岩井俊二のレンタルDVDがなかった2012年


藤田 岩井俊二監督の長編映画の新作『リップヴァンウィンクルの花嫁』が公開されました。これは『リリイ・シュシュのすべて』(2001)年以降の最高傑作だと思われますが……この15年で、岩井俊二についての世間の理解が随分ズレたなぁ、と、ショックを受けています。

飯田 というわけでこの記事では岩井俊二うんちくを語りながら『リップヴァンヴィンクル』の観方・楽しみ方を掘り下げていこうと思います。岩井さんはひとことで言うと、テレビやPV出身の映画監督なんですが、自分で劇判の曲もつくるし、ノベライズも書く。絵コンテはマンガみたい(『花とアリス』はマンガみたいにコマ割りした絵コンテが発売されている)で、つまり絵心もある。絵に描いたようなマルチクリエイターですね。
作風を一言でいうと、『リリイ・シュシュ』が典型だけど、音楽を聞いて歌詞の深読みとかって中高生のころはするけど大人になるとなかなかしないじゃないですか。ああいうポエミーな感性を極めに極めて高みに持っていっている、という感じでしょうか。

藤田 思春期にちょうど『リリイ・シュシュ』を見ました。あの前後に岩井俊二はスマッシュヒットを連続していて、自主映画などで岩井俊二に影響を受けた人がいっぱいいるぐらいメジャーな存在だったのに、最近はそうではない。少なくとも、渡米してからの日本での影響力は、今作までは弱まっていたと考えてよいと思います。
 象徴的なのが、『ユリイカ』の岩井俊二特集に書いたとき受けたショックなんですが…… 当時、レンタルDVDが全然店になかった。で、新宿とか渋谷のTSUTAYAに行って、ビデオテープで借りてきてみるハメになって。あれには相当ショック受けましたよ。

飯田 そうそう。2012年ですね。代表作の『スワロウテイル』がなかったんだよね。今はあると思うけど。

藤田 あの時期に一世を風靡した作家が、現代の若者にとっては、知らない作家になっている。今では、芸術っぽい、カルトっぽい、高尚な映画監督、と思われているかもしれません。あんなにメジャーだったのに…… 歴史というのは、こういうものなのかと、30を超えて思い知りました(笑) 今はDVD、新しいのが出回っていますが。

飯田 90年代はどんな田舎のビデオ屋にも岩井俊二コーナーがあった。僕も高校時代、青森のロードサイドのビデオショップ(GEOかな?)でひととおり借りて観た記憶があるし、クラスに数人レベルで知ってたよね。まあ『打ち上げ花火 下から見るか? 横から見るか?』のことを「奥菜恵が出てる作品」程度の認識なんだけど、それでも岩井俊二という固有名詞は相当知られていた。今でも日芸(日本大学芸術学部)に行くような一部の若者にはカルト的に支持されているようですが、かつてよりはずいぶん減ったと。

『リップヴァンウィンクルの花嫁』は90年代と離別していく映画


飯田 岩井俊二の長編第一作『Love Letter』(1995)なんて韓国でも大ヒットしたわけで、90年代のアジア圏ではウォン・カーウァイと並んで(?)有名だったはず。

藤田 『Love Letter』が韓国で大ヒットしたおかげで、舞台になった小樽には観光客がいっぱい来ていました。『Love Letterのおかげで、ぼくは「北海道出身」というと、韓国人にウケがいいので、恩恵にあずかってますw
 なんか、『エヴァンゲリオン』とかと、同時代的な共振をしているような、時代精神を担っていたような作家だった印象を持っています。庵野さんの実写映画『式日』に岩井監督は役者で出ていますしね(ちなみに、ヒロインは、スティーヴン・セガールの娘さん)

