花園大学文学部教授 佐々木 閑氏

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最小限の言葉だからこそもつ音の秘密――。マントラの響きはわずか262文字の“呪文経典”の神髄でもある。『般若心経』は人がものを思考する際の羅針盤にもなる。音読してみて、日常では感じられない世界に入ってみよう。

■呪文の働きの奥に「神秘」の力がある

たくさんあるお経の中で『般若心経』は、日本で「もっとも人気のあるお経」と言えるでしょう。なぜなら『般若心経』には私たちの心に働きかけてくれるものがあるからです。『般若心経』の働きは、一言でいえば「呪文」です。そしてその奥にあるのは「神秘」です。『般若心経』の262文字の短い言葉には、私たちに神秘の力を実感させる鍵の働きがあります。

まず、『般若心経』の成り立ちについて簡単に説明しましょう。『般若心経』は経典ですから、お釈迦様、つまりブッダの教えだと思っている人は多いでしょう。「『般若心経』こそが釈迦の教えのエッセンスである」という言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、それは違います。『般若心経』の作者は不明ですが、釈迦の死から500年以上たって現れた「大乗仏教」という新しい宗教運動を信奉する人たちの中にいます。その大乗仏教には様々な流派があって、そのうちの一派が、釈迦の教えを部分的に受け継ぎながらも、そこに全く別の解釈を加えて「般若経」と呼ばれる一連のお経を作ったのです。『般若心経』は、その中の一つのダイジェスト版です。ですから、『般若心経』が述べていることは必ずしも釈迦の考えではありません。それはむしろ、「釈迦の時代の教えを否定することによって、釈迦を超えようとしている経典」なのです。ですから『般若心経』は、観音という「大乗仏教を代表する菩薩様」が、舎利子(しゃりし)という「釈迦の仏教を代表する阿羅漢(あらかん)」に対して教えを説くという構成になっています。

それでは冒頭で述べた「呪文」とはどういうものでしょうか。それは、特別な力を持った文句です。“チチンプイプイ”とか“開けゴマ”とか、みんな呪文です。呪文の「呪」という字は、あまりよいイメージはありませんが、本来は「不思議な強い力」という意味で、悪意のある字ではありません。また、呪文が胡散臭いと思うのは、「迷信」と「神秘」を混同しているからです。「迷信」とは、目の前に現れている2つの現象の間に誤った因果関係を想定することで、エセ科学といえます。一方、「神秘」とは人智では説明不可能な力を感じることを指します。

例えば、重病であと1週間もたないと言われていた人が、お経から心の支えをもらいながら1年後の娘の結婚式まで永らえ、晴れ姿を目にした数日後に亡くなった。ここに、人智では説明できないお経の不思議な力を感じとるとすれば、それはその人にとって、神秘の力が間違いなく存在しているということです。摩訶不思議な呪文としての『般若心経』に充溢しているエネルギーの源泉はこの神秘の力です。この点が釈迦のオリジナルな仏教である「釈迦の仏教」とのもっとも大きな違いです。

「釈迦の仏教」の場合、外部世界に神秘の力はなく、この世は隅から隅まで論理的因果性で動いています。両者に共通点がないとは言いませんが、神秘力に関して立場はまったく対極です。『般若心経』の注釈書『般若心経秘鍵(ひけん)』を記した、弘法大師(空海)は「『般若心経』は呪文である」と喝破して崇めています。

■精神的に不思議な跳躍をもたらす

般若経の中でも最も古い『8千頌(じゅ)般若経』に書かれていることですが、般若経を信じる人にとって一番大事なのは、経文を声に出して読み、書写することです。『般若心経』はそれを端的な形で表現している経典です。さらに「羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい) 波羅羯諦(はらぎゃてい)」という最後のくだりこそが、『般若心経』の心臓部、「呪文の本体」と言っていいでしょう。

『般若心経』を「薬」の「効能書き」と「薬剤」のセットに見たてると、「羯諦羯諦」の呪文は「薬」で、「効能書き」はそこに至るまでの部分です。これは『般若心経』のとても大切な特徴で、このお経を信じれば、一切の憂いを除いてくれて、最高の智慧が得られ、魔除けにもなり、無上の悟りに至ることができる……。1500年前の作者たちも“この世の万能薬”たることをめざして『般若心経』を書き上げたのでしょう。

