「旦那さんの稼ぎ少ないの?」タワマンのゲストルームで露呈した、女たちの静かなバトル
何不自由ない生活なのに、なぜか満たされない。
湾岸エリアのタワマンで、優しい夫とかわいらしい娘に囲まれ、専業主婦として生きる女。
―あのときキャリアを捨てたのは、間違いだった?
“ママ”として生きることを決意したはずの“元・バリキャリ女”は、迷い、何を選択する?
◆これまでのあらすじ
湾岸のマンションで育児に専念中の未希は、元々バリキャリ志向の女だった。
今は夫・慎吾の優しさに包まれながら専業主婦生活を満喫しているが、ママ友の華子が復職するという話を聞き、心がざわつきだして…?
「お邪魔しまーす…」
未希は恐る恐る、マンションの高層階にあるゲストルームへと足を踏み入れる。すると、テーブルの上に並べられた鮮やかな手土産の数々に目を奪われた。
『ザ マンダリン オリエンタル グルメショップ』のマンゴープリンに、『エシレ』のガトーエシレ。それから『ラデュレ』のマカロン…。
見栄えが良い、色とりどりのスイーツ。
未希が手土産に持ってきた最中も、夫に有名店で買ってきてもらった結構なものだが、和菓子ゆえに出すのを少々ためらってしまう。
「佐橋さん、今日はゆっくりしていってね。…って、自分の家じゃないけど」
オープンキッチンの中にいる華子が紅茶を入れながらにっこり微笑んだ。
リビングのソファには、初めて会うママさんたちが3人ほど、各々の赤ちゃんを遊ばせながら談笑している。
入りづらい雰囲気だったので、未希はそのまま華子と話しながら彼女の手が空くのを待つことにした。
「今日はお誘いありがとう。私、ゲストルームって初めて。住んでいても使う機会ないもの」
「私もそうよ。今のうちに色々楽しんでおかなきゃと思ってね」
そういうことか、と未希は最近頻繁に来る華子からのメッセージの意味を理解した。
華子が、高層階ゲストルームでお茶会を開いたワケ
―復職すると、のんびり集まることもできなくなるものね。
この集まりも、華子から数日前に突然誘われた。同じマンションのゲストルームならと、軽い気持ちで未希は訪れたのだ。
「お待たせしました。FORTNUM & MASONのデカフェよ。あとご紹介しますね…」
華子が紅茶を配りながら、未希に微笑みかける。ママたちの視線が一斉に向き、未希も背筋を伸ばした。
「同じマンションの佐橋さん」
「はじめまして。ええと、この子は咲月です」
はじめまして、とママさんたちはにっこり未希に微笑みかける。みんな可愛らしくて服装も華やかだ。
集まったママたちは、華子の仕事仲間2人と隣のマンションに住むという女性だという。
かつて営業で人の名前を覚えることが多かった未希だが、さすがに赤ちゃん含め6人の名前を一気に覚えるのはキツかった。
少々引け目があった“○○ママ”という呼称も、その場を上手くやり過ごすためであればやむを得ないことなのだと悟る。
「タワマンの高層階ってこんなに素敵な景色なんですね」
誰かが弾んだ声で、華子に話しかけている。
「いい眺めでしょ。本当は2階のパーティルームにしようと思ったけど、みんな赤ちゃん連れだからこっちにしてよかった」
「パーティルームもあるんですね…!」
「ラウンジやキッズルーム、フィットネスジムもあるの」
「すごいー、羨ましい」
感嘆の声を上げているのは、どうやら仕事仲間のママさんたちのようだ。
―華子さん、自慢したかったのかな?
彼女たちの羨望の眼差しに、華子も満足そうだ。
「パーティルームのインテリアもおしゃれだから見せたかったんだけどな。管理のOKが出たら撮影に使えないかなって思ってるの」
上機嫌な華子たちは、そのまま仕事の内輪話に突入する。
「1週間コーデの設定に使えそうですね!」
「っていうか華子さん、育休中も仕事のことを考えているなんてすごいー」
「抜けないのよね。仕事が体から」
置いてけぼりになった未希だったが、ちょうどよく咲月がぐずり始めた。しばらく咲月をあやしていたが、彼女たちの会話は未希の耳にお構いなしに入ってくる。
「ふふ。やっぱ私、仕事が好きなのかも。早く復帰したくて…。今は私が私じゃないみたいだもん」
何気なく聞こえてきた華子の言葉で、未希はどこか複雑な気持ちになる。
―子育てしてる人は、自分を失っているってことかしら。
「このまま夫と子どもの世話だけして年取るのはイヤなの」
―子育てだってやりがいあるし、夫を支えることも素晴らしいと思うけど…。
未希は華子の会話を聞きながら、心の中で言い返した。
「育児してるとさ、世間から置きざり感強くない?」
―仕事ばかりしている方が世間から置き去りになりそうだけど?
