宇佐美選手がシーズン開幕前のアウディカップ、対バルセロナ戦にスタメン出場。高い評価を得たという。日本のメディアはいつものように、「宇佐美のことをバルセロナ側の新聞は、コレコレこのように称賛した」と、伝えた。

このようなとき、日本のペンメディアは、取材した記者自らの手で、その興奮を伝えようとしない。客観報道に徹しようとするのか、装おうとするのか、第三者に言わせようとする。その手のコメントをけっこう頑張って探そうとする。で、「誰々はこう褒めていた」という方向の記事を作ろうとする。スペインのエル・ムンド・デポルティーボ紙はこうだった、スポルト紙はどうだったと、やる。ポータルサイトのトピックスは、そうした見出しで溢れることになる。

この記事を書いているアナタはどう思っているのだという素朴な疑問に襲われるのは、僕だけではないはずだ。自分の意見によほど自信がないのか。あるいは伝えようとする気がハナからないのか。まず自分の意見を述べることが礼儀。何事においても筋だ。もちろん実名を出して。でないと、伝えたがっている意志、一生懸命さは伝わらない。

外国はその逆だ。意見をキチンと述べる。良かったら良かったと言う。6だとか7だとか採点までする。署名入りで、正々堂々と。その情報を日本のメディアはいただく。外国の「意見するメディア」の恩恵を被っているのが日本のメディアだ。

いただく情報は、日本人の選手評だ。日本のメディアにとって関心があるのは日本人。片や外国メディアはそうではない。自国人以外の選手についても積極的に触れる。国の垣根なく、きわめてフェアに報道する。

日本の宇佐美についてまで、積極的にコメントしようとする。逆に、日本メディアはバルサの若手の活躍について、あるいは、バイエルンのそのほかの選手のプレイについてほとんど報じない。監督采配についてもまたしかり。

関心あるのは日本人選手のみ。宇佐美のみ。リベリーやロッベンといった宇佐美のライバル(?)が、怪我をすれば、「チャンス到来!」と、はしゃいでしまう。情けない話だ。他に取り柄のない哀れな人種に見えてくる。

外国のメディアは日本人にも興味を示すが、日本のメディアは外国人にはとんと興味を示さない。せいぜいメッシぐらい。イニエスタとシャビぐらい。要するにほんの一握りのスターだけだ。

Jリーグにいる外国人は、年々地味になるばかりだが、その理由は、選手の質が低下したからだけではない。露出度の低さに最大の原因がある。

日本人は、かつて京都にいたパク・チソンが、PSV、マンUへ移籍を果たす姿を、虚を衝かれたように驚いた。しかし、中には懲りない人がいて、彼を日本サッカー界が育てた選手のように言う人もいた。たいしたことはないだろうと油断しているうちに、ただ同然で持って行かれてしまった。見る目のなさを突かれてしまったというのが、実際の姿であるにもかかわらず。だが中には、懲りずに、「パク・チソンは日本で育った選手」と、胸を張る人もいた。

その昔、ヴェルディにいたアモローゾ(元ブラジル代表)も、日本にいるときは騒がれなかった選手だった。知る人ぞ知る選手だったが、その後、ヨーロッパでスターになると、日本で育った選手であるような言い方をする人がいた。

ポルトのフッキもそうだ。日本にいるときは、知る人ぞ知る外国人選手だった。良い選手ではあったが、けっして全国区の選手ではなかった。それが、チャンピオンズリーグでいきなり活躍するものだから、みんなビックリ。

日本にいるときから、もっと騒いでやらなければいけない選手だったのだ。日本を離れることをもっと悲しがってやらなければいけなかったのだ。