「ぎゃてい、ぎゃてい」が不思議な響きを持っているのは原典のサンスクリットの読みがそのまま生かされているからです。音が独特ですから、何か特別な感じがして、まさに「呪文」です。こういう呪文のことを真言(マントラ)と言いますが、呪文の効果が失せぬよう真言は漢文に翻訳する場合、意訳せず、音のままで漢字に置き換えることが多いのです。

「羯諦羯諦」の部分にはたいした意味はなく、「行った者よ、行った者よ」と言っている程度です。意味があろうがなかろうが、とにかくこの文言を1日1回でもいいので口に出して唱え、文字にして書くことが大切なのです。それを言葉に出すことで、「今、自分は空の世界というものと触れ合っている」といった、日常では感じることのできない世界へ入るための入り口にいるのです。「開け、ゴマ」と一緒です。「開け」と「ゴマ」をいくら理解しても何の意味もないわけで、それを唱えるときに何かが起こるであろうという精神的な不思議な跳躍を我々にもたらしてくれるところに重要性があります。呪文は、それをいつも心に置いておくことで、自分の心が別の世界に行くためのジャンピングボードの働きをするのです。

では、『般若心経』はいったいどういう世界を、我々に示しているのでしょうか。「般若心経」の「般若」とは「智慧」を意味する言葉です。そしてその般若心経で最も強調されているのは「空」という概念です。

■「空」の思想が『般若心経』の核

世の中は、様々に複雑な要因がからみあいながら、常に移り変わっています。そして世の中の変化のすべてを、人間が完全に予測することはできません。例えば気候変動にしても、宇宙や気象のメカニズムからある程度は予想できます。しかしこの先の気候の変化を厳密に予想することはできません。つまり人間は、何がいつどのような形で起きるかを、正確に知ることはできないのです。

古代インドの大乗仏教徒たちは、この不確かな世の中をどうとらえるべきか、様々な考察をめぐらしました。その中から生まれてきたのが「空」の思想です。変化し続ける世の中の背後には、複雑すぎるがゆえに、人智が及ばない何らかの法則がある。その「見えない変化の法則」を「空」と呼び、私たちは「空」という法則のもとで生きていると考えました。それを一番大切な宇宙原理としたのです。

ところで『般若心経』で、まずまっさきに思い浮かべるフレーズは「色即是空」ではないでしょうか。この一言が、『般若心経』の代名詞になっているとも言えるでしょう。仕事で失敗したとき、病気になったとき、失恋したとき、「この世は空だ」と心の中でつぶやいてみれば、形だけでも悟った気分になるかもしれません。決めのセリフというか、そんな風格に満ちている「色即是空」について簡単に解説しておきましょう。

実のところは、この部分は前述のように『般若心経』の最大のヤマ場というわけではありません。しかし、「空」の思想が『般若心経』の核をなしていることは確かで、それが、『般若心経』に限らず大乗仏教全般を特徴づける重要な要素であることも間違いありません。

では「色即是空」の「色」とはなんでしょう。ここの「舎利子」から始まり「亦復如是(やくぶにょぜ)」までの段は、言っている内容はとてもシンプルです。

「五蘊(ごうん)」、つまり私たち人間を構成している5つの構成要素はどれも、空性であり、「実体がない状態」そのものだと言うのです。「五蘊」とは「われわれ人間はどのようなものからできていて、どのようなありかたをしているのか」ということを釈迦が分析し、独自の思想から5つの要素に分けて把握したものです。その5つの要素とは、「色」「受」「想」「行」「識」の5種類です。

■自信を与える後押し役にもなる

かいつまんで言うと、「色」とはわれわれを構成しているもののうちの外側の要素、つまり肉体のことを指します。残る4つは内面、つまり心の世界に関係する要素です。「受」は外界からの刺激を感じ取る感受の働き、「想」はいろいろな考えをあれやこれやと組み上げたり壊したりする構想の働き、「行」は何かを行おうと考える意思の働き、「識」はあらゆる心的作用のベースとなる、認識の働きです。私たち人間は、五蘊の集合体だ、というのが釈迦の教えなのです。

しかし、『般若心経』ではそれを「実在しない」と言います。五蘊とは実在の要素ではなく、「実体を持たないという状態」に与えられた仮の名称だ、と言うのです。ここには釈迦の時代の仏教を否定する明確な主張が表れています。

