「合い言葉は勇気」DVD-BOX
2000年にフジテレビで放送された三谷幸喜脚本の連続ドラマ。あるひなびた村に産廃処理上の建設計画が持ちあがった。これに反対して訴訟を起こすべく、香取慎吾演じる村役場の職員・大山が村長(田中邦衛)とともに東京へ弁護士に探しに行く。しかし相手となる企業の顧問弁護士が業界でも有名な老獪な人物であり、それを知るや誰も引き受けてくれない。そのとき大山は宿泊先でたまたま見たテレビドラマで、暁仁太郎(役所広司)が弁護士を熱演する様子を目にする。大山は苦肉の策として、暁に弁護士になりすましてもらうよう依頼し、村に連れて帰るのだが……。
売れない俳優がべつの職業になりすますという設定は、同じく三谷脚本の「おやじの背中」第10話「北別府さん、どうぞ」にも通じる。なお、「合い言葉は勇気」の出演者のうち八嶋智人がこの第10話に出演、また役所広司は「おやじの背中」第2話に、國村隼は同第6話で主演している。

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人気脚本家10人が競作した今季のTBS日曜劇場「おやじの背中」。9月14日に放送された最終回、第10話は三谷幸喜脚本による「北別府さん、どうぞ」だった。主演は当初、市村正親の予定だったが病気で降板、小林隆が急遽代役を務めることになった。小林は、かつて三谷が主宰し、1994年に活動を休止した劇団「東京サンシャインボーイズ」に所属していた俳優で、その後も三谷脚本のドラマにはよく出演している。それでも主演は55歳にしてこれが初めてだったという。

初の主演ドラマでの小林の役どころは、売れない俳優「北別府」。北別府は大学病院でがんの治療を受けているものの、なかなか改善が見られない。本当に命は助かるのか、主治医の古都(小日向文世)に尋ねても、要領を得ない返事ばかり。自分が死ねば、妻(吉田羊)と別れて2人だけで暮らしているまだ8歳の息子・寅雄(須田琉雅)はどうなるのか。それが北別府には気がかりだった。

その日も治療を終えたところ、知り合いのドラマスタッフ(秋元才加)が病院ロケの撤収をしているのに遭遇、しばらく言葉を交わしたのち、スタッフは慌ただしく立ち去って行く。そのあと、北別府の手元にはドラマの衣装の白衣が残っていた。それに気づいて北別府はあわててスタッフを追いかけるのだが、すでにロケ車は病院を出たところだった。

と、そこで偶然にも息子の寅雄と鉢合わせになる。学校でけがをして担任の教師(瀬戸カトリーヌ)に連れられて来院していたのだ。病気のことはいっさい寅雄には話していなかった北別府。なぜ父親がここにいるのか、驚く寅雄に、北別府はとっさにさっきの白衣を着て、「この病院で働いている」とウソをつくのだった。寅雄は父の仕事じたい知らなかったので、すっかりだまされ、尊敬のまなざしを向けるのだが……。

病気のことを隠すためとはいえ、なぜ自分の仕事を偽る必要があったのだろうか。きっと、売れているならともかく、売れない俳優という立場が、北別府には許せなかったのだろう。それでいて、俳優としてのプライドは人一倍高いことは、息子の担任の教師に呼ばれて(北別府と連絡がつかなかったため)やって来た元妻との会話からもうかがえる。どうやらテレビドラマか映画の関係者らしい妻は、夫のために仕事を用意しても、その役に満足がいかないと断られたことがあるらしい。

息子の前で、あくまで医者としてふるまう北別府は、息子に病院内を案内してまわりながら各所で騒動を巻き起こす。この展開がいかにも三谷幸喜らしい。

思えば、三谷の作品には、テレビドラマにかぎらず演劇や映画にもこの手の、ウソでその場をしのごうとする人の話が多い。まず思い出したのは、ドラマ「合い言葉は勇気」(フジテレビ、2000年)だ。これは、産廃処理場建設に反対する村民が、弁護士を立てて裁判を起こそうとするも、引き受ける者が見つからないのでけっきょく売れない役者に弁護士になりすましてもらうというお話だった。ちなみにこのとき偽弁護士を演じたのは、「おやじの背中」第2話に主演し、今回の第10話でも、北別府がむかし共演した相手として名前が出てきた役所広司だ。

売れない俳優がある職業の人間になりすますという展開は、三谷監督・佐藤浩市主演の映画「ザ・マジックアワー」(2008年)でも見られた(この作品では、佐藤演じる俳優が殺し屋になりすます)。誰かが代役をするわけではないが、ウソでその場をしのごうとするパターンにいたっては、さらに多い。その名も「その場しのぎの男たち」という、佐藤B作主宰の劇団「東京ヴォードヴィルショー」のために書かれた舞台作品もあるし(1992年初演。同作には伊東四朗が初代首相・伊藤博文役で客演した)、1993年に東京サンシャインボーイズの上演作品として発表され、のち97年に三谷自身の手で映画化されヒットした「ラヂオの時間」も、この手の作品に入れていいだろう。あれもまた、主婦の書いたラジオドラマの台本にどんどん手を加えていくうちに話の辻褄が合わなくなり、それをスタッフや出演者が何とかごまかそうとする物語だった。おっと、忘れてはいけない。人気ドラマ「古畑任三郎」シリーズ(フジテレビ、1994年〜)も、毎回犯人がウソを突き通し、それを最終的に刑事の古畑が見破るという作品だった。もっともこれは、アメリカのドラマ「刑事コロンボ」が元ネタになっているわけだが。

おそらく三谷幸喜という作家は、ウソでその場をしのごうというときこそ、人間の本性が表れると考えているのだろう。「北別府さん、どうぞ」でも、最初のシーンからして、主治医が主人公に対しその実際の病状を隠そうとするし、ドラマの最後までウソが重要なモチーフとなっている(そういえば、小日向文世の演じる主治医の名前は古都といったけど、これって「一時しのぎにごまかすこと」を意味する「糊塗」からとったのだろうか)。

視聴者としては、主人公が息子を前にウソを突き通す姿に、笑ったりあきれたりしつつ、彼が余命いくばくもないことを思えば、そこに悲哀を感じずにはいられない。ドラマ終盤、ついに北別府は、主治医と自分の立場を逆転させ、看護師や妻まで巻きこんで一世一代の大芝居を打つことになる。ここで北別府が演じたのは、医者ばかりでなく、父親そのものでもあったはずだ。それは、息子に父親らしい姿をこれまで一度も見せたことのなかった北別府が、死ぬ前にどうしてもしておかなければいけないことだったのだと思う。

さて、父親を医者と信じこみ、自分も医者になりたいと語った息子はその後どんな仕事に就いたのか? その答えは、ドラマのラスト、小栗旬の出演する場面であきらかにされていた。ひょっとすると息子は、生前のあの熱演から父の本当の仕事に薄々気づいていたのかもしれない。

人間は子供ができたからといって、おのずと親になるというわけでもないだろう。親子関係とは、親がどこかで親らしくふるまいながら築いていくものなのだと思う。いわばこれも一種のウソというわけだが、それだけに、ウソがウソだと見破られたとたん、親子関係は揺らいだりもする。今回のドラマは、展開は三谷流ながら、そんな普遍的なテーマも読み取れた。それはこの話だけでなく、「おやじの背中」のシリーズのほかの作品にもいえることだろう。型破りな父親もたくさん出てきたが、いずれもどこかで普遍的な父親や家族像が描かれていたと思う。今後もまた、本シリーズのように、複数の脚本家が同じテーマで競作するドラマシリーズを見てみたいものだ。
(近藤正高)