いまや日本代表にとって不可欠な存在となった本田だが、その原点には挫折を受け入れ進化の糧とする少年時代があった。写真:田中研治

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 有言実行――。
 
 本田圭佑という男の人生は、このひと言に凝縮される。1986年6月13日、大阪府摂津市で生を受けた彼が、こうした信念を貫くことができたのは、挫折を味わった中学時代と、大きな成長を遂げた高校時代が大きなベースとなっていた。
 
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 小学校時代の本田は左足のキックを武器に、メキメキと頭角を現わしていった。摂津FCは全国大会に出られるような強豪ではなかったが、彼はひとりで試合を決定づけてしまう、まさにエースだった。本田は当時のことをこう振り返っている。
「小学校の時は上手い選手とやれる機会が少なかったし、地域レベルの相手だったら当然のように自分の思うようなプレーができた。『俺が一番』って環境だった」
 
 本田少年は、まさに“王様”だった。そして、「プロサッカー選手になり、世界でプレーをしたい」と、夢を膨らませていく。
 
 壮大な夢を持って、彼は関西のエリートが集結する名門のガンバ大阪ジュニアユースの門を叩いた。ところが、そこで待っていたのは、厳しい現実だった。
 
「関西の上手い奴がいっぱい集まってきていて、戸惑った。家長(昭博/現・大宮)もそのひとり。別に自分が負けているとは思わなかったけど、少なくとも確実に『俺が一番だ』って言える状況ではなかった」
 
 本田の前には常に家長の存在があった。普段は親友と言える仲だったが、ピッチに立てば妥協なく競い合い、常に周囲から同じ左利きでもある家長と比較される日々が続いた。
 
「俺は周りにどう言われようと関係なかった。プロになることだけを考えて、そのために妥協しないでプレーをする。そのことだけを意識し続けていた」
 
 しかし、その熱い想いとは裏腹に、本田の評価はなかなか上がらなかった。苛立ちが募り、当時の監督だった島田貴裕(現G大阪スクールマスター)に意見することもあったが、「後ろを向いても意味がないし、ふてくされても意味がない。常に前を向いて、自分の次のステップに向けて、常に前向きにプレーしろ」という島田からの言葉を胸に、練習に励んだ。
 
 本田の良さは、強い意思と行動力だけではない。たとえ不満や苛立ちが募っても、人の話には必ず耳を傾けてきた。そして、必要だと感じれば素直に取り入れる、そんな自らを客観的に捉える目も持っていた。本田は当時を思い出す。
 
「あの頃は、四六時中、燃えたぎっていたからね(笑)」 強烈な反骨心と、置かれた現状を受け入れる冷静さを併せ持った本田は、その時点である明確な目標を持っていた。
 
「プロになるためには、いろんなスカウトマンや関係者にプレーを見られないといけないと思っていた。そのためには、注目度の高い高校選手権に出て活躍しなければいけない。だから選手権に出られる高校に進もうと考えていた」
 
 実はG大阪ジュニアユースに籍を置いたばかりの頃から、ユース昇格ではなく、高校でのプレーを思い描いていたと言う。
 
「中1の頃から、もう高校に行くと決めていた。たとえユースに来いと言われてもね。俺は高校サッカーを見て育ったし、高校で一番上手い選手になれば、絶対にプロになれる、というイメージがあったから」
 
 選手権へのこだわりを表わす、こんなエピソードもある。
 
 彼が中学1年で、G大阪ジュニアユースのスタッフが選手たちを集め、将来について話をしている時だった。「ユースに上がって、プロを目指したい人は手を挙げて」と問われると、本田と家長だけが手を挙げなかったという。結果的に、本田はユースに昇格できなかった。ただ、ユース昇格を果たした家長も、最後の最後まで滝川二高に進学するかどうか悩んでいたそうだ。