こういう勧善懲悪系の話って、完全なフィクションで、現実にはありえないような(漫画、アクション映画、ヒーロー物など)設定だったり、バイオレンス物や復讐系の話で悪役が極悪非道だったりしたら、私は受け入れて感動したり楽しむ事ができる。(あまり好きではないけど)

でも、現実に起こりそうな話で、しかも悪役は普通の一般人で、咎められる事は暴力や犯罪行為でなく「悪口」や「マナー」。

そして、そういう現実的な勧善懲悪である「イイ話」の作り手は、それを「フィクションです」と言う事はなく、あくまで「実話です」という体でこちらに提供してくる。

恐らく、元から「フィクションです」なんて言うつもりはなくて、あくまで作り手は「実話」を作ってるんだと思う。すごく手の込んだ、限りなく実話に近い実話。

その魂胆には、「障がい者やお年寄りや人種被差別者を尊重する」気持ちなんて微塵もなくて、「悪役、実際の社会に存在する自分にとって好ましくない人達(なぜか女子高生、女子大生、子連れ母親、ヤンキー、お年寄り、気の強い女性が多い)をとにかく乏しめたい」という気持ちが見え見え。こういう話で、悪役側が普通の男性サラリーマンとか男子高校生とかっていうの、全然見ない。

悪役にされる女子高生は、進学校に通う真面目そうな女子高生ではなく、あまり偏差値の高くない私立の女子高に通う茶髪でスカートが短い子、とかね。

ものすごーーーく偏ってる。

それに、なんか知らんけど「障がい者」や「お年寄り」や「真面目そうな女子」や「黒人」を勝手に弱者、被害者に仕立て上げて、勝手に罵倒を浴びせ、健常者で男である「バスの運転手」や「客室乗務員」や「サラリーマン」を勝手にヒーローに仕立て上げて、憐れみを施すかのように「弱者」を「助けてあげてる」。

もーこれが胸糞悪い以外の何かだったら一体なんなんだ。

本当に真面目に、社会的弱者の支援や、病気や障害や人種や性別や年齢による差別を失くそうと考えてる人は、こんな話を作らない。

そういう考えや行動の基本は、「全ての人が幸せに暮らす」ことなのだから、悪役を仕立て上げる必要なんてはなからない。

有川浩の「阪急電車」で、電車の中でごく普通の一般人が繰り広げるこのコピペと似た「イイ話」も、すごくすごく気持ちが悪くて、小説だからまあフィクションなんだけど、やっぱりなんか許せなかったのを思い出した。

有川浩好きな知人二人が、この手のイイ話もシェアしたりしてるんだけど、なんか変だな。って思ってしまう。

こういう話を絶賛する人って、恐らく「自分は絶対的に正しい」とか、「自分は良い人だ」って、思って疑わないんじゃないかな。

自分はヒーローだと信じていて、悪役をこてんぱんにやっつけることで、自分の正しさや優位性を押し付けてる印象。

そういう、「真面目で純粋で優しくて正しい」人の事を、否定するわけではないけど、そういう人達の向ける、そうでない人達への、無自覚の攻撃性みたいなものが、怖いなーと思ってしまう。

もちろん、電車内なんかで、酷い言葉を浴びせられる事や、酷い悪口を聞いてしまうことは、たまにだけどある。

嫌な思いをしたこともあるし、なんかあの人達、感じ悪かったなーって思う時もある。

でもそこに、物語のように「ヒーロー」が現れることはほとんどない。3年間通学で電車を使ったけど見たことない。

現実の一般人なんてそんなもの。もしマナーがあまりにも悪いときや犯罪行為が行われているときは、注意したり車掌を呼んだりすればいい話で、「ヒーロー」が生まれる必要なんて全く無い。見知らぬ人を憎んだり、絶賛したり、知らん人の間で対立構造が生まれるなんて絶対嫌だ。そんな勧善懲悪を、現実にまで望んでいない。現実では、「善」はすぐ「悪」に成り代わってしまう。

ちょっと悪口を言ったりマナーが悪かっただけの一般人を貶め、注意した人を絶賛し正しさを押し付ける、ヘイト満載のイイ話は、やっぱり嫌いだ。

「少しスッとする」気持ちも分からないことはない。だからこそ、こういう話は人気があるのだろうけど。

でもやっぱり、気持ちが悪い。地獄への道は善意で舗装されている、この言葉がぴったりだと思う。

転載元:こちらは匿名投稿『はてな匿名ダイアリー』からの転載です。

寄稿いただいた記事は2013年04月15日時点のものです。

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