中から誘いを受けていた。江畑が小学6年生の時、同中学校のバレー部には2年生がおらず、1年生も5人くらいでチームが作れない状況だった。両親からは地元の公立中学校に行くことを勧められたが、江畑は首を振った。

「私は、どうしても聖霊女子短大付属中に行きたかったんです。そのバレー部のコーチについて、周囲から『その人に教えてもらったら、すごくうまくなる』という話を聞いていたんですよ。実際に、私が『すごい』と思って見ていた中学生や高校生の多くがそのコーチに指導を受けていて、『私もその人に教えてもらいたい』という思いが強くなりました。両親に食い下がって、『そこまで言うんだったらいいよ』と許してもらったんです」

 そうして進学した聖霊女子短大付属中のバレー部にはその監督もいたが、メインの指導はコーチが行なっていた。江畑は「スパイクのフォーム、助走、レシーブといったすべてを、そのコーチに教えてもらった」と振り返る。

「小学校の時はあまりレシーブをしていなかったので、1年生の頃はとにかく苦手でした。最初の何カ月かは目をつぶってもらっていたんですが、やはり『どれだけ点を取っても、レシーブでミスをしていたら全然チームのプラスにならない』となって。そこから、初めて本格的にレシーブを教えてもらいました。形になるまで、先輩たちにもたくさん迷惑をかけましたね(笑)」


聖霊女子高校時代の江畑 photo by Sakamoto Kiyoshi

 高校も聖霊女子の付属高校に進むと、そこで佐藤美弥とチームメイトになる。

「美弥とは、小学校、中学校の時もよく試合をしましたけど、本当によく怒られていました(笑)。中学校の時は、大会の決勝で必ず対戦していましたね。高校でやっと同じチームになれたという感じです。

 家も近かったので、2人で登下校していました。3年生では同じクラスにもなって、本当に常に一緒にいましたね。美弥は勉強もできたので、テストの点も毎回よかったですよ。プレー面でも私は美弥のことをすごく信頼していました。『ここでトスがほしいな』と思った時には、必ずトスがくるんです。しかも、どんなに苦しい体勢からでも打ちやすいボールがくるので、当時から『すごいな』と思っていました」

 江畑は入学して間もなくスタメンで起用されるようになり、佐藤も1年時の春高バレーの予選から正セッターとして活躍した。毎年のように春高バレーやインターハイに出場するも1回戦、2回戦で敗れるなど苦しんだが、3年時の秋の国体(2007年)では全国3位という成績を残した。

「私たちの代が高校3年生になる年に地元の秋田で国体があることがわかっていたので、入学してすぐに監督から『2年生、3年生には申し訳ないけど、1年生をどんどん使う』と言われました。その時の上級生の方々は、内心は悔しさもあったかもしれませんが、『1年生、頑張ってね』と背中を押してくれたんです。それで力がついて、国体で一番いい結果を出すことができました。

 国体の時には長く合宿もしていましたが、私たちは全国の強豪というわけではなかったので、あまり期待されていなかったと思いますけどね(笑)。自分たちでも厳しいと思っていた試合で勝てたことが多かった。本当に地元の応援がすごかったですし、今までやってきたことがようやくつながったなという、すごくドキドキする試合をたくさん経験できました」

 佐藤はその国体でバレーをやめるつもりで、江畑にも「あと少しでバレーをやめる」と話していた。江畑は「高校で終わるような選手じゃないのに......」と思っていたため、佐藤が嘉悦大学に進学を決めたと知った時には自分もうれしかったという。

 江畑は日立リヴァーレに入団し、チームでも日本代表でも活躍。ロンドン五輪イヤーの2012年、佐藤の日立入団が決まり、再びチームメイトとしてプレーするようになった。

「日立は嘉悦大学とよく練習試合をしていたので、話す機会などはあって、プレーを見ることも多かったです。高校の時は高いトスが得意だったのが、大学での4年で速いトスの精度も上がり、ミドルを効果的に使えるようになっていきました。もともといいセッターでしたが、日立でまた一緒になって、よりすばらしい選手になっていると実感しました。

 そのあとは私が別のチームに移って対戦をすることもありましたが、美弥の周りには常に人が集まっている印象がありました。それは信頼できる選手というだけでなく、美弥の人柄がそうさせていたんだと思います」

 そして今年、3月に引退を発表した江畑に続くように、佐藤も5月にユニフォームを脱ぐ決断を下した。佐藤は中田久美監督が指揮を執る日本代表の正セッター候補として期待されたが、足と腰のケガに悩まされ、2020−2021シーズンのVリーグでも思うようなプレーができなくなっていた。

「今年1月の試合で会った時、私も引退を決めていましたが、美弥も『今年いっぱいでやめる』と言っていました。美弥は高校の時から腰が悪かったですし、五輪前のシーズンにケガでプレーできないというのは本当に苦しかったと思います。私もそうですが、これからどういった形でバレー界に関わっていくのか楽しみです。思いやりのあるトスでチームメイトを助けてきた美弥ですから、きっと今後も周囲を明るくするようなことをしていくんじゃないかと思います」

(中編:竹下佳江の10cm変更トスに「すごい」)