「あさが来た」ピストル薩摩藩士五代友厚は、大阪で何をしていたのか

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先週よりNHKで放送が始まった連続テレビ小説「あさが来た」は、明治から大正にかけて活躍した実業家・広岡浅子の生涯を下敷きにしている。もっとも、波瑠演じるヒロイン・今井(のち白岡)あさは、名前が変えられていることからもうかがえるように、あくまで架空の人物。ドラマは事実あるいは原案となる古川智映子『小説 土佐堀川――広岡浅子の生涯』の内容を踏まえながらも、かなり脚色されている。


そのなかにあってほぼ唯一、実名で登場する歴史上の人物がいる。それがディーン・フジオカ演じる五代才助、のちの五代友厚(1835〜85)だ。あさと深くかかわることになるであろう五代は、第1週にさっそく登場した。

あさと五代と最初の接触は、京の両替商の娘であるあさが父に連れられて大阪(当時の表記では大坂)へ許婿に会いに行ったときのこと(9月30日放送の第3話)。初めて訪れる大阪の街にはしゃいで一人駆け出したあさは、逆方向から走ってきた若いさむらいとぶつかってしまう。そのさむらいこそ五代だった。その際、五代の持っていたピストルがあさの着物の袖のなかに入ってしまう。やがてそのことに気づいた五代があさを追いかけまわすという、とんだ初対面だった。

このあと、五代はピストルを奪い返し、そのまま立ち去ろうとするのだが、あさはどうにも釈然としない。そこでふたたび五代の前に立ちはだかり、「勝手にぶつかってきて追いかけてきて、何やベタベタ触ったうえにそのまま何も言わずに逃げてしまうなんて、それが日本男児のすることですか」と啖呵を切る。

商家の娘が武家に物言いするとは当時としては無謀だが、五代は14歳も下のあさを怒るどころか「もっともな言い分じゃ」と感心し、素直に謝るのだった。この場面からは五代が、たとえ相手が少女であろうと、筋が通っていればその言い分を受け入れる柔軟な考えの持ち主であることがうまく表現されていた。

それにしても、あさとぶつかったとき五代は何をあわてて走っていたのか。彼のセリフによれば「人に追われとったじゃ。それに上海行きで気がせいておったのかもしれん」というのだが……。

長崎にいたはずの五代が大阪に来た理由


ここであらためて確認しておくと、劇中であさと五代が遭遇したのは1861年(文久元年)のことだった。ペリー来航から8年後、その前年の1860年(万延元年)には、開国して諸外国との交易を推し進めていた江戸幕府大老の井伊直弼が、水戸浪士らに暗殺されている(桜田門外の変)。まさに幕末の動乱期だ。そんな時代、五代は何をしていたのか?

のちに大阪の発展に大きく貢献する五代だが、じつはこの当時はまだ大阪に住んでいたわけではない。薩摩藩士である彼は、これより前、1857年(安政4年)に藩の命を受けて長崎に留学し、幕府の海軍伝習所で学んでいる。海軍伝習所では勝海舟をはじめ、勝と同じく幕臣でのち政治家・外交官となる榎本武揚、日本海軍の創設者の一人である川村純義、日本赤十字の創始者である佐野常民など幕末・明治期に活躍する人々と一緒になった。グラバー邸にその名を残すイギリス商人、グラバーともこのころからの付き合いだ。

五代はその後1868年(慶応4年・明治元年)に新政府に出仕するまで、途中、薩摩への一時帰国や海外視察の期間を挟みながらも、10年近くものあいだ長崎ですごすことになる。この間、伝習生から薩摩藩の御船奉行副役(そえやく)、さらに御納戸奉行格の御用人席外国掛(がかり)を務めた。


あさと出会ったときも長崎に駐在していた五代が、なぜ大阪にやって来たのか? キーワードはやはり「上海」である。「あさが来た」第4話(10月1日放送)では、あさたちが姉・はつの嫁ぎ先である両替屋・山王寺を訪問中、店頭に五代が現れ(あさにとってはこれが二度目の対面)「上海で買いつけた船の代金の用立てを頼みたい」と申し入れていた。これは史実を踏まえたものである。実際にこの翌年、1862年1月に五代はグラバーとともに上海に渡り、薩摩藩のため約4万両で汽船一隻を購入している。