飯田 そうね。そのあと渡米して向こうで『ヴァンパイア』とかを撮ったり、311のあとに反原発のドキュメンタリー映画『friends after3.11』を撮ったり、眉村卓原作のリメイクドラマ『なぞの転校生』を撮ったりしていたので、『リップヴァンヴィンクル』は久々に昔の、というかいつもの(?)岩井俊二の映画を観たなあという感じがした。
 役者として歌手で絵本作家のCOCCOが出てきて、ああいう結末を迎えますが、90年代がそういう結末に至った感がある。主役の黒木華と綾野剛は2010年代感があるけど、COCCOは90年代の象徴と言ってもいいでしょう(COCCOは2001年にいったん活動休止をしている)。
 それと、黒木華の旦那役の男(地曳豪)、岩井俊二の『四月物語』(1998)にも出てたでしょ? 大学のクラスメイト役で。大学の教室で自己紹介するシーンにいたよね。
 つまり、90年代と離別していく映画なんですよ。

藤田 ああ、そういう映画として観れるかもしれませんねぇ。リップヴァンヴィンクル=COCCOのハンドルネームですからね。彼女の醸し出している、消費社会的な空虚感も、90年代っぽいかもしれないですね。

飯田 「ウソつき」は『花とアリス』、ハンドルネームを持った存在は『リリイ・シュシュ』、水槽は『FRIED DRAGON FISH』とか、過去の岩井作品のモチーフを総決算的に使い倒しているのも本作の特徴で、それも懐かしさなしには観られなくさせていますよね。過去の岩井ファンからすると懐かしい感じがすると同時に、それが終わっていく感覚も覚えるという。

藤田 タイトルなんですが、「リップ・ヴァン・ウィンクル」っていうのは、ワシントン・アーヴィングっていうアメリカの小説家の短編で、「アメリカ版浦島太郎」と呼ばれている作品のようですね。だから、このタイトルは、そういう自分の立ち位置を自覚して作っていることを示しているのかもしれませんね。
 90年代、そして渡米、という、二つの距離を挟んで、時代遅れになってしまったという目線から311以後の日本を見れているのが、本作の成功の重要な要因なんじゃないかと思うんですよ。
 311の「中に」いながら作ったりする視点とはちょっと異なっていて、「外から」見ている感じがする。『friends after 3.11』で、ネットで知り合った友人たちにインタビューする社会派ドキュメンタリーを撮った延長にもある感じがしますね。
 もうひとつ、リップヴァーン・ウィンクル中尉っていう人物が、平野耕太『HELLSING』に出てくるみたいで、これは女吸血鬼。後半のパートが『ヴァンパイア』を踏襲してホラーの雰囲気を若干漂わせているのは、意識的でしょうねぇ。
 飯田さんの話を受けて考えれば、90年代から延命を続けてきたヴァンパイアが、現在の生き血を吸って、一緒に「世界の終わり」に巻き込んじゃおう的な話にも見えるかもです。

飯田 90年代は終わっても「世界の終わり」モチーフは生きつづけ、くりかえされる……。
過去作との連続性と言えば、COCCOって本人はバレリーナになりたかったんだよね。『花とアリス』がバレリーナものだから、つながっている感じがするし、岩井作品ってなにげに売春モチーフが多くて、『スワロウテイル』も『リリイシュシュ』もそうで、今回はAV女優が出てくるから広い意味ではやっぱり売春で、そのへんの多層的に過去作を重ねてくる感じ、文脈を積んでくる感じはさすがですね。

藤田 売春のモチーフが匂わせられることで、映し出されているヒロインに対する観客の欲望と心配を同時に掻き立てる、まさに岩井俊二的なサスペンスのテクニックですよね。
 援助交際などのリサーチをしていた宮台真司氏が「半世紀に一本の傑作」と言ったらしいですが、その辺りは関係してそう。感情や思いを「金銭」で代替するとか、必ずしもそれが悪い結果を生まないとか、AV女優の死を描くこととか、「映画」と「女優」の関係そのものへの葛藤も入れ込まれている感じがしましたねぇ。ちょっと、倫理的なアリバイっぽく機能する部分もありそうな気もしますが。

