ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんによる対談。『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』について語り合います。

藤田 ザック・スナイダー監督の『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』は、バットマンとスーパーマンの対決モノですね。最近、ヒーローが共同で何かしたり敵対する『アベンジャーズ』や『キャプテン・アメリカ』などの作品が流行していますが、それのバットマンとスーパーマンのバージョンですね。
 巷では、話が輻輳(ふくそう)しすぎて追えないとか、「こいつ誰だよ?」って展開になって前知識がないと置いておいていかれると不評なんだけど、ぼくはそれがいいと思った。もはやろくに把握できなくなっているこの世界そのもののようで。
 ザック・スナイダーは『ウォッチメン』でヒーローの内ゲバを描き、今作では、911以後のヒーローの相対化をしたクリストファー・ノーランの『ダークナイト』の影響を本作で公言していますので、911以後に増えた「正義」の相対化のパターンの作品ですね。
 スーパーマンの登場は、満を持してというか。スーパーマンって、能天気で楽天的なヒーロー像で、一番バカっぽいですよね。それが、このドロドロの「正義」の相対化の地獄に落ちてくるというのは、それだけで実にそそられます。

飯田 というわけでここではスーパーマンのコネタを語っていきたいと思います。
みんな思うことですが、スーパーマンと言えば、パンツにマントのマッチョという変態にしか見えない姿で、胸にSマークですよ。名前が「スーパーマン」で胸に「S」って、あだち充先生の『タッチ』で達也がちっちゃいころに「T」って入ったトレーナー着てるのと同じくらいやばいですからね。あと目からビームを出すわけですが、あれも絵面的には相当ださい。ただザック・スナイダー版はあの赤・青・黄の原色全開カラーじゃなくて明度をだいぶ落とし、さらには能天気さも皆無にして「強大な力を持つものは周囲を危険にさらす」に始まり、ものすごーく重々しくすることで、だささを消している。

藤田 過去の(特に1978年の映画版の)スーパーマンは、善人で、強くて、人間思いで、愛する人を助けに行くわけですが、それが相対化されているのは面白いですよね。愛する人を助けにいったら、周辺に被害が出て、別れ話になりかけたり、議会に呼ばれたりするって。

飯田 スーパーマンはクリプトン星から地球にやってきた遺児ですが、言ってみればその「移民」こそが「世界を救う」という話で、モンロー主義(他国との相互不干渉)を脱して「世界の警察」と化した20世紀アメリカそのものな造形だったわけですけど、その「正義」自体がいまや相対化されていますからね。スーパーマンだってそうならないと。

藤田 対して昔のスーパーマンが、どのぐらいツッコミどころが多い作品かというと、『スーパーマン』で愛する人が地震に巻き込まれて死んでしまったあと、スーパーマンは地球の周りをぐるぐる凄いスピードで回って地球を回して、時間を巻き戻して死ぬ前に戻しちゃうw 
 これだけだったら「愛の力は偉大だ」で済むんだけど、IIと同じ監督が撮った続編の『III』では、ここまでして救ったヒロインと別れてますからね。なんだったんだっていう。

飯田 1980年代にはソ連のアフガン侵攻を防ぐためにイスラム勢力に武力支援していたのに、のちにその人たち(アルカイダ)に911テロを起こされたら手のひら返しで殲滅しに行くアメリカっぽい気もしますが……。

ラーメン大好き小池さんがスーパーマンになって大虐殺!?



飯田 スーパーマンであるクラーク・ケントはふだんは新聞記者で、それもあからさまに「民主主義の啓蒙者」「正義と真実の告発者」の比喩だったわけですが、しかし、いまや(アメリカの)新聞が公正明大だなんて誰も思っていないと。

藤田 映画の中でも、今では昔と違って新聞は、公器として機能しないという発言がありましたね。
 正義の相対化の問題は、かつてはギャグとして扱われていました。ぼくが好きなのは、あまり評価が高くない『スーパーマンIII』(1983)なんですよ。これが重要なのは、スーパーマンの正義の相対化がやられているってことなんですよ。悪い物質のせいだっていう設定はあるんですが、スーパーマンがメンタルを病んだり、アル中になったり、悪いやつになったらどうするかという問いをやっている。コメディとして扱われることが多いんですけど、『ダークナイト』的な深刻な問いは既に問われていたんで。
 同じ問題を扱った短編では、藤子・F・不二雄の『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』はもっとヤバイですw これは、ラーメン大好き小池さんの顔をした「句楽兼人」という超人が、自分を正義だと思い込んで、大量殺戮して、批判者も殺し、自衛隊や軍隊もボコボコにして独裁者になるという話です。911以後に「正義」「ヒーロー」の相対化は、シリアスなトーンでエンターテイメントとして作られるようになってきましたが、それ以前から、半ば「ギャグ」や「コメディ」の形で問題提起自体はされていたんです。

飯田 ただ……スーパーマンを好きになれるかというと、個人的には好きにはなれないですね、僕は。がんばってもがんばっても、アメリカの夜郎自大で自意識過剰なところが拭いきれていない感じがして。

藤田 昔のスーパーマンはどうですか?

