LESS〜プラトニックな恋人〜:もう私を解放して…!抱き合えない恋人への、悲痛な叫び
今、東京の男女が密かに抱えている悩みがある。
恋人や夫婦間での、肉体関係の喪失だ。
この傾向は、未婚の男女においても例外ではない。
2017年冬、付き合って5年になる相思相愛の彼・健太からプロポーズされた美和子は、涙を流す。
ふたりの5年間に、何があったのか?
実は同棲1年が経つ頃から、ふたりは不完全燃焼の夜を境に“プラトニックな恋人”となっていた。美和子は思いをぶつけるが、レス問題は一向に解決しない。
過去を振り返るのは、もう終わり
まさかこんな時が来るなんて、想像もしていなかった。
健太と出会ったあの夏の日から、私の心に彼がいない日などなかった。
3年以上の月日を共に暮らした部屋には、至る所に健太との思い出が転がっている。
いま手にしているマグカップだってそう。これは付き合って間もない頃、ディズニーランドで盛り上がってペアで買ったものだ。
視線の先、テレビボードにちょこんと鎮座している小さなガジュマルの木は、同棲してすぐ、健太が会社帰りに嬉しそうに持って帰ってきた。…確か、恵比寿駅前のフラワーショップで見つけたと言っていた気がする。
「美和子との記念樹だよ」なんて言う彼に、「健太ってロマンチストだったのね」と笑ったっけ。
懐かしい思い出が、走馬灯のように頭をよぎる。
けれどこの時はもう、美化された記憶にさえ、私の決意を止めるだけの力は残っていなかった。
時計の針が22時を通り過ぎた頃、玄関が開く音とともに私は立ち上がる。
…過去を振り返るのは、もうおしまい。私は前を見て、生きていく。
決意を固めた美和子は、遂に健太に別れを切り出す
私を、解放してください
「ただいま」
ただならぬ気配を察したのだろう。
帰宅した健太は、リビングにいる私を認めると、着替えもせずにスーツのままテーブルに座った。
食事がまだのようだったから、私が冷蔵庫の残りもので急いでうどんを作ると、健太はありがとう、と言って食べ始めたけれど、さっきから全然減っていない。
普段は聞こえもしない、時計の針が動くカチカチという音が、嫌に大きく部屋に響いていた。
「健太…私、この家を出ます」
覚悟を決めて放った言葉は静寂を裂いて、向き合って座る私と健太の間で力なく漂い、はらはらと散った。
まるでドラマのワンシーンを見ているかのように、どういうわけか現実感がない。とても大切な何かを失う時、人は瞬間的に感覚が麻痺してしまうのかもしれないな、などと冷静に考える余裕さえあった。
しかしそんな私を、聞き慣れた健太の声が現実に引き戻す。
「…なんで」
明らかな動揺がわかる、上ずった声。
みるみる歪む健太の顔を目の当たりにして私は、あれだけ強固に決めたはずの覚悟がぐらぐらと揺らぐのを感じた。
「他に好きな奴ができたの…?」
やり場のない怒りを、必死で堪えているような言い方。
後から思えば、この健太の問いに、私はイエスと答えるべきだったのだろう。しかし微かに震える彼の声を聞いてしまったら、肩を落とし唇を噛みしめる彼を見てしまったら、そんなことは…嘘は、どうしても言えなかった。
「それは、違う…」
「それなら出て行くなよ!出て行かないでくれ、頼むから…」
私の言葉を、別れ話自体をかき消すように健太は大声を出し、最後は縋るような、絞り出すような声が響いた。
-過去に引っ張られてはダメ。前に進まなきゃ、はっきり言わなくちゃ。
頭ではそう思うのに、まったく言葉を紡げない。胸が締め付けられるように苦しくて、私は肩で息をするのがやっとだった。
すると健太はおもむろに立ち上がり、俯く私の手を取って、顔を覗き込む。
「俺は!…俺は、美和子がいなくなるなんて、考えられない。美和子が誰より大切だし、ずっと一緒にいたいんだ。これほど分かり合える相手はいないし、私たちは一緒になる運命だったんだって…美和子も言ってたじゃないか。そうだろ?」
痛いほど強く握られた手、私を何としても逃すまいとするまっすぐな瞳に、私の頭はひどく混乱する。
-こんなに、これほどまでに私を必要としているなら、どうして?
どうして、求めてくれないの。どうして、抱いてくれないの。どうして、どうして、どうして…!
「もう、やめて…!」
気がついたら、私は声をあげて泣いていた。熱い涙が頬を伝って、さらに頭が朦朧とする。
「離して…」
健太の手を無理やり剥がし、私はまるで子どもが駄々をこねるように叫んだ。
「もう…疲れた。悩んで、悩んで、悩み疲れて、私もう、何も考えたくない、考えられない!」
健太は、感情的になる私を呆然と見つめている。どうして私がこんなに激昂しているのか、まるでわからない、という顔で。
「お願いだから…もう私を解放してください」
「私を解放して」家を出た美和子が向かった先は…
一人ではいられない夜に
ロンシャンのバッグに必要最小限の荷物を詰めて、私は家を飛び出した。
健太と同じ空間にいると、せっかく決別したはずの過去にまた、足元を掬われそうで。
外は夜になるとすっかり冷え込み、家を出た瞬間は火照った顔に心地良くも感じた空気が、歩みを進めるにつれ次第に心もとなくなる。
別れ話は、もちろん初めてじゃない。過去に失恋も経験したし、彼氏がいない時期だってもちろんあった。
しかし、この時の私を襲ったのは、過去のそれとは比べものにならない喪失感だった。
もはや身体の一部のようにして、およそ4年間ずっと側にいた人と離れ離れになる。それはかつてないほどに心細く、身を切るような痛みだった。
居た堪れなくなって家を飛び出したものの、私はいったいこれからどこに行けばいいのか、どこに向かって足を進めればいいのかわからなくなるほどに。
恵比寿駅までふらふらと歩き、呆然と立ち尽くしてしまった私の頭に浮かんだのは、瀬尾さんだった。
最初から頼ろうと思っていたわけでは、断じてない。
ただ、こんな心細い夜を安ホテルでひとり過ごすのはやりきれず、それに彼なら、この状況を打破する答えをくれるに違いない、そんな気がしたのだ。
「美和子さん、どうしました?」
LINEの通話ボタンを押してから数秒で、瀬尾さんの声がした。忙しい人なのに、こういう場面を逃さず電話に出てくれる彼を、頼もしく思わずにいられない。
「私…あの、いま家を出てきたんです。それで、ホテルを取ろうと思うんですけど…」
言いながら、自分でもあまりに図々しく思えて口ごもる。しかし彼は私が遠慮する暇もなく、電話の向こうですべてを理解したようだった。
「そうですか。美和子さん、渋谷に向かってください。僕も仕事が終わり次第そちらに行きますから」
彼は自身の父親が経営するビジネスホテルの名を挙げ、私にそこのロビーで待つように告げた。
「はい…あの、ありがとうございます」
彼の迷いない口調に、私は心が安定していくのを感じた。とにかく私は、渋谷に向かえばいいのだ。行き先を教えてもらいさえすれば、私は一人でも歩ける。
「美和子さん」
通話を切ろうとした私を追いかけるように瀬尾さんに名を呼ばれ、慌てて耳を近づける。
「お礼を言うのは、僕の方だ。美和子さん、ありがとう。それでは、後ほど」
ありがとう、と言った彼の声が、耳元で優しく響く。
その言葉は、水分が枯れるほど泣いた私の身体に、染み入るようだった。
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ホテルで待ち合わせた瀬尾さんと美和子は、その後…?