サッカーの神様はアレッサンドロ・デル・ピエロに数多くの試練を与えてきた。選手生命を脅かすほどの大けが、自分を認めない指揮官、さらにはセリエB降格……。しかし、彼はその試練をすべて乗り越えてきた。それだけでない。試練を乗り越える過程で選手として、そして人間としての“質”を高めることを繰り返してきた。もっとも、その行動指針は極めてシンプルだ。今を全力で生きる―。彼はそれだけを考えている。


Text by Givanni Battista OLIVERO/Translation by Mitsuo OGAWA

■天国と地獄の両方を知る男

 その過去は栄光に満ち、未来にも多くの可能性が広がっている。しかし、アレッサンドロ・デル・ピエロには、「今を全力で生きる」という思いしかない。そして、その思いこそが、彼をここまでけん引してきたパワーの源なのである。

 そうでなければ、11月で37歳を迎える彼が、ここまで完璧なコンディションを保つことなど不可能だったはずだ。アレックスは常に「今を全力で生きる」という意志の下、114年の歴史を誇るユヴェントスのクラブ記録のほとんどを塗り替え、“カルチョの老貴婦人”という高貴な愛称で親しまれているこの偉大なクラブの伝説になった。

 デル・ピエロのユヴェントスでの初めての公式戦出場は、1993年9月12日のフォッジャ戦だった。その日に生まれた赤ん坊が今や運転免許を取得し、選挙にも参加できる年齢になっているわけだから、月日の経つのは早い。その日からアレックスは、彼の“第二の皮膚”ともいえるビアンコネーロ(白と黒)のユニフォームとともに、多くのタイトルを手中にしながら、喜びと苦しみの両方を味わってきた。96年にチャンピオンズリーグ優勝、同年11月には東京でのインターコンティネンタルカップに勝利し世界の頂点に立った。一方、選手生命を脅かすような大ケガを経験し、2006年にはクラブ史上初のセリエB陥落という最大級の屈辱も味わってもいる。

 天国と地獄の両方を知るカンピオーネ。傷つき打ちひしがれても決してあきらめない不屈のアスリート。それがアレッサンドロ・デル・ピエロという男だ。そんな波乱万丈なサッカー人生を送ってきた男だからこそ、「今を全力で生きるだけ」という彼の言葉が重みを持つ。

■敗北から教訓と刺激を得る

 昨シーズン終盤の5月5日、デル・ピエロは新スタジアムの一室でアンドレア・アニェッリ会長と固い握手を交わしていた。1年間の契約延長で両者は合意を見たのである。当時はスタジアムはまだ完成しておらず、仕上げの工事が行われていた。しかし、クラブ側も彼自身も、新契約へのサインが新スタジアムで行われることを望んだ。

 ユーヴェにとって、アレッサンドロ・デル・ピエロという選手はどんな存在なのだろう? ミシェル・プラティニにあこがれてサッカーに打ち込んだ少年は、いつしかユーヴェでプレーすることを夢みた。そして、その夢を果たし、チーム記録を次々と塗り替えるまでになった。彼は若い頃からこのチームの歴史を学び、クラブの伝統やスタイルを骨の髄まで染み込ませた。常勝を義務付けられたチームにさらなる栄光をもたらすため、アレックスは常に敗北から多くの教訓と刺激を得ながら、このチームのシンボルとなっていったのだ。

 1994−95シーズン、彼とユーヴェとの関係を確固たるものにする事件が起きる。当時、プリマヴェーラにも所属していたアレックスに、指揮官マルチェッロ・リッピから「トップチームに合流しろ」という指令が届く。招集直後の94年12月4日のフィオレンティーナ戦。その試合でアレックスは、背後からのロングフィードをそのままジャンピングボレーで相手ゴールにたたき込むという離れ業をやってのけた。あれは、まさに“世紀のゴール”だった。今でも多くのユヴェンティーニが、「あれこそがデル・ピエロが決めた最高の、しかも最も美しいゴール」と言ってはばからない。

 ロベルト・バッジョの後継者。そんなプレッシャーが若いアレックスの肩にのしかかる。しかし、当時の彼はそんなことは全く意に介さず、ビアンコネーロでのプレーをただただ楽しんでいるだけだった。バッジョからユーヴェの背番号10を譲り受ると、その重圧に押しつぶされることなく、すぐにチームのけん引役となった。