『般若心経』は短い経文なので、災難が降りかかっている瞬間でも唱えることができるお守りの役目をしてくれると考えられています。悩んだ末に何かを決断したときには、その決断に自信を与える後押し役にもなります。あるいは決断する前に『般若心経』に思いを掛ければ、普通の世界とは異なるもう一つ高い真理があることを知り、自分の考えが人間のレベルでの相対的なものでしかないことに思い至るのではないでしょうか。この世の真理は、自分が正しいと思っているものも含めてほかにたくさんあることを自覚し、自分の考えに対する過信を防ぐ力にもなります。いろいろなイノベーションを起こしている人が禅や般若心経に惹かれて、そういうものの考え方をすることはよくあることです。

■『般若心経』全文――佐々木閑 訳

摩訶般若波羅蜜多心経

(1)聖なる観自在菩薩が、深遠な般若波羅蜜多(智慧の完成)の行を行じながら観察なさった。五蘊があり、そしてそれらの本質が空くうであると見たのである。そして一切の苦しみや厄いを超えたのである。

(2)舎利子よ、この世の「物質要素」(色)は「実体がないという状態」(空性)であり、「実体がないという状態」が「物質要素」である(※この一文は、サンスクリット原典にはあるが漢文には存在しない)。「物質要素」(色)は「実体がないという状態」(空性)と別ものではなく、「実体がないという状態」は「物質要素」とは別ものではない。「物質要素」(色)が「実体がないという状態」(空性)なのであり、「実体がないという状態」が「物質要素」なのである。〈五蘊のその他の要素である〉「感受作用」(受)、「構想作用」(想)、「意思作用およびその他の様々な心の作用」(行)、「認識作用」(識)についても、「物質要素」(色)と全く同じことが言える。

(3)舍利子よ、この世のすべての基本的存在要素(法)の特性は、「実体がないという状態」である。それらは起こってくることもなく、消滅することもない。汚れることもなく、清らかになることもない。減ることもなく、一杯になることもない。

(4)それゆえに、「実体がないという状態」(空)においては、「物質要素」(色)はなく、「感受作用」(受)はなく、「構想作用」(想)はなく、「意思作用およびその他の様々な心の作用」(行)はなく、「認識作用」(識)はない。「眼」はなく、「耳」はなく、「鼻」はなく、「舌」はなく、「触覚器官(身)」はなく、「意(心)」はない。「いろかたち」はなく、「音」はなく、「香り」はなく、「味」はなく、「感触」はなく、「思い浮かぶもの」はない。「眼によって起こる視覚」はなく、<「耳によって起こる聴覚」はなく、「鼻によって起こる嗅覚」はなく、「舌によって起こる味覚」はなく、「触覚器官によって起こる触覚」はなく、>「意によって起こる意識」はない。

(5)「無明」はなく、また「無明」が尽きることもない。(※以下十二支縁起を順にたどって最後にくる)「老いと死」はなく、また「老いと死」が尽きることもない。「苦」「集」「滅」「道」<という>「四し諦だい」はない。「悟りの智」もなく、〈涅ね槃はんの〉「獲得」もない。それゆえ舎利子よ、<涅槃の〉「獲得」がないのであるから

(6)それゆえ、菩薩には「獲得するということ」がないのだから、般若波羅蜜多(智慧の完成)に依り、心になんの妨げもなく過ごしている。心になんの妨げもないから、恐怖することがなく、倒錯した思いを超越しており、涅槃に入った人なのである。

(7)過去、現在、未来におられるすべてのブッダは、般若波羅蜜多(智慧の完成)に依って、この上ない正しい悟りを完全に悟られたのである。

(8)ゆえに以下のことを理解せよ。般若波羅蜜多(智慧の完成)は大いなる真しん言ごん(マントラ)であり、大いなる知力を持つ真言であり、最上の真言であり、比類なき真言であり、一切の苦しみを鎮しずめる真言であり、ウソいつわりがないから、真実なのである。

(9)般若波羅蜜多(智慧の完成)において、真言が説かれた。それは以下の如し。「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶(ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー)」(行った者よ、行った者よ、彼岸に行った者よ、向かい岸へと完全に行った者よ、悟りよ、幸いあれ)以上、『般若波羅蜜多心』が終わった。

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花園大学文学部教授 佐々木 閑
1956年、福井県生まれ。京都大学工学部および文学部卒業。同大学大学院文学研究科博士課程満期退学。米国カリフォルニア大学バークレー校留学を経て現職。文学博士。日本印度学仏教学会賞、鈴木学術財団特別賞受賞。著書は『出家的人生のすすめ』『NHK「100分de名著」ブックス般若心経』『「律」に学ぶ生き方の智慧』など多数。

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(吉田茂人=構成 吉川譲=撮影)