五代はさらに同じ年の4月にも、幕府船・千歳丸(ちとせまる)でふたたび上海に渡っている。この航海は幕府が上海と直接貿易を行なうにあたっての市場調査を目的としていた。五代はこの上海行きでも汽船を買い入れたとする文献もあるが、いまひとつ信憑性がなく、結局このときは買わなかった可能性が高い。なお、このとき五代は長州藩士・高杉晋作と同船し知己を得ている。

志士たちとの交流、そしてヨーロッパへ


五代は高杉だけなく、多くの幕末の志士と交流した。ちょうど薩摩藩は財政再建のため、藩と藩のあいだでの貿易(藩際貿易)を長崎での外国貿易と結びつけながら拡大しており、五代はそれに従事していた。それゆえ同じ薩摩藩の大久保利通や西郷隆盛はもちろん(「あさが来た」第4話でも五代が大久保と酒を酌み交わす場面があった)、他藩の実力者と会う機会も多かったのだ。

のち1866年(慶応2年)には薩摩と長州による「商社」の設立が坂本龍馬の周旋で進められ、五代はその契約のため長州の木戸孝允らと下関で会っている(計画自体は頓挫するが)。また、証明する史料は残ってはいないものの、長州の伊藤博文や井上馨、肥前(佐賀)の大隈重信・副島種臣・江藤新平らとも長崎で接触の機会はあったものと考えられるという(日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料』第4巻)。こうした交流関係を描くだけでドラマが一本できそうだ。

「薩の五代」の名は志士たちのあいだに知れ渡り、その開明的知識は高く評価されていたという(宮本又郎『企業家たちの挑戦』)。そこには長崎で学んだことももちろん大きい。日本史学者の大久保利謙(大久保利通の孫)は、《長崎遊学で、青年五代はまず西洋海軍の威力を知った。同時に幕府がそれを積極的に採用しているのを見、またそれを推進する幕府の開明官僚にも親しく接触した。これは五代をして攘夷の愚かしさと無力さ、また無謀な抗幕運動の非を悟らしめたであろう。そして、この覚醒が五代の頭をして開国貿易、富国強兵へと向けしめたことは疑いない》と書いている(『幕末維新の洋学 大久保利謙歴史著作集5』

それ以前、父親が薩摩藩お抱えの儒学者であったことから、開明派として知られた藩主・島津斉彬の薫陶を幼少期より受けていたことも見逃せない(幼名の才助も斉彬の命名だという)。少年時代にはこんなエピソードも残る。

それは父が斉彬より外国で買った世界地図の模写を命じられたときのこと。このとき父は14歳だった息子の五代に地図を2枚写させた。そして1枚は斉彬に献上、もう1枚は自分の書斎に掲げ、さらにはこれを参考に直径60センチあまりの絹製の大地球儀までつくったという。五代少年は日々地図や地球儀を眺めながら、日本と同じ小国であるイギリスが隆盛をきわめていることに、わが国もかくあるべしと銘じていたようだ(宮本又次『五代友厚伝』)。彼が早くから開国を主張していたのも納得である。

さて、10月3日放送の「あさが来た」第5話では後半、1865年(慶応元年)を迎え、成長したあさが登場した。これより前、五代は1863年(文久3年)の薩英戦争で捕虜になるという苦難を経てますます富国強兵論、攘夷批判を強め、藩にイギリス・フランスへの留学生派遣を上申している。そして1865年には留学生を引率してイギリスはじめヨーロッパ各国を歴訪し見聞を広めた。

「あさが来た」第1週では、商人に頭を下げることに愚痴をこぼしていた五代だが、次にドラマに登場するときには、きっと欧州視察を経験して一回り大きくなっているに違いない。
(近藤正高)