首都ワシントンでは3月24日、高校生が呼びかけた銃規制を求める大規模なデモが開かれた(写真:ロイター)

半自動小銃を購入したり、人目から隠して銃を携行したりする米国民の権利を擁護することは、気候変動に対する人類の責任を全否定することに似ている。そこではスジの通った議論など意味を持たない。

銃乱射事件でどれだけの子どもが犠牲になろうが、二酸化炭素排出と温暖化の関係を裏付けるどんな科学的証拠が提示されようが、米国の人々が考えを改めることはない。なぜならこれらはどちらも、自らが何者であるかにかかわる問題だからだ。

銃所有がアイデンティティの拠り所に

多くの米国人にとって銃所有は自らのアイデンティティの拠り所となっている。これにはもちろん歴史的背景がある。武器を所有し携帯する権利を保障する合衆国憲法修正第2条が採択されたのは1791年。その少し前に米国は英国からの独立戦争を戦っており、当時の米国民は圧政に直面した場合に備えて自衛する必要があると考えた。抑圧的な政府に対抗できるよう民兵として武装する、というのがそもそもの発想だ。

このようにして米国民という集団に与えられた銃を持つ権利は、多くの米国人にとっては個々人が有する天与の権利にも等しい存在となった。その傾向は特に地方や南部の州で強い。銃を取り上げられようものなら、こうした人々は自らの存在が文化的かつ社会的に抹殺されたと受け止めるだろう。

多くの米国人が抱くこのようなアイデンティティは、米国の国家イメージとは不思議と矛盾する。米国は移民が集まってできた国であり、共通の祖先や文化を持たない。そのため法律が国家的な基盤となっている。多様なバックグラウンドを持った人々をまとめ上げるには、法律による以外に方法がないからだ。修正第2条が法律であること自体、米国が法律の国であることの証しだ。慣行や伝統に重きを置く日本などに比べて、米国が訴訟社会なのも無理はない。

だが、「法律の国・米国」のイメージとは相反する、神話めいた国家アイデンティティにしがみついている人も多い。西部劇を思い浮かべてほしい。そこに登場する真のアメリカンヒーローとは、ボロを身にまとったガンマンであり、法に縛られず直観で善悪を裁くアウトローだ。西部の開拓地で悪事を働く黒服の悪党どもから庶民を守るジョン・ウェインが象徴だ。

では、黒いスーツを身にまとった悪者とは誰か。それは銀行の重役や法律家・経営者で、東海岸大都市を牛耳る大物たちの利益を代弁していることが多い。強面(こわもて)の“鉄砲玉”を従えてはいても、法律の世界や政府の側からやってきたのが黒いスーツの男たちなのだ。

米国人の神話的世界観

西部劇は大抵の場合、法の取り締まりが緩い牧歌的な世界を描いている。そこでは人々が完全な自治を手にしており、法を振りかざして介入してくる政府は邪魔な存在でしかない。西部劇のヒーローが従うのは、主が定めたもうた神の法律と自らの良心だけ。そして、それらを守り抜くためには何としても銃がいる──。

多くの米国人があこがれるそうした神話的世界観を、ほかのどの大統領よりもよく理解していたのがレーガン元大統領だった。俳優として数々の西部劇に出演した経験があるからだろう。「政府は問題の解決策とはならない。政府こそが問題だ」。レーガン氏が大統領就任演説でそう述べたのは有名だが、このとき同氏は西部劇に登場するガンマンのような口ぶりだった。

トランプ大統領は、そのレーガン氏をはるかに下劣かつ過激なやり方で模倣している。実際、トランプ氏はある種のアウトローで、政府の慣例などどこ吹く風だ。財界に奉仕する西部劇の悪党たちと共通する横顔も併せ持っている。

国としてのアイデンティティをめぐる文化的な争いで米国が二分されているとしたら、その両極端の最悪な部分──ガンマンの無法と都会の強欲──を不気味に体現しているのがトランプ氏だ。米国社会を引き裂く危険な分断を乗り越えるには、文化的対立に橋を架けられる大統領が必要である。だが、何ということだろう。大統領の座にあるのは、この任に最も不適格な人物なのだ。