可憐な妻と優しい旦那。

わたしたちは、誰もが羨む理想の夫婦だったはずなのに。

若くして結婚し、夫の寵愛を一身に受ける真美・27歳。

鉄壁で守られた平穏で幸せな生活が、あることをきっかけに静かに狂っていく。

そしてやがて、気付くのだ。この男が、モラハラ夫だということに。

優しく穏やかなはずの夫・陽介が、ある夜から少しずつ変わっていく。

とうとう家を飛び出し、友人の家に身を寄せた真美。反撃のための作戦会議をしようとしたその瞬間に、夫が玄関先に現れて…




陽介の独白


ーピンポーン

インターホンと向き合っていると、ふと、背中に冷たい隙間風を感じる。

自動ドアの向こうでは、雨と雪の中間のような物体が降り出していた。夜からは雪に注意と、朝のニュースで気象予報士が言っていた通りだ。

妻・真美が家を飛び出したのは、昨日の夜7時50分だった。

バッグも持たず、コートも羽織らず、まさに着の身着のままで飛び出した妻。マンションのどこかで拗ねているのかと探し回ったが、一向に見当たらない。

その後、近くのコンビニや公園を考えられる限り巡ったが、やはり真美の姿はどこにもなかった。

クレジットカードも持たせていないし、電子マネーにも無縁の妻が、一体どこに行けるというのか。

ーピンポーン

反応を示さない機械に、少し苛立ってくる。ただ、妻を心配しているだけなのに。ああ、腕のケガの具合は大丈夫だろうか。

結局昨日は一睡もできずに、夜を明かした。最近、意思疎通が出来ないことが増えたと感じてはいたが、妻があそこまでカメラを拒否するなんて、想定外だった。喜んでくれるかと思ったのに。

夜、いつ帰ってきても暖かい部屋で迎えられるよう、床暖房とエアコンは入れっぱなしにしておいた。意地を張って凍えているかもしれない妻を見つけてあげたい一心で、どこかにヒントがないか、家の中を徹底的に捜索することにした。

下品なVネックのブラウスを隠していたウォークインクローゼットと、謎の薬を隠し持っていたキッチンキャビネットは、特に念入りに調べた。

しかし、残念ながら妻の居場所を示すヒントは見つからなかった。

ーピンポーン

あの男が401号室に入っていったことはわかっている。我が家と違い外廊下のこのマンションは、どの部屋に入ったかなんて、下からでもすぐに分かるのだ。

妻が卑猥なブラウスを着て出かけたあの日、ベッドに無造作に置かれたカバンの底から、あの男の名刺が見えた。彼女が正直に話してくれるのを期待していたが、残念なことに何も語ってはくれなかった。

その後も、懲りずにその男の話題を友人と繰り広げていたことに、流石の僕も手荒い行動を取らざるを得なかった。

だけど、スマホの中のデータは全て僕のPCに保存しているし、可愛いピンクのスマホもそのままの状態で保管してある。妻が懐かしい写真や機種を見たいと思ったときには、いつでも出せるようにしてあげている。

妻の実家で、幼い頃からのアルバムを全て見せてもらった。中学の卒業アルバムに例の名前を見つけた僕は、その顔を頭に焼き付けたのだ。

名刺に記された社名を元に、あの男がいるであろう会社を何度か見に行った。いつもは取引先からの帰りに寄り道する程度だったが、今日は心配のあまり仕事を早く切り上げ、あの男の後を追うことにした。

案の定、いつもと違う路線に乗り込む姿を見て、僕は確信した。

あの男の向かう先に、妻がいると。


迫り来る陽介に、真美がとった行動とは?


「なんで、私の部屋知ってるのよ。」

呼び出し音が止まってから数分経ってもなお、留衣の顔は青ざめている。

「多分、俺だ。…尾行された。」

颯太曰く、前に陽介に似た男を会社の近くで目撃したことに加え、今日の帰り道、妙な気配を感じることがあったらしい。気付かず申し訳ないと詫びる颯太を、真美は慌てて止めた。

「全部私達夫婦の問題なのに、こんな怖い思いさせて、本当にごめんなさい。」

真美は、金縛りのように強張った体に力を込め、立ち上がった。カメラを見つめながら去って行った夫の余韻に、全身の震えはまだ収まらない。

留衣は首を横にふって、きっぱりと言った。

「夫婦のっていうか、アイツの問題よ。ていうかストーカーじゃん。もう諦めたのかな…。」
「…そんな人じゃないわ。多分、まだ、その辺にいると思う。」

音が止む直前に、陽介の後ろに小さな人影が見えた。恐らく、他の住人がエントランスに入ってきたのだろう。外面のいい陽介は、自分が"まとも"でなく見られることを嫌うため、一度その場から去ったに違いない。

