ワールドサッカーキング 2012.03.01(No.208)掲載]
 リオネル・メッシとクリスチアーノ・ロナウドは正真正銘のライバル関係にある。だが、世間はメッシを愛し、ロナウドに眉をひそめる。『正義のレオと悪のクリスチアーノ』の構図はどこから生まれるのだろうか。そして、このイメージのギャップはフェアなのだろうか?

Text by Barney RONAY

「誰もがメッシを好き」は果たしてフェアなのだろうか

 サッカー界のライバル関係というものを考えれば、クリスチアーノ・ロナウドはリオネル・メッシにもっと辛く当たってもいい。これは個人的な恨みうんぬんの話ではなく、あらゆるスポーツの現場に共通する「法則」だ。その世代の第一人者たらんとする選手は、自分をトップの座から追い落とそうとする新鋭を押さえつけるものなのである。

 しかしロナウドは、明らかにメッシを憎んでいない。トップの地位を奪われながら、その悔しさに眠れぬ夜を過ごしたという素振りも見せない。

 少し拍子抜けする話かもしれないが、おそらくこれも現在世界を席巻している「メッシ愛好現象」とでも呼ぶべきものの表れなのだろう。サッカーは常に部族間の争いであり、議論を喚起する種だった。ところが現在、一点だけ万人が同意することがある。誰もがメッシを好きなのだ。これでは二番手に追いやられたロナウドも、下手に罵声を上げるわけにはいかない。

 2人の記録や能力だけを比べれば、その差はわずかなものだろう。FKやヘディング、身体能力など、ロナウドの方が上だと思われる点も数々ある。ところが人気となると、完全にメッシの独壇場。ロナウドが好きだと「カミングアウト」する者は、それほど多くはないはずだ。世界第2位のサッカー選手に過ぎない(?)がために、ロナウドはその才能に見合った敬意を得られない。かわりに世界は、メッシの魔力に酔い続ける。

 2人の好感度の差異は、プレーというよりイメージの差異だ。バルサのカンテラで蝶よ花よと育てられ、ビッグクラブの一員としての権勢をほしいままにしているにもかかわらず、メッシにはどこか「弱者」の雰囲気がつきまとう。『スター・ウォーズ』で例えるなら、愛すべきイウォークなのだ。

 一方のロナウドはダース・モールだ。筋骨隆々たる肉体を持つ、サッカーをするためだけに作られた生き物。しかし気がつけば「オペラ座の怪人」のような日陰の存在に追いやられる……。なぜこういうことになるのだろうか。そして、これはフェアなのだろうか。

 もちろん、メッシの圧倒的人気には、納得できる理由がある。第一に、彼の方がサッカー選手として優れている。大きな差ではないにせよ、差があることは明らかだ。メッシは数多くのチャンスを作り、チームメートの力を引き出し、(少なくともクラブレベルでは)ビッグゲームで決定的な仕事をする。

 2011年のゴール数とアシスト数を振り返ると、メッシとロナウドはほぼ同列だ。得点はロナウドが48で、メッシが43(ちなみにウェイン・ルーニーは28で、セルヒオ・アグエロは27)、アシストはロナウドが16で、メッシが21。どちらも感嘆すべき数字である。

 だが、その他のスタッツに目を向けると、メッシは常にロナウドの上を行く。「君ができることは、すべて僕がしてみせよう。より華麗に、より効果的にね」とでも言わんばかりだ。

 たとえばドリブルの回数。2011年に282回のそれを記録したメッシが、他をはるかに圧倒している。2位のフランク・リベリーでも161回、ロナウドに至っては2桁の数字だ。更に多くを物語るのはパスの本数で、メッシの2425本に対して、ロナウドはその約半分に当たる1232本。逆に枠を外したシュートの数は、ロナウドがメッシより倍も多い。

 この意味は明らかだろう。ロナウドがシュートをふかす状況で、メッシは味方にパスを出しているのだ。この点が、2人の好感度の差異を生む決定打となっている可能性がある。我々はメッシの方にだけ、「創造性豊かな天才でありながら、チームプレーに徹し、自軍の勝利のために戦う男」の姿を見ているのである。

 ロナウドもまた、チームを勝たせる。ウソだと思うなら、彼が獲得したトロフィーの数を見ればいい。だが印象としては、ロナウドは「ロナウドを勝たせること」を最優先にしているように見える。おそらくはメッシとのプレースタイルの違いが、そんなイメージを持たれてしまう原因だろう。

 バレエのような優雅な身のこなしを見せるにもかかわらず、ロナウドの動きにはどこか機械めいたところがある。彼のプレーは爆発的な身体能力の発露であり、彼の勝利は高スペックのサッカーロボットの勝利なのだ。

 それに比べて、メッシはずっと目に心地良い。彼のプレーにはリズムがある。イチかバチかの一発のシュートを狙うかわりに、キレのあるドリブルや多彩なパスを使って、絶えずチームメートと絡もうとする。

 言い換えるなら、メッシがゲームを「連続性のあるスペクタクル」に仕立てるのに対し、ロナウドはゲームを「細切れのプレーの集積」に変えてしまうのだ。こちらで走り、あちらでファウルし、そちらでシュートするという具合に。

 ロナウドは一つの大きな音を出すだけだが、メッシは調和のとれたメロディーを奏でる。そこがメッシの魅力の大きな源泉となっている。サッカーをスペクタクルなスポーツとすることに心を配り、腕利きのプロモーターのごとくゲームの価値を高めようとする男、それがメッシのイメージだ。