「水に流す」ことと「ウソとホント」


飯田 むかし「ユリイカ」岩井俊二特集号にも書いたけど、岩井作品では、水が、それまでの見えない拘束や緊張を、関係を押し流すのが特徴なんですね(ちなみにCSの「日本映画専門チャンネル」の岩井俊二特集で、その原稿が引用されたことがあります。"岩井俊二は「見えないもの」と水の作家である。"という一節です)。
『四月物語』でも『花とアリス』でも、ストーリー展開上、重要な場所ではきまって大雨が降り、緊張がほどける。『FRIED DRAGON FISH』では水槽に手を入れ、『undo』では女がシャワーで濡れ、『PiCNiC』のココは水辺で死に、『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』ではプールに入る。『リリィ・シュシュのすべて』では南海での経験によって星野が生まれ変わり、それまでのいじめっこは泥田でずぶ濡れにされる。『friends after 3.11』は、津波のあとの東北に、キャメラを向けた。インビジブルな(見えない)秩序――ウソや強迫観念など――を書き換えるのは、つねに水の流れでした。今回は水槽の中の毒を持った生き物とその後の焼酎一気呑みという二段構えで"水に流す"カタルシスが用意されていた。
 ババアと綾野剛と黒木華で酒をびしゃびしゃになりながら呑むことで、ウソの関係が清算されると。

藤田 「水に流す」(津波)ことの悲惨を、『friends after 3.11』で撮ったあとに、これ、ってのが重要ですよね。

飯田 『リップヴァンヴィンクル』って前半はウソでひどい目に遭うけど、後半はウソでいい思いをするという構成の映画で、それを311映画を撮ったあとに撮っているのがポイントだと思います。反原発的には普通だったら「ウソなんてダメ、絶対」でしょう。でもこの作品では「ウソが幸福を生むこともある」ということを描いている。

藤田 綾野剛が作り出す、インターネットの薄いつながり、怪しい関係性それ自体が、善か悪かがよくわからないというか、ギリギリなところなのも凄いんですよ。客観的に観たら、お金目当てで、悪いこととして「関係性」を再編成してお金にするんだけど、それが良い結果に繋がった部分があるというのがすごくて。
 結果的には、「本物の愛」や「友達」を経験したわけですよね、ニセモノやウソに囲まれて、導かれて。すごい不思議な話だなと思いました。いつ転落してもおかしくないギリギリでそれが回避されていく。その理由もはっきりしないものが多くて、偶然かもしれない。

飯田 綾野剛のキャラはサイコパスっぽいよね。昔の岩井作品と違うのは、狂気を感じさせるキャラではないわけです。サイコパスは口がうまくて、他者を利用したり搾取することに罪悪感を感じないけれども(不安や恐怖、共感性が欠落している)、理性的な存在です。90年代の岩井作品にはそれこそ宮台真司言うところの「脱社会的存在」(キレる17歳的なキャラとか、偏執狂的なやつとか、暴走して何をするのかわからないタイプ)が出ていて、それが時代性を感じさせもしていた。でも今は「口八丁手八丁で何が本当なのかもわからないし、良いやつなのか悪いやつなのかもわからない人物」のほうが時代に合っているのかもしれない。

藤田 「本当か嘘か、善人か悪人かわからない人物」は、同時代的な感じがしますよね。そういう情報や発信者ばかりになった時代ですからね。
『リリィ・シュシュ』の悪いやつの場合は、もうちょっとわかりやすかった。わかりやすく「心の闇」があった。それとは大違いですね。

飯田 再びむかしの宮台ふうに言えば綾野剛のキャラは「ネタかベタかメタかよくわかんない」みたいな感じですか? 黒木華のほうは「不安そうで幸が薄そうなおとなしい女」という岩井映画によく出るタイプそのままだけど、振りまわす側のまわりの人物配置が過去の作品からは変わっている。

藤田 黒木華は、ぼくは、COCCOと会う前までは、「バカすぎるだろこいつ、用心なさ過ぎるだろ」と思って、イライラしながら見てしまったw ゼロ年代以降の「サバイブ感」に自分が慣れすぎているっていうことを反省しましたよ。
 彼女は、凄く演技がうまいし、クライマックスの笑顔とか、ありえないぐらい綺麗に撮れていて、嘆息しました。世界的な賞をいくつも受賞している女優さんなだけあります。

メンヘラ像とAV像が古い?


