前回に続き、今回の取材も気さくに応じてくれた、松尾崇鎌倉市長

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2013年6月、富士山がユネスコの世界文化遺産に登録されたことにより、日本中が“富士山フィーバー”に沸き立っている。登録後、初めての山開き以降、早速例年以上の観光客・登山客で賑わっているという。日本の象徴たる富士山の、満を持しての世界遺産登録。フィーバーは、まだまだ続くことであろう。

この富士山と時を同じくして世界文化遺産の登録を目指したのが、古都・鎌倉であることは、読者の皆さんもご存知のはずだ。そして、鎌倉が今回は、世界遺産に登録されなかったことも。

しかし、なぜ鎌倉は、世界文化遺産に登録されなかったのか。そのハッキリとした理由は、あまり知られていないように思う。かくいう筆者も、その一人だ。

そこで今回、以前に「世界遺産登録で鎌倉はどうなるの? 鎌倉市長に聞いてみた」で取材をした、鎌倉の松尾崇市長に、再び話を聞いてみることにした。市長! 鎌倉の何がダメだったのですか!?

「『鎌倉の何がダメ』なのではなく、あくまでも『武家の古都・鎌倉は今回、世界文化遺産に登録されなかった』ということですよ」と、興奮して詰めよる筆者を、笑顔で諭してくれた松尾市長。ハッ! そういえば、そうだ。ユネスコという機関が定める、世界遺産というリストに今回、鎌倉が登録されなかったというだけで、鎌倉のまちの魅力や価値が否定されたわけではない。世界遺産に登録されれば、いまの富士山のように注目の的となり、フィーバーが起きるかもしれないが、登録されなかったからといってイメージが悪くなる、人気が下がる、といった類のものではあるまい。

ただ、鎌倉世界遺産登録に期待をしていた、鎌倉市民、神奈川県民、それに日本国民は少なくなく、その分、今回の「落選」に肩を落としている人も少なくないはずだ。だからこそ、その失望を次なる希望へとつなげるべく、「落選」の理由を明確にさせておくべきではないだろうか。

「ユネスコの諮問機関・イコモスから『武家の古都・鎌倉』は『不記載』が適当と勧告された理由としては、物的証拠が不十分だった、ということに尽きます」と松尾市長。ふむ…。物的証拠とは、何ですか?

「イコモスからは、『鎌倉における幕府の権力の知見は、歴史上のものである。その普遍的価値を証明するのに十分でない』とされました。どういうことかというと、寺院や切通は当時の武家の精神的・文化的な側面を証明できるけれども、権力の所在地たる、たとえば中世ヨーロッパ都市でいうところの『領主の館』や『市庁舎』のようなものが無いため、『武家の古都』としての物的証拠が不十分、と判断されたわけです」

源頼朝が政権を得て、初めて建てたとされるのが「大蔵御所」と呼ばれる建物である。これが、イコモスのいうところの「権力の所在地」を示すもののひとつに当たると思われ、鎌倉による武家文化発祥の証ともなり得るところだが、現在、その発掘調査にまでは至っていない。

「落選」の理由をもう少し噛み砕くと、つまりはこういうことだろう。【源頼朝が開いた、鎌倉幕府から始まった武家文化。これを、「武家の古都・鎌倉」として世界文化遺産登録を申請した⇒お寺や神社、切通、やぐら(横穴式墳墓)、漁港などは現存していて、そこから当時の武家文化や武家政権の存在は証明できる⇒お寺や切通は、当時の武家の心の拠り所だったり、文化や防御性の表れである⇒だけれども、武家政権そのものや、当時の人々の暮らしを示す証拠は無い⇒「武家の古都・鎌倉」を示す要素が、すべては揃っていない】

これを筆者は、世界遺産登録に向けた準備不足とは思えなかった。世界遺産に登録されるためには、その価値の説明に必要なすべての要素が揃っていなくてはならない。鎌倉の至る所にある寺院や切通だけでも、十分に「武家の古都であった」ことは理解できる。武家が暮らしたからこそ、その精神や文化が生まれる。政権や暮らしの証拠は、幕府の建物が無くても、精神や文化の表れである寺院などから十分に感じ取れる。そしてそれこそが、建物の証拠が無いことを補って余りある「武家の古都」の証明のように、筆者には思える。つまり、「すべての要素が揃って」いると思えるわけだ(実際に、日本政府もそのように考えていたという)。

