戦後最大級の未解決事件となった三億円事件が1968年12月10日発生して50年。半世紀の節目に、改めて事件の事実関係を確認し、強奪現場を中心に多摩の街を歩いてみた。その模様は、こちらの記事で伝えたとおりだ。


「府中刑務所といえば三億円事件」というイメージがある人も少なくないのでは

さすがに年月の経過は重く、重大事件が発生したという後ろ暗さを感じさせる寂しい場所はほとんど無かったが、そのような時代の隔絶がかえって事件の特異さを際立たせていた。

軍都・学園都市・熱い60年代

事件は多摩地域で盗んだ車を何台も使い、日本信託銀行の前に多磨農協に脅迫状を送るなど、計画的かつ多摩の地理・社会に長けた犯人像が推測される。いまいちど昭和時代の多摩の歴史をひも解くと、光と影が同居する色濃い過去が浮かび上がってくる。

戦前には立川一帯に飛行場や陸軍の施設が置かれ、軍都として発展した。現在シネコンやデパートが軒を連ねる立川駅北口周辺も、もとは軍事施設だった。軍都の影は戦後も消えず、陸軍の立川飛行場は米軍に接収されて1977年に返還されるまで米軍立川基地となり、砂川闘争の現場にもなり、朝鮮戦争やヴェトナム戦争の基地として機能した。

反面、戦前から少なくない数の大学や高等学校が開学・移転してきたため、学園都市の側面も持っていた。そして戦後には復興する東京のベッドタウンとして農村から急速に宅地化が進み、各地に団地が建てられていくが、60年代には住宅不足は未だ深刻。多摩ニュータウンですら入居が始まるのは1971年で、街づくりと住宅供給が一体になった計画的な土地開発が始まるのはまだ先の時代だ。

という訳で団地はいずれも高倍率で応募が殺到する人気ぶりで、今のデザイナーズマンションのような憧れの住まいだったと推測される。犯人の逃走車が4か月も放置されていた小金井市の団地もそのような団地の一つだ。


「団地」が持つニュアンスも半世紀でずいぶん変わった

つまり、学生や若い労働者と家族が住まう若い街であり、かつ軍事基地というアンタッチャブルな存在とも切り離せない関係だったのが、60年代の多摩というわけだ。

加えて、1968年といえばヴェトナム反戦運動や学生運動、反公害運動がピークに達しようという時代。今では少子高齢化、都心回帰で空洞化が懸念される多摩だが、当時はかなり熱い街であった。

そんな熱い時代のさなかに発生したのが三億円事件だ。

ニセの白バイを仕立てて警察官に扮し、しかも刑務所の目と鼻の先という場所で犯行に及んだ。ただの強盗事件ではない大胆で小説のような手口に、世間が興味をそそられない訳がなかった。沢山の遺留品が公開され、犯人のモンタージュ写真までマスコミで報道されればなおさらだ。それでも8年後に事件は迷宮入りした。

同じ手口でも、現代では容易に車を特定され逮捕されてしまうに違いない。もちろん捜査手法の進化などはあるが、それを差し置いてもこう思ってしまう。犯人が見事に逃げおおせたのは、こうした時代の空気が後押ししたのではないか――、と。

Jタウンネット編集部 大宮 高史