イエローキャブ消滅!野田社長伝説!

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一世を風靡したあの“巨乳軍団”の芸能プロダクション「イエローキャブ」が、ついに消滅!
全盛期には巨乳タレントを多数輩出し、グラビアだけではなくバラエティー界も席巻したあの「イエローキャブ」が、今月をもって事業をたたんでしまうことになった。
イエローキャブといえば、現在はサンズエンタテインメントの会長をしている野田義治。当時を知っている人には“野田社長”と言ったほうが良いかもしれない。これまで数々の伝説を残してきた偉大な人物である。

Wikipediaによると・・・
野田 義治(のだ よしはる、1946年3月28日 - )は、日本の芸能プロモーターで、芸能事務所サンズエンタテインメントの会長。トラフィックジャパンの代表取締役社長を兼任する。元イエローキャブの代表取締役社長。元渡辺プロダクション社員。

そこで、当時の輝かしい時代を思い出すために、“野田社長”について改めて調べてみた。

画像元:野田義治社長の巨乳ビジネス概論

■映画で観た高橋英樹に憧れ役者を目指して上京!
中学卒業後、自衛隊の学校に入る予定だったのが、試験に落っこちて、工業高校の電気学科に入学。当時、校則は破るのが当たり前。
いっぱしの硬派気取りで突っ張っていたから映画も石原裕次郎じゃなかった。断然、高橋英樹。高校卒業後「俳優になるんだ」と上京して「劇団こまどり」にはいったけど、食えなかった。
参考:BIG tomorrow October 2003

■毎週のように調書を取られる
劇団で俳優を目指していたこともあるが、長く続かず、歌舞伎町でバイトを始める。
野田「向いていないと思って役者は辞めた。それで、劇団時代から勤めていたモダンジャズの喫茶店のバイトに専念して、最終的には主任までいった。
あの当時は、みんな喧嘩の仕方を知っていた。刺すにしてもケツとか肩とか決まっていた。ただ、一度、黒人とやりあった時に、間違ってアイスピックを頭に刺したときは焦った。刺さりどころがよくてセーフだったが。次に働き始めたのは、ゴーゴークラブ。条例で0時までに店を閉めないといけないのに、勝手に営業を続けていたら、新宿警察が来るようになって、毎週のように調書を取られた。」
参考:FLASH 2007.6.12

■月100万を断り、7万円の月給で芸能プロのマネージャーに!
ゴーゴークラブも、グループサウンズの衰退とともにダメになった。
その後、大和企画というところで夏木マリさんの営業マネージャーを1年ぐらいやりましたが、彼女の移籍でこれも終了。
そのとき、渡辺プロに声をかけていただいて、「傘下のサンズで。いしだあゆみのマネージャーをやらないか」と言われました。
同じ時期、バンドのブッキングで知り合った業者さんに「ソープランドの支配人を月100万円でやってくれないか」といわれたんですけど、給料の話しなどせずにいしだあゆみさんのマネージャーになりました。結果7万円の給料で。
参考:BIG tomorrow October 2003

■絶対ハダカにはしない!
媒体選びには気を使った。エッチ系の男性誌に出ると「そのうち脱ぐ」というイメージを与えてしまうから、大手出版社のメジャー雑誌に絞って、毎日、編集部を回った。
参考:日経ビジネスアソシエ 2004.6.1

■「脱がせろ!」の要求には、タレントを連れて帰る!
タレントにもそれ以上脱ぎたいのなら別の事務所でやってくれと言っていた。
それでも、撮影現場に行くと「脱がせろ」という要求は出てくる。現場で突然「じゃあハダカになって」と言われ、タレントを連れて帰ったことは何度もある。
参考:日経ビジネスアソシエ 2004.6.1

■話しても分らない子には、スケジュール表を持ってきて、目の前で全ての仕事を消しゴムで消す!
頭だけ芸能人で、技術や芸は全然ないという子が多くなりすぎた。
スケジュールを消して3ヶ月も放っておけば、どんな人気のある子でも普通の人に戻る。だから消しゴムでゴシゴシ消すと、青くなりますよ、マジだと思ってね。
参考:日経ビジネスアソシエ 2004.6.1

■堀江しのぶが受賞した「平凡パンチアイドル賞」は野田社長が急遽作った賞だった!
第10代クラリオンガールに選ばれたのは、黒川ゆりであった。堀江は「平凡パンチアイドル賞」を受賞した。実は、この賞には野田が関わっていた。
野田は、クラリオンの担当者に言った。「高校生の女の子が、地方からわざわざ東京まで来て、水着姿を大勢の前で披露するんだ。何か賞くらいやったっていいだろう。」そこで急遽作られた賞であった。
参考:著書「巨乳をビジネスにした男」

■トリプルスケジュールの野田
野田は精力的に営業をして回り、堀江の仕事を次々に取ってきた。ダブルブッキングどころか、トリプルブッキングも当たり前のようにあった。
仕事上のパートナーである小森が堀江のスケジュールをチェックすると、仕事の終わり時間が次の仕事の入り時間になっていたりする。
野田は、無理やりスケジュールをねじ込んでいるうちに、業界で「トリプル・スケジュールの野田」と呼ばれるようになっていた。
参考:著書「巨乳をビジネスにした男」

■出版界の暗黙のルールを無視!
クラリオンガールを取った、かとうれいこの次の展開として、野田はまず、かとうの写真集を次から次へと出版していった。早い時には半月後にはもう新しい写真集が書店に並ぶ。が、野田のこの行動は、出版社から反感を買った。
写真集の場合「次の写真集を出すまでに、最低でも3ヶ月から半年はあける」という暗黙のルールがある。…が、野田は思った。
「3ヶ月から半年空けろというのは、出版社側の都合だ。それに、長く時間を置いても、売れないものは売れないんだ」

野田は、週刊誌の表紙を飾る写真でも、出版界の常識を破った。
競合誌である「週刊ポスト」「週刊現代」「週刊宝石」、漫画誌の「ヤングマガジン」「ヤングジャンプ」等の表紙は、いずれも女性の写真を使うことが多い。
そのため、競合誌の表紙を同じ週に同じタレントが飾ることは、タブーとされていた。…が、野田は、各誌の編集者には内緒で同じ週にわざと、かとうをぶつけることがあった。激怒して野田に迫る編集者に、野田も怒鳴り返した。
「雑誌が売れれば、それでいいんだろう!」野田は、出版社の都合でつくられた暗黙のルールなど従う気はなかった。
参考:著書「巨乳をビジネスにした男」

■イメージビデオを作ったのは野田社長だった!?
グラビアタレントの動画はDVDがまだなく、ビデオだった時代に、多分私が仕掛けた堀江しのぶが最初だったと思います。
その頃から、こだわってやってきたビジネスですから、これからも自分が納得のいくような作品作りの姿勢を守っていきたいですね。
参考:2005-09-22 野田義治社長の巨乳ビジネス概論

(written by けいぼう)