4月2日の東京・日本橋近辺。東京都からテレワークを推奨されていても街にはサラリーマンの姿がチラホラ。緊急事態宣言が出ても通勤せざるを得ない人は相当数いる(撮影:梅谷 秀司)

新型コロナウイルスの感染拡大を受け、政府は遂に「緊急事態宣言」を出した。

改めて問題となっているのは、「通勤のための外出」についての取り扱いである。4月7日夜の会見で安倍首相は「オフィスでの仕事は原則在宅勤務」「出勤者の数は最低7割減らす」と明言した。欧米諸国が行っているいわゆる「ロックダウン」では、(一部の企業を除いて)出勤停止や在宅勤務の指示がなされているが、日本では法的な拘束力や経済的な補償が乏しい中での「お願い」であり、実際の通勤状況や企業活動にどれだけ影響を与えられるかは疑問が残る。

通勤する限り、感染リスクにさらされ続ける

以前からたびたび言及されているが、満員電車自体が「密閉空間」「密集場所」であり、事故や故障などで遅延が起これば3つ目の(間近で会話や発声をする)「密接場面」が加わることもありえる。さらに通勤の場面で「密接場面」を避けられたとしても、オフィスの中もまるで油断できない。「密閉」「密集」「密接」の条件に近い職場もあるだろう。マスクを着用して社会距離を取るようにして窓を開けて換気したとしても、密接場面だけでなくトイレやドアノブなどさまざまな共有物を介した感染リスクにさらされ続ける。

これまで政府は、この「3つの条件(密閉・密集・密接)がそろう場所がクラスター(集団)発生のリスクが高い」と注意を促しながら、「企業活動だけは例外」とするようなダブルスタンダードを採ってきた。いわば突然の方針転換といえる。しかし、緊急事態宣言の対象となる7都府県では、休止要請を受ける施設に関連する企業活動を除いて可能な限りの続行を試みる会社が多いであろうことは間違いなく、通勤電車や職場では依然として感染爆発(オーバーシュート)の危険にさらされる。

緊急事態宣言の前日である4月6日には、TwitterのCOVID-19のトレンドに「土日は外出自粛も…月曜日の満員電車の風景が話題」が入り、多くの通勤客が満員の車内の写真を投稿して苦言を呈したが、今朝4月8日の日本のトレンドにも「電車普通」が入り、いつもとまったく変わらない満員電車に怒りの声が上がった。「なにが3密を避けろだバカと電車に乗ってる人はみんな思ってるはず」という投稿などに共感が集まった。

中小企業をはじめとしてそもそも在宅勤務への切り替えが困難な労働者が多数存在するだけでなく、出社にこだわる経営者など前時代的な価値観による弊害もあり通勤人口は容易には減らないだろう。緊急事態宣言が出されたところで、働き方を選べない立場にいる人々は、まさに奈落の底に突き落とされる格好である。

未知のウイルスとの戦い方は、究極的には「家にいること」に懸かっている。社会のインフラを維持し、医療体制を守るといった絶対的に必要な人々を除き、「外出しない」という決断をできるだけ多くの人々がなしえるよう、政府や自治体が財政出動を含む積極的な支援を展開することが不可欠である。安倍首相は記者会見で「人と人の接触を7割から8割減らす」と言ったが、この基本中の基本が実質的に骨抜きになっているような状態では、残念ながらウイルスとの戦いに勝利を見いだすのは難しい。これは何の武器もない戦場に放り込まれる「消耗戦」のようなものである。

これから毎日、現在のような非常時には不要不急と考えられる仕事であっても、ウイルスの感染による死の恐怖、被害と加害の両方の可能性に脅えながら満員電車に乗らなければならず、オフィスや工場などの職場で業務に従事しなければならない人が相当数いる。それは前述したように「働き方を選べない立場にいる人々」のことだ。

法人は感染しないが労働力が失われれば事業は停止

それらの人々も必ず家に帰るわけであり、そこには同居する人々がいる。「企業活動」という「対面のコミュニケーションが活発的な領域」の感染領域が残るだけでしかない。なるほど、理屈のうえでは「法人」はウイルスに感染したり死んだりはしない。ウイルスに感染したり死んだりするのは身体を持つ「ヒト」だけである。

だが、肝心の労働力が損なわれれば事業は早晩停止する。とはいえ、経済の循環というものを数字のうえだけで眺めている者たちからすれば、この「消耗戦」の死亡率・重症率は「歩留まり」がいいと判断したという見方も成り立つ。意図がなくともそう理解せざるをえない。

