日本人選手とポジションを争うライバルの怪我は喜ぶべきものなのでしょうか?残念ながらここ数日でこういった記事を目にする機会がありました。たしかに僕も日本人選手には世界で活躍してほしいと願っていますが、どんな理由であろうと選手の怪我をチャンスだと書かかれた記事を黙って見過ごすほど感覚が麻痺しているとも思っていません。

少なくとも僕たちは数カ月前に大きな痛みを知り、世界中から支えられてきたはずです。不運にも困難に直面した人に対して、彼らのいない今こそ、自分の国の人間が活躍する「チャンス」だと、たった数十日で考えるようになってしまったのでしょうか?もし僕たちの国が置かれている状況を「我々のチャンス」だと書いている海外の記事を読んだならば、僕は相当の怒りを覚えるでしょう。

一個人の発言なら許されるかもしれませんが、メディアとして海外の記事を翻訳して自分たちの記事にしている以上、自分たちの記事が翻訳されて相手側に伝えられる可能性もあると考えるべきです。「我々の選手が怪我をしたのに、日本人は喜んでいる」とでもされるでしょうか。記事に悪意がなくとも、外国人がそのニュアンスまで読み取れるとは限りません。

チームメイトや監督のコメント、現地新聞の記事を翻訳して「日本人選手が海外で賞賛されている」との記事を目にするのは珍しいことではなくなりました。むしろサッカーのニュースでは主流になっています。しかし「わが国の同胞が欧米人をやっつけた」とも思えてくる日本人を中心とした賞賛記事ばかり報道されることが、僕たち日本人サッカーファンにとって本当に正しいことなのでしょうか?僕にはとてもそうは思えません。

もちろん日本のメディアですから日本人選手の活躍・動向を伝えるのは大切な役目です。しかし「試合翌日の現地紙は彼らをどう評価し、採点は◯点だった」とばかりに注視することにおいては違和感を覚えます。

スポーツにおいては、現地紙の評価や外国人の視点ばかりを気にしすぎる傾向は改めるべきです。僕には6と6.5と7点はどれだけ違うのかさえ分かりません。採点ページは点数よりも出場した選手を把握し、ゲームの内容を大雑把に掴むために使うものです。

他人の微妙な感覚で現した数字は所詮、チーム全体の出来から割り出した目安にすぎず、ひとりの選手単体で取り上げることに意味はないと考えています。ある日本人選手が7.5点を付けられていると聞けば、目を見張る活躍をしたように思えますが、その他のチームメイト数人が8点だと知ったら少し印象が変わると思います。しかしそこまで取り上げるメディアは少ないでしょう。

「海外紙が絶賛」と日本人選手が褒められている記事を読むのは、僕たちに日本人にとって誇らしいことかもしれません。しかしその前に「絶賛している」とされた元の記事は、それだけ広い視野を持ってゲーム翌日の紙面を作っていることに気付くべきです。彼らは選手全員を見て、良かった選手を拾い上げて記事を書いています。日本のスポーツ新聞はJリーグをどう見ているでしょうか?

「代表監督が日本代表に招集する、海外のクラブがオファーを出す、ワールドカップで優勝する」このような条件をクリアしないと、たとえ日本で活躍している優秀な選手であっても紙面に取り上げられることのない無名選手であり続けます。

これは「今後の活躍を予知して無名選手を取り上げるべきである」という意味ではありません。取り上げる基準があまりにも世界を相手にプレーする選手に執着しすぎてるように思えるのです。

ひとつ例を挙げるとすると、僕は鹿島アントラーズのファンというわけではありませんが、野沢選手などはこれまで積み上げてきた実績に比べて、あまりにも過小評価されている選手のひとりだと感じます。