飯田 それこそギャグとしてしか見られない。子どもは好きそうだなって思うけど。

藤田 なるほど(笑) ただ、今回は、そういう夜郎自大な存在に挑戦するわけですよね、バットマンたちが。スーパーマンのイチャモンのつけ方も面白くて。「バットマンは法律違反してるじゃん」みたいな。
 これ、飯田さんの比喩に従えば「世界の警察」に空爆とかをされて横暴に苦しんだ中東の人たちの怨念がバットマンに投影されているように、見えなくもない。

飯田 そうそう。バットマンとかスパイダーマンのほうが断然好きですね。異形っぽいほうがいいのかも。ただ、スーパーマンと同じくど真ん中ポジション(?)のはずのキャプテン・アメリカとかX-MENのサイクロップスはきらいじゃないから、スーパーマンは特別ださいと感じているのかも。

藤田 バットマンとスパイダーマンには、人間くさいところがありますね。今回のバットマンは、科学で背伸びしている人間という感じ。同じく科学で背伸びしているアイアンマンはもっと楽天的ですが、バットマンは陰気。

日本で言うなら、「アンパンマンが悪に堕ちる」


飯田 今に即してスーパーマンをシリアスに描くならシリア難民ポジション(クリプトン星から逃れてきた設定を活かす)か、イスラーム国的な「狂信的でストイックで本人は正義感に燃えているがはたから見るとすげえ迷惑」ポジションかだろうと思うんです。どちらかと言えば今回の映画は後者ですかね……。

藤田 そういうやつを止めようと思う人が作品の中に何人も出てくるのは、それなりにリアリティがあるわけですね。笑ったのは、スーパーマンに抗議デモが起きたり、議会で証人喚問みたいなのをされるでしょう。なんか、民主主義の問い直しやデモが各地で起きている時代の作品だと思いましたよ。
 完全無欠な「正義のヒーロー」が、民衆たちによって「死ぬ」。神がいなくなってしまう。そういう時代に、どうやって正義を再構築するか。
 サブタイトルは、邦題だと「ジャスティスの誕生」だけど、原題だと「Dawn of justice」なんですよね。これは、ザック・スナイダー監督がかつて撮った出世作『Dawn of the dead』を明らかに意識しています。これはロメロの『ゾンビ』のリメイク作品なので、justiceは既に、昔と違って、既に死んでいるけれど、ゾンビのように生き続けさせなければならないという意図も読み込むことは可能かもしれません。

飯田 でもそういう正義の問い直し、正義の再構築ってわりとくりかえし(日本でも)やられてきたテーマであって……。

藤田 確かに平成仮面ライダーがよくやっていたことですよね
 日本で言えば、アンパンマンが悪に堕ちたり、やられたりするショック感かもしれないw

飯田 そうね。というか石ノ森章太郎とか永井豪は昔からやっていますよね。

戦勝国と敗戦国の違い?


藤田 戦勝国と敗戦国の違いというのは、ひとつありそうですね。
 日本では『ウルトラマン』というヒーローがいますが、どちらかといえば、破壊と怨念みたいな『ゴジラ』の方が世界的な人気キャラクターになってしまった。
 平成以降は、仮面ライダーのような等身大のヒーローが人気になった。怪獣は復活の兆しがあるけど、『ウルトラマン』はどうなんだろうか。

飯田 『ウルトラマン』はいま「ヒーローズ」で連載していて累計150万部以上売れているマンガ『ULTRAMAN』(原作:清水栄一、作画:下口智裕)が明らかに『ダークナイト』以降のヒーローものをやっていますね。もちろん、戦勝国のアメリカでも何度も問い直されてきたことだと思いますけども。

藤田 しかし、ハリウッドの大作で、アメリカの楽天的なヒーロー観を相対化する作品が出てきた(『ダークナイト』や『アベンジャーズ』などでずっと続いている)のは、アメリカもちょっと反省してきているというか、内省的になってきた現われではないかと思うんですよね。911以後の、自信喪失が明らかにある。
 トランプ氏とかが大統領になったらまた変わるかもしれないですが。どうもトランプ氏は、現代のハリウッド映画のキャラクターよりも「うそくさい」キャラクターのようで、ああいう人物の人気が高まるというのは、逆説的に、アメリカの自信喪失の反映ではないかと思うのですよね。

飯田 ただ、ベトナム戦争のときからアメリカの正義は疑問視されてきたと思うんです。つまり半世紀くらい前からそうだったはずなんだけど、レーガンやトランプみたいなイケイケのやつも出て来ちゃうのもまたアメリカである、と。戦争帰りでPTSDで病む兵士と、日本人からするとカラ元気にしか見えないマッチョな金持ちや政治家が同居できるのがアメリカなんじゃないでしょうか。

藤田 「反省して苦悩しているから」ってのが、おかしなことをやっちゃう正当化のアリバイとして機能している部分もなきにしもあらずなんですよね。
 レーガンは「スターウォーズ計画」とか本気でやったでしょうw すごいですよね。アメリカの、政治と映画の関係は、何かややこしい感じのねじれがあって、非常に面白いものです。

飯田 そうね。そういうねじれを見ていくのはおもしろい。スーパーマンはヒーローの典型だからこそ、そのねじれももっとも端的に表れる、と言っていいのかもしれません。

藤田 一連のヒーローの内ゲバものは、勢力もたくさんになって謀略だらけで複雑化していて、すごいので、何か興味深いことが起きていると思います。複雑すぎるし、早すぎる。こんなのがブロックバスター映画で作られ続けているのは、普通ではないですよ。