もちろん、筆者はイコモスの判断を批判しているわけではない。ただ、鎌倉世界遺産に登録されなかったことを、非難はできないと思うのだ。学校のテストに向けて、しっかり勉強をした。担任の先生も、それだけの勉強で大丈夫と言ってくれた。筆記用具も準備した。けれど…。今回は、英語と数学だけのテストだったはずなのに、なぜか、国語、社会、理科のテストまで実施された。担任の先生も知らされていなかったらしく、とても驚いた。そして生徒たちは、その準備まではできていなかった―。今回の鎌倉の「物的証拠が不十分」とは、いわばそれに近いもののような気がする。

「なぜ、今回、鎌倉の世界文化遺産登録がならなかったか。いろいろな報道もされていますが、大地震・大津波が発生する可能性や、観光客が増えることによる交通渋滞の悪化、地元住民のストレスなどについては、その理由には当たりません。これらについて、たしかにイコモス勧告で触れられてはいます。ですが、それはあくまでも、将来、資産に影響を与える『可能性』についてのものであって、『不記載』の理由とは一切関連が無いのです」と松尾市長が教えてくれた。このような誤った報道なども、鎌倉が登録されなかった理由がイマイチ良く理解されない一因となっているのだろう。

市長が続ける、「また、今回、『物的証拠が不十分』とされたのは、日本が訴えた『武家の古都・鎌倉』ではなく、イコモスが自らイメージした『武家の古都・鎌倉』というコンセプトに対してのものです。鎌倉そのものに対してではありません。なので、また別のコンセプトから見ていくと、物的証拠も十分、ということになり得るでしょう。つまり、今回の結果は、『鎌倉世界遺産にふさわしくない』と評価されたわけではなく、『(イコモスがイメージする)武家の古都・鎌倉』として登録するのは難しかった、ということを知っていただきたいです」

今回、鎌倉は世界文化遺産に登録されなかった。いや、実際にはそうではなかったのだ。鎌倉そのものが登録されなかったのではなく、あくまでも「武家の古都・鎌倉」というコンセプトが登録されなかっただけなのだ。しかも、イコモスがイメージする「武家の古都・鎌倉」においては物的証拠が不十分だった、という理由で。

世界遺産登録は、観光客を増やすためのものではなく、市民が世界に誇れるまちを目指していくスタートラインになるものです」と、前回の取材で語ってくれた松尾市長。その時に続いて、今回もまた目からウロコが落ちる思いである。

「私は、鎌倉世界遺産にふさわしいまちであると思っています。反面、課題もたくさんあります。開発により失われていく、鎌倉の豊かな自然。格式ある伝統的な建造物と、現代の建物との調和。まちの景観。寺院の境内を通り、鶴岡八幡宮の参道である若宮大路を横切るなど、大変失礼なことをしてしまっている電車の問題。これらの解決、解消に取り組み、本来あるべき鎌倉の姿に、今後100年かかってでも取り組んでいきます」と、語ってくれた松尾市長。

さらに、ロードプライシングの導入や交通規制の強化による交通渋滞の緩和を図り、地元住民と観光客とが快適に過ごせるまちづくりを進めていくという。年間のべ1,900万人が訪れる鎌倉の観光客に対しては、鎌倉のまちをもっと良くしていくための募金を、IT技術を駆使したモニターなどを利用する新しいやり方で募る施策も進められている。

「それと、あまり知られていないことなのですが、鎌倉時代の発掘・調査も実はまだまだ進んでいないのが実状なんです。また、奈良や京都には国立の博物館がありますが、鎌倉にはありません。そういう意味では、文化財の保護という意味でも足りない部分が多いと思います。今後は、県や国と、より一層連携を強めた上で、鎌倉時代の知られざる歴史をもっと多くの方々にお伝えしていくことが、鎌倉の使命であると考えています」と意気込む松尾市長。

世界遺産に登録されることは、実に素晴らしいことだ。しかし、世界遺産に登録されなくても、行政と市民が力を合わせれば、世界に誇れるまちをきっとつくりあげていくことができるはずだ。

そして、そんなまちが現代に生まれたとしたら…。50年後、100年後には、“次の時代の世界遺産”のような形で評価されるかもしれない。鎌倉が、鎌倉時代ではなく、平成時代を評価されて世界遺産となる。そんな可能性を、“これからの鎌倉”について語る松尾崇鎌倉市長の言葉に感じるのだった。
(木村吉貴/studio woofoo)