漫画「鋼の錬金術師」のモチーフとして大きく取り上げられているのが生と死。その一方で、善悪は非常に軽んじられている。

 錬金術で母を生き返らせようと失敗し、エドは右手と左足を、アルは肉体すべてを“持っていかれ”る。また2人の師である「イズミ・カーティス」は流産で失った子供の人体練成のために内臓のほとんどを失った。彼らには傷を負ったまま生きていくことが課せられているのである。それはまるで死に介入するという人間の領域を超えようとした行為に罰が与えられたかのように見える。

 確かに作品の世界では錬金術で人を作り出すことが最大の禁忌とされているが、それは宗教観や倫理観から来るものではない。個人が軍事力を持つことを抑制するためだと登場人物の口から語られている。では、エドらが人体練成により犠牲を払ったことの意味はなんであろうか。

 作中の人間たちはそれを罪の証としているし、読者としても神に等しい存在である「真理」を冒そうとした愚かな人間たちへの鉄槌と考えれば一応納得がいく。しかし当の真理は自らその犠牲を“通行料”と称しており、それほど大仰なものと捉えてはいないようだ。甘美な罠で人間を誘い、通行料として肉体の一部を奪う。徒に人間たちを惑わす真理は、敵として立ちはだかる「ホムンクルス」らよりもよほど性質が悪い。

 ホムンクルスはコミックス1巻からすでに登場。主人公らの邪魔をするというだけで悪者であるように感じられるが、彼らは彼らなりの愛や美学を重視しており、仲間を思う気持ちもある。ホムンクルスらを統べる「父」の存在とその所業が明らかになってからも、彼らの存在を悪だと強く感じることはない。ただ人間に害をなすだけのものだ。

 父の目的はコミックス21巻までに明示されてはいないが、世界を掌握すること、のようなものなのだと思う。しかしその動機がまったくもって不明。強いていえば人間への憧憬のようなものが感じられる。自らの“子”であるホムンクルスらに七つの大罪の名を冠しているのがそれを顕著に表しているではないか。好きな子に意地悪をしたい小学生のような存在を、私は悪と位置づけることはできない。

 絶対悪が存在しない中、それでもエドらは戦う。作中でマスタングが言っていたように、自分の手が届く限りの者だけを守るために。その戦いは、正義の味方が悪い敵を倒すという単純な図式ではない。

 錬金術を使いながらも圧倒的なリアリティを持つ人間同士の戦争。血なまぐさくグロテスクなホムンクルスとの戦い。紙面からは常に生と死の重圧が放たれ、無邪気な子供も、正義感にあふれた軍人も、善良な夫婦も、容赦なく命を奪われる。そのたびにエドは錬金術の無力さを感じ、それでも前を向いて歩かねばならないのだ。しかし、この作品の軸はそこにではない。

 ぎりぎりまで純度を高めたエンターテインメント。生も死も、善も悪も、挫折も成長もそれを作り上げるための要素にすぎない。錬金術も、賢者の石も、ホムンクルスも、人間の死も、当たり前に存在するものとして描き、その上で娯楽作品を作り上げる手腕は見事の一言だ。私には作者である荒川弘氏がシリアスなストーリーの所々に挿入したコメディシーンや、巻末のおまけページを総動員し、説教臭い人間賛美になることを回避しているように感じられる。なぜって?その方がおもしろくなるからに決まっているからだ。

 アニメはお好きにどうぞ、というスタンスもあっぱれ。2003年に放送されたものは原作との設定やストーリーの差異が大きく、ファンの間でも賛否両論あったようだが、表現方法が違うのに無理に似せようとするよりは思い切りがいい。かくいう私もアニメのあまりの暗さに心が折れてしまったクチだが、原作を読みきった今、4月からの新シリーズ放送が楽しみになってきた。6年前にリタイアした同胞たちよ、覚悟を決めてともにテレビの前に座ろうではないか。

(編集部:三浦ヨーコ)


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