■「こざかしい気取り屋」はメッシとは正反対のイメージ

 ロナウドの側に情状酌量の余地はあるのだろうか。彼が俗物根性の犠牲者であることは疑う余地がない。現在ロナウドのボスとなっているジョゼ・モウリーニョは、チェルシーの監督だった頃、ロナウドを「無教養」と評した。これはロナウドの態度に原因がある(モウリーニョは後に謝罪した)。

 ロナウドは、ポルトガルの本土の人々から見下されがちなマデイラ島で、貧しい少年時代を過ごした。彼が「イキがった貧乏人」、「チンピラの神」と見なされる背景には、おそらくその事実が潜んでいるのだろう。

 現実のロナウドは、歯並びを矯正し、ニキビを放射線で治療した、一人のシャイな少年だ。太い上腕を誇示するのは、恵まれた肉体を持つ若者にありがちなことで、それ以上の意味はない。それでも道路脇に立つ下着の広告や、荒い金遣い、度を超したオシャレ癖などによって、「こざかしい気取り屋」というイメージが作られる。メッシの健全なイメージとはまるで正反対だ。「メッシはとても控えめだ。タトゥーや髪型で外見を飾ることがない」と、広報のマーク・ボーコウスキーは言う。「彼はケンカも起こさない。いろいろな意味で優雅だよ。ロナウドやデイヴィット・ベッカムのように、自分の外見をブランド化する必要もない。バルサというクラブのイメージも、大いに彼の助けになっている。バルサの下部組織は、サッカーだけでなく、身の処し方も教え込む。それがメッシに、ある種の権威を与えている。ポルトガルとイングランドで育ったロナウドとは、そこが違う。世界のどこであれ、謙虚な人間は好かれるものだ」

 とはいえ、ここまでの議論を覆す事実も存在する。今ではメッシもファッションブランドと契約し、ポスターに登場する身の上だ。ロナウドには練習熱心な一面もある。マンチェスター・ユナイテッド時代にはチームきっての練習の虫で、自分を向上させることに誰よりも熱心に取り組んでいた。ところが模範にされるのは、今も変わらずメッシの方だ。

 誰もが認めるメッシの特徴の一つに、スポーツマンシップがある。メッシは決してダイブしない。ファウルを受けたふりもせず、痛くもないのに転げ回ったりもしない。スタッツもこれを裏付けている。昨年、ロナウドは83回ファウルを受けたが、メッシは67回だった。メッシの方が3倍の数のドリブルを仕掛けているにもかかわらずだ。

 もちろん、これは重心の低さのためでもある。メッシのように脚が短く、超人的なバランス感覚を持っているなら、バタバタ倒れないのは当然だ。対するロナウドは重心が高く、長い脚を使って高速で走る。ユナイテッド時代の監督、サー・アレックス・ファーガソンも、「あれではわずかに接触されただけでバランスを崩しかねない」と、何度も指摘していた。

■反証があっても埋まらないイメージのギャップ

 もう一つ言えるのは、メッシはダイブする必要がないということだ。13歳の時にバルサに入団して以来、メッシは称賛され、愛され、成長に必要なものすべてを与えられた。それにフィジカルコンタクトを極力避け、尽きることなくパスを回してくれるチームにいれば、プレースタイルは自然と優雅になるものだ。

 一方のロナウドは、すべてを戦って勝ち取らなければならなかった。彼は10代の頃からプレミアリーグの猛者たちに削られていた。それでレフェリーに「保護」を求めたのだろう。現に彼はそれを必要としていた。ロナウドが苦労の末にイングランドで成功を収めたことは、カンプ・ノウから離れたことのないメッシには望むべくもない勲章だ。

 実際、メッシに弱点があるとしたら、それは彼が「バルサの伝説」でしかないということだろう。代表での実績は、明らかにロナウドの方が上回る。ロナウドは06年のドイツ・ワールドカップ(以下W杯)で潜在能力を示し、ユーロ2008では魅力的な輝きを見せた。南アフリカW杯ではチームが守備的な戦術を採ったために力を発揮できなかったが、その後もチーム内での存在感を強めている。ユーロ2012のプレーオフでは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナから2ゴールを奪い、本大会出場の原動力となった。代表でのゴール数は32に上る。

 しかし……。

 いくつかの反証が存在するにもかかわらず、イメージのギャップは埋まらない。「高慢なロナウドと、謙虚なメッシ」、「チームプレーヤーのレオと、個人主義者のクリスチアーノ」、「愛すべきイウォークと、パーティーアニマル」……。これらのイメージには疑問の余地もあるのだが、アイドル視されるのは結局メッシだけだ。「本物」感を漂わせる気取らない彼のオーラが、単純に全世界で好まれるらしい。

 前述のボーコウスキーは言う。「メッシは、スタンリー・マシューズやペレのような過去の大選手が、メディアを通じて、いかにして自分のブランドとアイデンティティを高めていたかを思い起こさせる。ジネディーヌ・ジダンやディエゴ・マラドーナがそうだったように、今や世界のどこに行っても『メッシ』と言えば話が通じる。彼の何かが心の奥に響くんだ。いずれ完璧な選手になることが期待できるよ」

 メッシと他の選手との間に一線を画しているのは、おそらくこの“汚れなきイメージ”なのだろう。当代に並び立つメッシとロナウドは、サッカーがチームスポーツの傾向を強めつつある中で、それを傑出した個の力を見せつける舞台に変えた。そればかりか、そのうちの一人は、そういうサッカーを純粋で、真に好ましいものに見せている。そこにこそ、メッシの魔力の一端が現れているのだ。