東芝、三菱自動車……企業不祥事は「個人の理性」では防げない

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■一人ですべてを行えば間違いは起きない?

東芝の粉飾決算やら、フォルクスワーゲンや三菱自動車のデータ改ざんやら、一年に一度か二度は、大企業の不祥事が発覚している。そんな事件を知るにつけ、デカルトの言葉が頭をよぎる。旅先であるドイツ・ウルム市郊外の炉部屋(暖炉のある暖かな部屋)にこもり、デカルトはこんな思索に耽るのだ。

<たくさんの部品を寄せ集めて作り、いろいろな親方の手を通ってきた作品は、多くの場合、一人だけで苦労して仕上げた作品ほどの完成度が見られない>(『方法序説』谷川多佳子訳、岩波文庫)

「いったい、何の話?」と思って読み進めると、同じような例が次々と出てくる。建物は、何人もの建築家が古い建物をリフォームするより、一人の建築家が新しくつくるほうが壮麗だとか、偶然にできた大都市より、一人の技師が平原に線引きした都市のほうが整然としているとか。

さらに話は法律や宗教にも及ぶが、言いたいことは変わらない。要するに、一人の賢い立法者や唯一の神が、法や掟を定めたほうが、秩序のある集団になるというのだ。

前回(http://president.jp/articles/-/21692)述べたように、デカルトは、あっちこっちを旅して、先々で巡り会った人々が自分と反対意見を持っているからといって、彼らが野蛮でもバカでもないことを学んでいる。いわば、文化相対主義的な感覚を身につけたといっていいだろう。

が、それだけでは満足できかった。自国の文化と、他国の文化とでは行動習慣も考え方も違う。本を読んでも、哲学者が正反対のことを言っている。ならば、真理はどこにあるのか? 違いがわかるだけでは、真理には到達できない。

■企業不祥事は「頼りない集団的知性の極北」

そこで、先の思索とつながってくる。どれだけ見聞を広めても、真理はわからないのだから、一人でゼロから考えたほうが、真理に接近できるのではないか、と。

<結局のところ、習慣や実例のほうが、どんな確実な知識よりもわたしたちを納得させているが、それにもかかわらず、少しでも発見しにくい真理については、ただ一人の人がそういう真理を見つけだしたというほうが、国中の人が見つけだしたというより、はるかに真らしいから、賛成の数が多いといっても何ひとつ価値のある証拠にはならない>

他人の意見はアテにならない。頼れるのは、己の純粋な思考のみ。23歳のデカルト青年は、独力で哲学の原理を打ち立てることを心に誓った。その18年後、彼は、あらゆるものを疑い尽くした末に、疑う自分の存在だけは疑いえないことを発見し、「我思う、ゆえに我あり」という哲学の第一原理を宣言することになる。

話を戻そう。なぜ、企業の不祥事とデカルトの思索が関係するのか。

不祥事を起こした企業は、きまって質の悪い内集団バイアス、要するに身内優先のバイアスに染まってしまっている。そしてそれは、デカルトが批判の矢を向けた、頼りない集団的知性の極北にあるような事例だからだ。

企業不祥事は、三人寄れば文殊の知恵のどころか、悪だくみや隠蔽工作に転化してしまっている。ってことは、デカルトにならって、独力でバイアスを克服するべきなのだろうか。

近代西欧の哲学や思想は、おおむねそれを肯定するだろう。『方法序説』は、「良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである」という有名な一節から始まっている。誰もが、真偽を正しく見分けられる理性や良識を平等にもっている。でも、持っているだけでは不十分で、「大切なのはそれを良く用いることだ」と、自己啓発っぽいことをデカルトはいう。

理性万歳! 理性を正しく用いれば、偏見や思い込み、アホくさい因習は撃退できる。企業不祥事なんかありえない。近代の思想家たちにとって、一人ひとりに宿る理性こそ、人間最強の武器だったのだ。

■「自律した、理性的な個人」は幻想

このような「自律した個人」「理性を使って自己決定できる個人」という近代的な人間像は、いまとなってはもはや「神話」のごとく扱われている。なかでも、最近のベストセラー『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ、河出書房新社)は辛辣だ。近代の輝かしい成果と考えられているアメリカ独立宣言は、古代バビロニア帝国のハンムラビ法典と同様に「間違っている」というのだから。

<ハンムラビもアメリカ建国の父たちも、現実は平等あるいはヒエラルキーのような、普遍的で永遠の正義の原理に支配されていると想像した。だが、そのような普遍的原理が存在するのは、サピエンスの豊かな想像や、彼らが創作して語り合う神話の中だけなのだ。これらの原理には、何ら客観的な正当性はない>

いずれ『サピエンス全史』はじっくり取り上げようと思うので、今回は深入りしないが、程度の差こそあれ、「近代的な自律した個人なんてフィクションだ」という批判は事欠かない。この連載でも、人間はバイアスまみれだってことをさんざん説明してきた。

デカルトの「もし私が学問においていつか堅固でゆるぎのないものをうちたてようと欲するなら、一生に一度は、すべてを根こそぎくつがえし、最初の土台から新たにはじめなくてはならない」(『省察』井上庄七・森啓訳、中公クラシックス)といったフレーズは、何度読んでも痺れるものがある。

でも、この連載でやっていきたいのは、「デカルトを見習って、すべてを疑え」とか「ニーチェのいう超人を目指せ」といった類の自己啓発ではない。別に自己啓発本が嫌いなわけじゃないし、むしろけっこうな数の本を読んでいる。「嫌われる勇気」も持ちたいし、タスク管理を駆使して、テキパキ仕事したいとも思う。

ただ、企業不祥事のような問題に対して、「なぜ誰も止められなかったのか?」と個人の理性をアテにするのは無理筋だ。そのぐらい、個人の理性は心もとないと踏んだほうがいい。

しかも集団となれば、バイアスの罠がそこらじゅうに仕掛けられている。その罠に引っかからず、「三人寄れば文殊の知恵」にするにはどうしたらいいだろうか。次回は、そんなことを考えてみたい。

(斎藤哲也=文 宇佐見利明=撮影)