しかし逆に、自分に非がないと言い切れる状況であれば、何をしでかすのかわからない。夫は、そんな男なのだ。

困惑した様子の留衣と颯太を目の当たりにし、真美はついに、ある決意を口にした。

「私、離婚したい。」




「生活のために少しくらい我慢しなきゃって、ずっと思ってた。でも、もう耐えられない。離婚に向けて、動こうと思う。」

ここに相談に行ってみようと思ってる、と、留衣に借りたパソコンで調べた相談所の連絡先を差し出した。国が運営している相談所は相談料はかからず、DVやモラハラに悩む男女の、駆け込み寺的存在だそうだ。

警察に相談したほうがいいとの意見もネット上にあったが、銀行員である陽介が通報されたことが会社にバレると、将来は閉ざされてしまう。

不思議なことに、今だに陽介に対する情のようなものは残っている。それが本当に「情」なのか、それとも「恐怖心」から来るものなのかは、まだ判断はつかないけれど。

これ以上周囲に迷惑をかけることなく解決できるのであれば、警察沙汰にはしたくないというのが、真美の本音だ。

「…だから、今日はあの家に帰る。離婚したいって、話してくる。」

「それ危険だよ。やめた方がいい。話しったって、今まで上手くいった試しがないんだろ?」

颯太の忠告に、そうだよ、と留衣も賛同する。

二人の心配は、痛いほど伝わってくる。だけど、真美は覚悟を決めていた。

「今までは、あの人の機嫌を損ねないことに必死だった。でも、もう顔色を伺う必要なんてないんだから、話し合いにならなくたって、思ってること全部言ってくる。…でも、万が一のため、一つだけお願いしていいかな。」


いよいよ最終決戦へ…。真美が立てた作戦とは?!


「もしもし?」

非通知の着信だったからだろうか。いつもはワンコールで電話に出る陽介の声が聞こえたのは、着信音が数回鳴り響いてからだった。

「真美です。今から帰ります。」

夫の暗い声に恐怖心を抱きながらも、真美はできる限り冷静な声を出すよう心がけた。隣で心配そうに見つめる留衣が、真美の手をぎゅっと握りしめる。

「マミちゃん!今どこ!?」
「…ビジネスホテル。今から帰るけど、鍵を持ってないの。今家にいる?」

真美は、嘘をついた。

このマンションにいるなんてことが知れたら、何かあるたび夫はここを訪れる。颯太を追って見つけたこの家は、真美とは全く関係のない場所であると言い張らなければならない。

咄嗟に飛び出した時は、恐怖と混乱からとても一人ではいられずに、留衣を頼ってしまった。まさか留衣のマンションが夫に見つかるなんてことは想定外だったけど、結果的に二人を巻き込んでしまったのだ。

「今すぐ戻るから、絶対どこにもいかないで。絶対!」
「わかった。」

通話が切れたことを確認すると、真美は颯太に携帯を返した。

「これでもうこのあたりからは消えたはず。…例の件、よろしくお願いします。」

少し時間差を置いた方がいいという颯太の配慮で、タクシーに乗り込んだのは電話を切ってから10分ほど経ってからだった。

自宅に近付くにつれ、どんどん増して行く恐怖心を制すように、真美は何度も深呼吸した。




「マミちゃん…心配したんだよ。おかえり。」

タクシーから降りるやいなや、陽介は真美の手をぎゅっと掴む。

いつもは暖かい掌が、氷のように冷たい。なかなか到着しない妻を待ちわびて、雪が散らつく極寒の中、外に立っていたのだろう。

「それにしても、ビジネスホテルだなんて。マミちゃん支払いは?本当にホテルにいたの?領収書もらった?タクシーのお金だって、出どころはどこなのさ?」

自分が知らない空白の1日が気になって仕方ないのだろう。陽介は部屋への道中、質問の雨を降らせ続けた。真美は相槌を打ちながら、エレベーターから降りる。

「…昔の貯金だって、あるから。」
「でも、マミちゃんカバン持っていかなかったじゃない?おかしいなあ。…まあ、続きは部屋の中で、じっくり聴きますか。」

ガチャリ。牢獄の入り口が、音を立てて開く。

「陽介さん。」

中へと誘おうとする夫の手を払いのけ、真美は夫の目をまっすぐに見据えた。

「このまま私を閉じ込めようだなんて、思わないでね。…後悔するのはあなたよ。」

留衣にお願いし、彼女のパソコンに夫の発言の録音データを保存させてもらった。また、PC内のメモには、今まで受けてきたモラハラと思われる行為を、覚えている限り詳細に記したし、撮ってもらった腕の傷の写真も、同じフォルダに保存した。

ーもし、私から昼までに連絡しなかったら、警察をすぐに呼んでほしい。

留衣と颯太に依頼したお願いが、真美の命綱だ。

呆気にとられた表情の夫に、真美は意を決して告げる。もう、後戻りはできない。

「私、あなたと別れたい。離婚してください。」

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とうとう離婚を切り出した真美に、陽介がまさかの行動に…。