中国で民間の風水師が生まれたのは明清時代で、華南地域に広がり、その流派は、福建、広東、浙江、江蘇方面に広がったグループ(形勢派)と、江西、湖北、湖南、安徽、浙江方面に広がったグループ(理気派)に分かれる。中国では、家相のことを「宅法」といい、風水の一分野として研究された。「陽宅十種」「陽宅集成」のような図解入りの図書も出された。

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日本経営管理教育協会が見る中国 第215回−笠原維信(日本経営管理教育協会副会長) 

中国の風水と家相(宅法)

 中国で民間の風水師が生まれたのは明清時代で、華南地域に広がり、その流派は、福建、広東、浙江、江蘇方面に広がったグループ(形勢派)と、江西、湖北、湖南、安徽、浙江方面に広がったグループ(理気派)に分かれる。中国では、家相のことを「宅法」といい、風水の一分野として研究された。「陽宅十種」「陽宅集成」のような図解入りの図書も出された。

家相は江戸末期に広まった

 日本では、中世に影が薄くなった風水は、江戸時代に家相としてよみがえった。18世紀に入ると、大阪で家相研究が盛んになり、「家相見」という職業人が生まれた。家相書の出版は盛んになり、文化文政期に最盛期を迎えた。出版点数は176点を数えるほどになった。

 家相見としては、つぎの3つの派(神谷古暦派、松浦東鶏派、松浦琴鶏派)が頭角を現し、大阪を拠点に活動した。

 松浦琴鶏(1774〜1850年)は、東鶏の甥だが、独立して一派をなした。多くの弟子、門人がおり、三派の中ではもっとも勢力をもち、江戸期を代表する家相見となった。代表作は「家相秘伝集」(右上画像)である。国会図書館に原書(復刻版)があったので、閲覧した。

風水を輸入して作った江戸家相書

 当時日本には家相書はなかったので、中国からの風水地理の著作が長崎貿易を通じて輸入されたものを参照して、日本なりにアレンジしたのだ。

 松浦東鶏の弟子の尾島碩聞は「家相新編」に、つぎのように書いている。

 「寛政年間に松浦東鶏起こり、当時来船せし陰陽五要奇書、協紀弁方書、五種秘窮、等の諸書を参考し、陰陽五行の定理によりてその善悪を弁じ、家相図解、家相大全等の諸書を著し別に一家の新説を述ぶ。」

 ここに引用されている輸入書は、理気派のものなので、東鶏派、琴鶴派は、理気派の風水理論につながるといえる。

 日本の江戸時代の風水は、家相が中心になり、中国の陰宅風水(墓)は取り入れていないし、占地・選地理論は重視しなかった。

 また羅盤についての記述がないのは、羅盤とそれによる風水判定のシステムを使いこなせなかったのではないかと思われる。

風水と離れてしまった日本の家相

 明治になって江戸家相は衰え、代わりに出てきたのが九星気学(九星術)による家相である。毎年出される運勢暦の家相欄を読むと、いまの日本の家相学の現状がわかる。気学は行動するときの時期、方位の吉凶を読むためにあるので、家相(向きや間取りの吉凶)を見るには無理がある。そこで家相判断には伝統的な説を引用している。運勢暦にある「家相八方位吉凶一覧」はおなじみのものだが、その内容は「家相秘伝集」に書かれていることが多い。

 最近出る家相書には「風水家相術」のように風水をつけるものが多くなったが、羊頭狗肉だ。風水を名乗るなら、今の中国の風水書を参照し、香港、台湾の信頼できる風水師について学び、羅盤を使いこなせるようになってからにしてほしい。輸入風水書を手引きに、苦心して日本の家相を構築した江戸家相に学んでほしい。(執筆者:笠原維信・日本経営管理教育協会副会長 編集担当:水野陽子)