“専業主婦は人に非ず”とでも言わんばかりの華子の口ぶりは、子育てに専念している未希の胸の中を刺激する。
言わんとしていることは理解できるが、何につけても子どもより自分中心の彼女の主張に、どうしても反発したくなってしまう。
未希は「不妊治療までして授かったのに…」と、何も知らずにスヤスヤと眠る華子の娘・夢ちゃんの顔を、哀れむように見つめる。
そして、ずっといい印象だった華子が仕事復帰することで、こんなにまで反感を抱いてしまう自分の心に驚くのだった。
どす黒い感情を隠しきれない未希に、ある人物が近付いてくる…
「お名前、何ちゃんでしたっけ?」
明るい呼びかけに、未希はふと振り向く。するとそこには、未希と同じく会話の輪の中に入っていけなかったらしいママがいた。
ふんわりとした色合いのニットを可愛らしく着こなす彼女は、おそらく未希よりも若いだろう。確か隣のマンションに住んでいて、名前はまりあさんと言っていたような気がする。
「咲月です。佐橋咲月です」
「うちは真鍋文晴。ふう君です。改めてよろしくね」
「文晴、カッコいいお名前ですね」
「夫の親がつけて。ホントは亜嵐とか玲於とか今風の名前がよかったのに〜」
あっけらかんと笑う彼女の明るさに、未希もすぐに心が和らいだ。
「華子さんとは、お仕事関係のお知り合いですか?」
未希が尋ねると、まりあは首を振った。
「ベビースイムの体験で知り合ったんです。仲良くなれたと思ったのに、華子さん復職するんですね」
「みたいですね」
「そっかあ…。一緒に色々行きたいところあったのに」
まりあは寂しさからか、どこか落胆しているように見えた。
「私でよかったらお付き合いしましょうか?専業なので」
未希が答えるとまりあも快諾し、そのままLINEを交換する流れになった。
「佐橋さんがいてくれてよかった!友達も復職する人が多いから…。主婦向け雑誌を見てもキラキラしたワーママの特集ばかりで、なんだかなあって思っていたんですよね」
まりあはスマホを操作しながら何気なく言った。未希は素直に同意する。
「私も、思います」
いつの間にか文晴と咲月が仲良くじゃれ合っている。未希とまりあはそんな2人を見つめて、互いに微笑みあった。
すると、まりあは未希に心を許したのか驚くべき言葉をつぶやいたのだ。
「華子さんって、きっと強がっているんですよね」
「え?」
「こんなかわいい子と離れて仕事なんて考えられませんよ…。私は絶対ムリ」
まりあの言葉は、未希が抱く黒い感情からの皮肉ではない。純粋に放ったものであることは、彼女の真剣な表情から分かった。
「そうまでして稼がなきゃいけないんですかね…。旦那さん、フリーランスだから安定していないのかも知れないけど」
まりあは声を落とした。真剣に心配している様子だった。
―仕事復帰は、お金の理由ってだけじゃないと思うよ。
未希はそう教えてあげたい気持ちをグッとこらえる。初対面な上に、隣のマンションに住んでいるという関係で、彼女とはこれから長い付き合いが予想されるからだ。
一方で、未希は自分自身の矛盾に気付くのだった。
―さっきまで反発していた華子の言動を、私はなぜ擁護しようとしているんだろう。
華子は相変わらず、楽しそうに仕事の内輪話をしている。まりあと会話しながらも、ずっとその話の内容は耳に入ってきていた。
―もしかして、私も仕事に未練があるのかな…?
未希の中にイヤな気付きが浮かんでいた。
嫉妬心から、華子に悪意を持ってしまうのだろうか。
そんなことはない、未希は何度も繰り返して打ち消す。
一度選んだ道。もう後には戻れない、戻りたくないのだから。
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