もっと別の視点から冷静に眺めてみれば、わたしたちもこの「消耗戦」への道を少なからず準備した面がある。

それは「生物的な限界」を度外視した経済システムの常態化を、主に消費者としての利便性から進んで受け入れてきたからだ。

美術批評家のジョナサン・クレーリーは、「連続的な労働と消費のための24時間・週7日フルタイムの市場や地球規模のインフラストラクチャーは、すでにしばらく前から機能しているが、いまや人間主体は、いっそう徹底してそれらに適合するようにつくりかえられつつある」と看破した(『24/7:眠らない社会』岡田温司・石谷治寛訳、NTT出版)。クレーリーは、睡眠という「生物的な限界」を否定するわたしたちの社会のあり方に焦点を当てているが、重要な点は、そのような「生物的な限界」が「あたかも存在しない世界であるかのように」振る舞ってしまっていることだ。

これは働く側にもいえるかもしれない。心理的なストレス反応、あるいは風邪といった「生物的な限界」を抑え込み、「連続的な労働」が途切れることを回避するために、抗うつ薬や風邪薬といった生化学的なコントロールに頼ってきた。「生物的な限界」に屈することは社会レベルでは「経済的なロス」を意味するからだが、一方、個人レベルでは思いどおりにならない「生物的な身体」を「飼い馴らす」ことに執着する精神がある。

今回の新型コロナウイルスの感染拡大では、わたしたちが依存している「24時間・週7日フルタイム」の経済システムそのものが、ウイルスに感染して病床に伏す身体という「限界状況」を想定していないことを暴いてしまった。

新型コロナはわたしたちの社会を狡猾に利用し尽くす

わたしたちはつい最近まで自分たちが「か弱い生物」であることを忘れ、不意に「身体の壊れやすさ」に気づいたのではないか。流行の当初、解熱剤などを使って働き続けなければならない就業環境などが取り沙汰されたが、新型コロナウイルスは「生物的な限界」を科学的にコントロールしようとするわたしたちの社会を、むしろ狡猾(こうかつ)に利用し尽くす凶暴な存在といえるだろう。「生物的な限界」を織り込まない社会を放置すればするほど、わたしたちは自らをウイルス爆弾に変えることになる。

これは、制空権も制海権もないところに兵隊を送り込む軍隊のようなものだ。

かつて日本はロジスティクス(兵站)と「人命」を軽視したために戦争に負けたことを忘れてはならない。評論家の山本七平は、第2次世界大戦における日本の敗因を詳しく分析した著作の中で、「バシー海峡」(台湾とフィリピンの間にある海峡)の悲劇に着目した。当時の日本は、制海権のない海に数千人の兵員を満載した「恐怖すべきボロ船」を何十隻と送り込み、推定10万人もの人々がアメリカ軍の魚雷などの犠牲になったのであった。「忘れられた戦没者」とされる彼らは今も暗い海の底に眠っている。

人が、まるでベルトコンベアに乗せられた荷物のように、順次に切れめなく船艙に積み込まれ、押し込まれてぎっしりと並べられていく。そうやって積み込んだ船に魚雷が一発あたれば、いまそこにいる全員が十五秒で死んでしまう――。この悲劇は、架空の物語でなく現実に大規模に続行され、最後の最後まで、ということは日本の船舶が実質的にゼロになるまで機械的につづけられ、ゼロになってはじめて終ったのであった。(山本七平『日本はなぜ敗れるのか 敗因21ヵ条』角川書店)

山本は、戦時中の日本の指導部について、「明確な意図などは、どこにも存在していなかった。ただ常に、相手に触発されてヒステリカルに反応するという『出たとこ勝負』をくりかえしているにすぎなかった」と述べた。

経済システムが「なし崩し的に」容認され続ける懸念

筆者が最も懸念するのは、未知のウイルスがどれだけ蔓延して猛威を振るっても、「生物的な限界」を度外視した経済システムが「なし崩し的に」容認され続けることだ。政府は事業停止に伴う「膨大な損失(補償)」という経済リスクを恐れ、「通勤のための外出」に付随する生命や健康へのリスクを企業の問題にしたがり、多くの企業はそのような悪夢が待ち受けていることにあまり現実感を持っていない。不気味なことに山本は、「バシー海峡の悲劇はまだ終わっておらず、従って今それを克服しておかなければ、将来、別の形で噴出して来るであろう」と予言している。

わたしたちの社会があくまで「生物的な限界」に基づいた形で、未知のウイルスとの戦いに臨まないという悪手を打つのであれば、まさにその「非現実的」な振る舞いゆえに破滅へと突き進みかねない。