 1995−96シーズンのチャンピオンズリーグ、美しさと非情さを兼ね備えたデル・ピエロのゴールは、相手チームのGKを驚嘆させ、ヨーロッパ中のサッカーファンを魅了した。96年のインターコンティネンタルカップでは、いわゆる“デル・ピエロ・ゾーン”から見事なゴールを決め、粘るリベル・プレートに引導を渡し、ユーヴェを史上2度目の世界王者へと導いたのである。

 1997−98シーズンには、ロナウドがいたインテルとの熾烈なスクデット争いを制し、再びスクデットを手にする。もはや彼の将来をさえぎるものは何もないと思われた。ところが、その直後、サッカーの神様は、彼に“最初の試練”を与えたのである。

■サッカーの神様からの試練

 1998年11月、ウディネーゼとの試合で、デル・ピエロは左ひざの前十字じん帯損傷という大けがを負う。サッカー人生の絶頂期に起きたアクシデントだった。翌1999−00シーズン、アメリカでの手術と長いリハビリを経て戦線復帰するも、かつての華麗で力強い動きは影をひそめた。しかし、アレックスはあきらめなかった。不屈の精神力で、彼は再び前進を始めたのだ。

 才能のある選手は大勢いる。しかし、それだけでは不十分だ。たゆまぬ努力と何事にも決してあきらめない不屈の精神力、その2つがなければ、カルチョの世界で長く戦い続けることはできない。

 大きなけがを経験することでデル・ピエロは人間的に一皮向けた。その変化はプレーの面よりも人間としての立ち居振る舞いにまず表れた。“大人のプレーヤー”となった彼は、ピッチの上だけでなく外でも何をすべきかをわきまえ、チームの模範となっていった。こうして2001−02シーズン、2002−03シーズンを連覇した彼は、自身のスクデット獲得数を5へと伸ばす。

 この2000年代前半も、順風満帆だったわけではない。ファビオ・カペッロの下では、デビュー以来初めてベンチに甘んじるという経験をした。スタンドから「デル・ピエロを使え!」の大合唱が起こる中、彼はチームの規律を乱さないためにカペッロの選択を受け入れ、同時に決して腐ることなくチャンスを待ち続けた。結果的に、カペッロのスーパーサブ起用は当たった。2004−05シーズンのスクデットを確実なものにしたサン・シーロでのミラン戦での勝利は、アレックスのオーバーヘッドによるアシストで演出されたもの(決めたのはダヴィッド・トレゼゲ)。2005−06シーズンにはインテルとのイタリア・ダービーで芸術的なFKによるゴールを決め、ユヴェンティーニを狂喜させたのだった。

 ところが、その後もサッカーの神様は彼に試練を与え続ける。カルチョ・スキャンダルの勃発によりユーヴェはセリエB降格。何人かの主力選手がチームを離れる中、ユーヴェへの忠誠を誓ったアレックスは“カルチョの煉獄”に行くことを受け入れた。そして、わずか1年でチームを再びセリエAに復帰させたのだった。

■カルチョの煉獄からの生還

 セリエBで得点王のタイトルを獲得したデル・ピエロは、翌2007−08シーズン、今度はセリエAでその偉業を成し遂げてみせる。34歳で自身初のセリエA得点王。彼がビアンコネーロのユニフォームに初めて袖を通した日から、もはや15年近くの歳月が経過しようとしていた。

 思えば、左ひざを壊しての長期欠場から復帰した1999−00シーズンは、9ゴールのうち8つがPKによる得点で、評論家からは限界説が上がり始めていた。確かに、左ひざ十字じん帯断裂の大ケガは、プレーヤーとしての彼を変えた。以前のような瞬発力を失い、ドリブルで次々と相手をかわすプレーが難しくなったのである。しかし、デル・ピエロはこれまでとは違うアプローチでゴールへの道を見いだした。相手との駆け引き、周囲との連係、そして衰えるどころかさらに研ぎ澄まされたテクニック。そして、カペッロの下でベンチ暮らしをする間、そしてセリエBでの1年間、彼は30歳にして肉体改造に着手した。地道な筋力トレーニングの結果、これまで以上のパワーを身に着けたことが、爆発的なゴール数増加という成果へとつながったのである。2007−08シーズン、自身初となるセリエA得点王のタイトルを手にして、彼は自分がまだ先頭に立ってユーヴェをけん引できることを証明したのだ。