藤田 『ヴァンパイア』では、他人の血を吸って生きていくことの哀しさを表現していました。吸血鬼なのに、弱弱しくて、輸血を飲ませてもらうような像を描いていて、ぼくは結構好きな作品でした。今作ではそのような「搾取者」として、AVのプロダクション、綾野剛、そして監督である岩井俊二、観客などが、隠喩的に想定されていると思うんですが、『ヴァンパイア』の内省のあと、すこし別次元に吹っ切れた感じがしますね。

飯田 でも「メンヘラで病気持ち」みたいなAV観が古い! 中村淳彦『AV女優』などを読むと、今の競争率が高く、(少なくとも表向きは)クリーンで容姿のよさも愛嬌も人並み以上のものが求められ、そうじゃなければそもそもAV女優になることすらできない今のAV界では、『リップヴァンヴィンクル』的なAV女優は存在しえないでしょう。
 中村本には、今のAV界では昔と違って、精神が弱い人間はAV女優になれないか、なっても長く続けられずにすぐ辞めていく、みたいなことがハッキリ書いてあるから。メンヘラにはムリだって。

藤田 メジャーになるAV女優はそうかもしれないですが、素人モノとか企画モノとかで使い捨てられている子たちには、精神のトラブルを抱えている人がいるケースもあると思いますよ。

飯田 だから長く続けられないわけでしょう。さらに言うとAV女優はデビューしたあとは基本的に価値=ギャラが下がり続ける(人気が落ちていく)宿命を背負った存在だと中村本でも明言されていたわけで、それを考えると『リップヴァンヴィンクル』に出ているような、長年やっていて、かつ、おそらくそこまで人気のないだろうAV女優があんなにカネを持っているのはありえない。病気でガリガリになっているのであれば、なおさら。

藤田 彼女の設定には、90年代後半からゼロ年代の、純愛ブームとか、美少女ゲームなどの難病モノのブームの名残を感じました。 それらと同時代的に共振したから爆発的にヒットした、あるいは、時代を作った。それを反復しながら同時に葬る儀式でもあるようでしたね。最後にするのは「結婚」でもあるわけだから、両者が止揚されたと考えてもいいのかもしれない。
 これだけソーシャル感を出してきて、多様な人間関係が描かれていても、究極のところ、本作は純愛モノなんですよね。

飯田 純愛というか、百合?

藤田 百合の純愛。
 別種の夫婦のありかた、家族のありかた、友達のありかたを提示する作品………と見るのが、生産的な感じがします。「絆」の別種のあり方を示す、というか、多様なあり方を示すというか。そうすると、311以後へのメッセージとしても、理解しやすい。

飯田 ヘテロだったはずの黒木華がCOCCOと平気でキスしちゃう感じはよくわからない。COCCOも何がしたいのかはわからない。作中で語られるあの動機だったら別にふたりでウェディングドレス着る必要はないし。絵的には――映画としてはいいけど。

藤田 ジェンダーの区別については、現実の世界でも、ツイッターなどを見ていても、どうも緩やかに崩れてきている傾向を感じるので、そこは違和感なかったです。
 あのシーンは、本物の愛が発生した瞬間にぼくには見えました。そして、死と接近する性と愛の究極を、映画が描いたと見るべきでしょう。川端康成とか三島由紀夫が描いたような、死と裏表の極限的なエロスで、純愛と性愛の極限的な形を映画が提示したと思います。ぼくはあそこの一連のシークエンスは、圧巻だと思った。まぁそれは、観てくださいって感じですね。岩井俊二健在なり、ですよ。