 この頃から、ユヴェンティーニのアレックスへの信頼はこれまでとは違うものになっていく。アレックスはセリエBに落ちたチームを見捨てようとはしなかった。彼らの意識の中で、デル・ピエロはただのキャプテンや点取り屋ではなく、ユヴェントスというチームを象徴する存在にまで昇華されていく。

 コムナーレ、デッレ・アルピ、オリンピコ、そして、新設のユヴェントス・スタジアム……。ユーヴェの選手として、この4つのスタジアムでプレーした選手は、後にも先にもアレッサンドロ・デル・ピエロただ一人なのだ。

■アレックスのラストイヤー

 ユーヴェのシンボルとして過ごした栄光の日々……。ただ、間違っても彼にその栄光を振り返るような愚問を投げ掛けてはならない。答えは決まっている。彼は君の目をじっと見つめたまま、口元に小さな笑みを浮かべてこう言うだろう。「僕はまだ現役だから、過去を振り返る暇はない。次の試合に勝つことだけを考えるよ」

 デル・ピエロとはそういう男である。ここで我々は今年の5月5日、そう、アレックスがアニェッリ会長と契約延長を果たした日にもう一度立ち戻ろう。契約成立の数分後、我々報道陣の前に姿を現したアニェッリ会長は、開口一番、こう言ったのである。「これから始まるシーズンは、間違いなく、我々の偉大なキャプテンにとって最後の1年になるだろう」と。

 隣に立つアレックスに「本当なのか?」という質問が飛ぶ。彼は苦笑しながらもこう答えている。「とりあえず、今はプレーすることしか考えていないよ」

 シーズンが始まった今も、その気持ちは揺れ動いているようだ。彼は言う。「最終的な結論が出るのはもう少し先。今はピッチ上でのことに集中したい。これが“ユーヴェでの”最後のシーズンになるのか、そうじゃないのか、あるいは完全に引退の年になるのか、それはまだ僕も分からない」

 デル・ピエロが現役を長く続けられる理由、その一つに独自のトレーニング方法がある。彼はコンディション維持のために、3人のパーソナル・トレーナーを雇っている。自分だけの知識では限界があるし、チームのトレーナーを自分のためだけに使うわけにもいかない。そのため彼は、信頼できるスペシャリストを自分で雇い入れ、ヴィノーヴォ(ユーヴェの練習場)を個人練習でも使用する許可を得た。試合日を除くほぼ毎日、彼はヴィノーヴォで個別トレーニングを行う。このスタイルを取るようになってから、ケガは激減したし、コンディションの著しい低下もなくなった。近年の若返ったようなその活躍の背景には、そんな自分への投資と努力があるのだ。

 アレックスに若さを保たせているもう一つの要素が家族の存在だろう。「妻のソニアと3人の子供たちと過ごす時間は何よりの気分転換になっている」と彼は言う。

 ピッチ内外での模範的な行動と、どんな試練をも乗り越えるプロ精神から、デル・ピエロはユヴェンティーノのみならず、他チームのファンからも尊敬を集めている。サンティアゴ・ベルナベウでもオールド・トラッフォードでも、彼はスタンディング・オベーションを浴びているのだ。偉大なカンピオーネの中でも、「敵からも敬われる」存在は本当に少ない。そんな彼だからこそ、引退のうわさが流れる今シーズンも、未来のことなど考えず、目の前の試合に集中してもらいたいと思う。デル・ピエロは、ユーヴェ史上に残る偉大な選手、チームのシンボルだ。

 ただ、彼を“過去の人”扱いするのはまだ早すぎる。デル・ピエロが新生ユーヴェの重要な戦力であることを忘れてはならない。
◇今季でユーヴェ退団
・デル・ピエロが今季でユヴェントス退団「黒と白のラストシーズン」

◇日本への寄付も
・デル・ピエロの慈善団体、被災地へ約2300万円を寄付「友よ、あきらめないで」
・親日家のデル・ピエロ「日本国民の皆さんに心からエールを送ります」

◇ユヴェントスの記録を保持
・デル・ピエロが通算得点記録で単独1位に

【浅野祐介@asasukeno】1976年生まれ。『STREET JACK』、『Men's JOKER』でファッション誌の編集を5年。その後、『WORLD SOCCER KING』の副編集長を経て、『SOCCER KING(@SoccerKingJP)』の編集長に就任。『SOCCER GAME KING』ではCover&Cover Interviewページを担当。